テレビはプロレスから始まった…プロレス中継開始!


1953年2月1日、午後2時ちょうど、「JOAK-TV、こちらNHK東京テレビジョンであります」、当時のNHKアナウンサーだった志村正順の第1声が第3チャンネルから、その後はNHK開局式典の模様が中継された、それが日本で初めてテレビ放送が開始された瞬間だった。

そして半年後の8月28日の午前11分20秒に日本テレビも開局、この時も吉田茂首相以下、200名の著名人を招いて開局式が行われ、式典の模様は開局に備えて都内に28箇所、周辺部13箇所に設置された街頭テレビを通じて中継され、テレビ普及に大いに務めた。

最初にテレビで登場したのは大相撲で、続いて高校野球、プロ野球も放送されるようになり、日本テレビで放送された巨人vs阪神戦、プロボクシングの白井義男vsテリー・アレンの世界フライ級選手権も中継されると、街頭テレビの前に集まったファンは熱狂し、集まった群衆で都電をストップさせるような現象まで起きていた。

日本テレビが開局する前の1ケ月前である7月1日、約1年間に渡る海外武者修行を終えた力道山は日本プロレス協会を発足していたが、日本でテレビ放送が始まったことを聞いた力道山は、プロレスをテレビで放送出来ないかを考えていた。アメリカ遠征中、力道山はプロレスとテレビの綿密な関係を散々見せつけられていることから、その影響力の大きさに興味を抱いていた。

力道山は興行師である永田貞雄を通じて、日本テレビ本社の社長だった正力松太郎を訪ねた、正力松太郎は内務省(第二次大戦前の中央行政官庁。 警察・地方行政・土木などの内務行政を統轄した省庁で戦後に廃止)出身のキャリアで、その後は読売新聞社の社主となり、戦後は日本テレビ放送網に参加して初代社長となっていた。

力道山は「ぜひ、プロレスをテレビで放送してください」と熱心に頼み込んだ。正力は「プロレスリングというものが、どういうものか、その試合を見せてもらってから決めさせてもらうよ」と返答したが、正力だけでなく局内もプロレスというものを知らなった。そこで正力は編成局の各担当資料責任者に対して「プロレスというものがどんなものなのか調査せよ」と命じた。

日本テレビやNHKもテレビ放送を開始したとしても、まだこの当時はテレビは高価で庶民には手の届かない存在で、なかなか普及しなかった。そのテレビを普及するためには大相撲や野球だけでなく、新しいコンテンツが必要と考えていたところで、プロレスというコンテンツが飛び込んできたのだ。

アメリカのプロレスのフィルムと資料を取り寄せて見た正力は「力道山が白人を投げ飛ばすプロレスリングは日本人に勇気を与える、プロレスリングは必ず盛んになる、それに伴ってテレビの受像機の普及に大いに役立つぞ」と見て、放送にGOサインを出した。

同年12月6日に力道山はハワイへ飛び、当時のNWA世界ヘビー級王者だったルー・テーズに挑戦し、パワーボムの原型であるパイルドライバーの前に敗れたが、テーズに挑戦したことは日本にも報じられ、プロレスラー力道山の知名度を大いに高めた。力道山はその足でロスアンゼルスに飛び、ベン・シャープ、マイク・シャープのシャープ兄弟と契約を結び、世界タッグ王者として来日することを発表する。対戦相手にシャープ兄弟を選んだ理由は、力道山とは海外武者修行で何度も対戦しており、手の合う相手だったからだった。

旗揚げ戦の1週間前に帰国した力道山に新田社長から正式に日本テレビから放送することが決定したころが伝えられたが、大会直前になってNHKも「ウチにも放送させてほしい」と申し込んでくる。NHKは大阪放送局の試験放送で山口利夫の全日本プロレス協会の試合を放送しており、日本における初めてのプロレス中継とされているが、あくまで大阪での放送であり、東京には知られておらず、新聞にも小さく扱われたこともあって、認知度は低かった。NHKの申し込みに正力も「テレビの普及のために」と大局的見地で承諾した。

