デビュー1年3ヵ月でIWGPヘビー級王座を奪取…”スーパールーキー”だった中邑真輔


2002年、新日本プロレスに田口隆祐、後藤洋央紀、山本尚史(ヨシタツ)、長尾浩志、そして中邑真輔と5人の若者が入団を果たした。

中邑は小学校からテレビを見てからプロレスが好きになったことをきっかけにレスラー志望となり、高校からレスリングを学び、青山学院大学にスカウトされて進学、在学中にもコンバットレスリングの無差別級に優勝し、パンクラスにも出場、青学のレスリング道場には修斗や和術慧舟会の選手たちも出入りしていたこともあって、サブミッションなど技術を学んだ。当時新日本プロレスのスカウト部長だった木村健悟が視察に来た際に、レスラー志望であることを訴え、入門テストを受けて合格、入門テストにはUFCで活躍する岡見勇信を受けたが不合格だったという。

合宿所入りしてからの中邑は平田淳嗣の付き人となっていたが、コーチだった木戸修から徹底的にしごかれ、スクワットの数をごまかしたら「オマエはクビだ!」ブリッジもダメなら「オマエみたいにヘニャヘニャなレスラーは見たことない」と怒鳴られることはしょっちゅうだったが、スパーリングになると中邑の敵は誰は一人もおらず無敵の強さを誇った。そんな中邑を猪木が見て過去の経歴を調べると、「こいつは使える!」と判断して、プロレスとMMAを両立させるレスラーに仕立て上げることを決めた。

この頃の新日本は中邑が入団して早々に新日本は武藤敬司、小島聡、ケンドー・カシンら選手だけでなく、当時の中心スタッフが新日本を退団、退社して全日本プロレスへ移籍、またこれまで現場を取り仕切っていた長州力、永島勝司氏も退社するなど大激震に見舞われており、猪木は2001年大晦日でジェロム・レ・バンナをMMAルールで破る殊勲を挙げた安田忠夫を新日本に復帰させ、長州&永島に代わって蝶野正洋、上井文彦氏に現場責任者を任せるなど穴埋めし、猪木はカリフォルニアのサンタモニカに新日本のロス道場がオープンさせて、MMAとプロレス両面に通用する選手を育成する戦略をスタートさせていた。

 猪木の意向を聴いた上井氏も中邑をスーパールーキーとして売り出すことを決め、8月28日の日本武道館大会で中邑は安田相手にデビューを果たし、開始から素早いタックルで安田を転倒させ、ダブルアームスープレックスを狙う安田に木戸譲りの脇固めで切り返し、ジャーマンで投げるなど善戦、試合は安田の右ストレートからのフロントスリーパーで4分26秒でギブアップ負けを喫したものの、見事な試合ぶりに猪木だけでなくの上井氏も中邑をスーパールーキーとして大いに売り出そうと決め、安田戦を終えた後の中邑は猪木のいるロス道場へ向かい、猪木にロス道場でのトレーニングだけでなく、他のMMAの道場での出稽古も志願すると、猪木は「中邑、もっと旅をしな、もっと恥をかけ」とアドバイスして中邑の行動を認め、総合格闘技道場のrAWで実戦を学び、12月に帰国、大晦日に開催された「猪木祭り」ではダニエル・グレイシーと対戦し、タックルやパンチで果敢にも向かっていったが、ダニエルはマウントを奪ってパンチを浴びせると、腕十字で捕えて中邑は無念のギブアップとなったが、猪木は叱ることはなく、中邑の頭をなでて慰めていたが、当時の新日本ファンは猪木の敷く格闘技路線に反発していたこともあって、選手だけでなくファンからも猪木からプッシュされている中邑を支持するファンは多くはなかった。

2003年5月3日 新日本プロレス初のMMAマッチで中邑はK-1のヤン・”ザ・ジャイアント”・ノルキアと対戦してギロチンチョークでタップアウトを奪い念願の初勝利、9月のJungle Fight 1にも参戦してシェーン・アイトナーを破るなど猪木の期待通りにプロレス、MMA両面で存在感を発揮、だが肝心のプロレスでは2003年のG1 CLIMAXでは安田、柴田勝頼から勝利は収めるも、2勝3敗で負け越しとなり結果が出ていなかった。

2003年12月9日の大阪府立体育会館で中邑はIWGPヘビー級王者である天山広吉に挑戦するというチャンスが与えられた、当時の新日本は新日本本隊と外敵(藤田和之、高山善廣、鈴木みのる、ボブ・サップ)中心の猪木軍という図式になっており、中邑は猪木寄りだったということで猪木軍に組み込まれていた。王者の天山は11月3日の横浜アリーナで高山を天山プレスで3カウントを奪い、念願だったIWGPヘビー級王座を奪取したばかりで勢いに乗ってことから誰もが天山が防衛すると思われていた。

 この大会は自分も観戦しており、急遽NOAHから丸藤正道も参戦して棚橋弘至の保持するU-30王座に挑戦するなど話題満載の大会だった。
 開始から慎重な立ち上がりも、中邑がロープに押し込んでビンタを放つと、エキサイトした天山は頭突きを打ち込み、エルボーのラリーも制して袈裟斬りの連打からモンゴリアンチョップを打ち込む。
 天山はマウンテンチョップを狙うと、隙を突いた中邑は膝十字で切り返し、アキレス腱固めを仕掛けるも、体格差を利用して立ち上がった天山はマウンテンチョップ、ボディースラムからニードロップ、ボディーへの頭突きからコーナーに押し込んでストンピングと圧倒する。
 天山はブレーンバスターで投げるとニールキック、ネックロック、顎へのエルボー、地獄突きと攻め込み、中邑も反撃するが天山はサミングから頭突き、モンゴリアンチョップも、突進は中邑がスピアーで迎撃すると、ジャーマンで投げてから、この当時フィニッシュだったシャイニングトライアングルで捕獲するが、持ち上げた天山は後ろへ投げる。
 天山はラリアット、エルボードロップ、サッカーボールキック、マウンテンチョップから中邑の頭部を踏みつけ、バックドロップを連発と猛ラッシュをかけ中邑は防戦一方となるが、観戦していた自分は一方的過ぎる展開に嫌な予感を感じていた。
 天山は頭突きの連打から串刺しラリアット、頭突きやモンゴリアンチョップの連打、串刺しラリアットと圧倒、しかし天山が反対側のコーナーへ振ろうとすると、切り返した中邑は下からの三角絞めで捕らえ、天山の腕が伸び切ってしまうと、天山はたまらずギブアップとなり、中邑はデビュー1年3ヵ月でIWGPヘビー級王座を奪取するという偉業を達成してしまった。

 大阪大会は棚橋vs丸藤の初対決も実現するだけでなく、WJを退団したばかりの佐々木健介の出現するなど事件があったが、デビューして1年4カ月の中邑のIWGPヘビー級王座奪取は歴史的大事件でもあった。王座を奪取した中邑に田口や山本など同期が祝福するも、先輩だった棚橋は「誰よりも憧れていたIWGPベルトをアイツはあっさりと奪取した」と嫉妬していたが、その反面下積みを経験させずにいきなりトップに押し上げられたことに同情していた。

 中邑が王座を奪取してもファンは猪木の後押しを受けているからと支持するファンは少なかった。上井氏は中邑を新日本のジャンボ鶴田みたいなシンデレラスターにしようとしていたが、鶴田も全日本プロレスで下積みを経験せずにいきなりトップ選手に押し上げられたことで周囲から白い眼で見られ、常に孤独だったように、この当時の中邑も鶴田と同じような状況に立たされていたのかもしれない。だが、棚橋は中邑がMMAの得たギャラ半分を経営が苦しくなっていた新日本に収めていることも知っていたことから、周囲から嫉妬を買う中邑の苦労を一番理解しており、中邑と二人だけになった時は「中邑、新日本を絶対辞めるなよ」と声を掛けて慰めていた。

 中邑にそんなことを考えさせる余裕もなく、この年の大晦日に開催された「K-1 Dynamaite!」でアレクセイ・イグナショフとMMAマッチで対戦することになり、第3Rで中邑がタックルを狙うとイグナショフが膝蹴りで迎撃して、中邑がダウン仕掛けたが、即座に立ち上がったことで試合終了となり、中邑のKO負けとされたが、新日本側の抗議で無効試合となるも、イグナショフの膝蹴りを顔面に受けた際に鼻骨を骨折してしまう。2004年1月4日の東京ドームでIWGP王座をかけて高山の保持するNWFヘビー級王座とのダブルタイトル戦を行い、周囲からの誹謗中傷やイグナショフ戦でのダメージとメンタルだけでなく肉体的にもガタガタな状態だったにもかかわらず、高山のエベレストジャーマンを切り返してチキンウイングアームロックで捕えてギブアップを奪い防衛とともにNWFヘビー級王座を奪取して封印も、試合後に眼窩底骨折と鼻骨骨折で欠場となり、IWGPヘビー級王座は返上となった。

IWGPヘビー級王座を返上した中邑はイグナショフとの再戦に集中し、5月22日の「K-1 ROMANEX」でイグナショフとの再戦が実現すると、2R目でサイドポジションを奪った中邑はギロチンチョークでタップアウトを奪い、リベンジ達成に成功、試合後に「今日の試合のテーマは笑顔でした」「プロレスラーは強いんです!」とアピールして、この試合を最後にMMAを封印してプロレスに専念する。

ところが11月13日の新日本プロレス大阪ドーム大会でファン投票で棚橋vs中邑が1位に選ばれたのにも関わらず、これでは客が入らないと考えた猪木が大会直前でカードを変更したことで、中邑が怒り周囲に「猪木さんが『怒りを見せろ!』というのなら、自分は猪木さんに怒りを見せていいですか?猪木さんに中指立てていいですか?」と話すと、それが「中邑が猪木を殴る」と伝わってしまったのか、猪木はタッグで対戦する藤田和之に「あいつを殺せ!」と指示し、藤田も殺すまでには至らなかったが、試合でサッカーボールキックで中邑を蹴り倒すと、試合後に猪木が現れて「怒りを見せろって言ってんだろう、中途半端なことをするな!」と中邑を殴り倒した。中邑はなぜ自分が怒っているか、理解しようとしない猪木へ失望してしまい師弟関係も壊れ、猪木と決別した。

しかし、この一件で猪木の操り人形から脱却するきっかけを作っただけでなく、プロレス一本に絞れたのも事実である。猪木との決別は今思えば中邑にとって必然だったと思う。
 猪木との決別後の2009年9月、中邑は猪木へ挑戦をアピールしたが、猪木は引退しているとして拒否、このことがきっかけで中邑だけでなく新日本プロレスも猪木という呪縛から脱することが出来た。脱猪木に成功した中邑は現在WWEで活躍し自身の選んだ道を歩んでいる。

(参考資料 柳澤健著「2011年の棚橋弘至と中邑真輔」ベースボールマガジン社「日本プロレス事件史Vol.20 入団・退団」新日本プロレスワールド 中邑が初めてIWGPヘビー級王座を戴冠した天山戦、高山とのダブルタイトル戦は新日本プロレスワールドで視聴できます)

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