日本テレビは佐土一正、越智正典、江本三千年の3人を交代で実況させる編成で臨み、解説者には元報知新聞の田鶴浜弘氏を抜擢した。田鶴浜氏はアメリカのレスリングとボディージムに精通しており、正力社長から直々のオファーだった。対するNHKは開局第1声を発した志村アナで、解説は敢えて置かなかった。

16日には力道山が旗揚げに先立ち「開局1周年特番」の一環として「プロレスリングのみどころ」の生放送に出演、田鶴浜氏や力道山番記者だった伊集院浩と共に、アメリカにおけるプロレスの現状、ルールを説明し、プロレスリングのPRに務めた。

旗揚げ戦は19~21日、蔵前国技館3連戦という形で行われ、初日は満員とはならなかったが日本テレビとNHKが放送し、NHKはラジオでも放送された。メインで行われた力道山&木村政彦vsシャープ兄弟になると、館内は大興奮し、序盤は木村がシャープ兄弟に捕まり苦戦を強いられるが、特にシャープ兄弟の二人掛りの攻撃は、まだプロレスを見慣れない観衆が怒ると、実況していた志村アナも「これはケンカではありません、あくまでルールに定められた中の試合ですから興奮しないように」と呼びかけるなど苦心したが、力道山に交代すると、空手チョップでバッタバッタとなぎ倒し、ボディースラムで投げる。これに館内だけでなく街頭テレビを見ていた群衆を興奮のるつぼと化していった。国鉄(JR)新橋駅烏森広場にも街頭テレビが設置されたが、プロレスが始まると広場には一万人がぎっしり埋まり、中には木に登ってまで街頭テレビで放送されているプロレスを見ようとするため、志村アナも「絶対に後ろから押さないように観戦してください、無理に押したりしますと前の人達がケガをしますから木に登ってまで観戦するのはおやめください」と実況の中で呼びかけるほどだった。

旗揚げ3連戦2日、初日こそ空席が目立っていた蔵前国技館はテレビ効果もあって大観衆に埋まり超満員札止めとなり、3日も札止めになって、日本テレビだけでなくNHKも爆発的視聴率を稼ぐなど、日本プロレス旗揚げだけでなく、プロレス中継も大成功を収めた。

その後、後発で開局したKRテレビ(TBS)もプロレス中継に乗り出し、日本プロレスは日本テレビだけでなく、NHK、KRテレビの3局が放送する事態となるも、NHKは撤退する、理由は公的な競技的なスポーツでなく、私的な興行であることが明らかになったからとされている。KRテレビも後楽園球場で開催される力道山vsルー・テーズ戦の放映権を巡っての争いで日本テレビに敗れたため、プロレス中継から撤退、プロレス中継は日本テレビに一本に絞られ、1958年からは金曜8時の「三菱ダイヤモンドアワー」枠でプロレス中継のレギュラー放送がスタート、力道山のプロレスが定期的に放送されるようになり、テレビも1959年4月10日の当時の皇太子殿下(平成天皇)と美智子妃殿下のご成婚パレードの放送を機に、テレビの普及が全国的に一気に広まって、家庭でも欠かせないものになっていった。

1963年12月に力道山が急逝するが、日本テレビは放送をプロレス中継を継続する。プロレスというジャンルが日本にも根付いたことで、力道山だけのものではなくなったことを意味していたが、それと共に日本プロレスによる一団体絶対体制が崩れ、東京プロレス、国際プロレスが旗揚げされると、プロレス中継から撤退していたKRテレビことTBSがプロレス中継に進出、国際プロレスの放送を開始する。

日本プロレスはアメリカでビックネームとなったジャイアント馬場を新エースに迎え、アントニオ猪木と共に新時代を築いたが、後続に開局したNETもプロレス中継に進出し、猪木を番組のエースとして日本プロレスを放送を開始、日本プロレスは日本テレビとNETの二局で放送されるようになり、これが日本テレビと日本プロレスの間に亀裂が生じるきっかけとなる。その間に正力松太郎は政界にも復帰、読売新聞の社主にもなるが、1969年10月に死去する。

1971年12月に猪木が日本プロレスから追放される事件が起きると、日本プロレスは日本テレビで独占していた馬場をNETに登場させることを一方的に決めたことで、日本テレビは激怒し日本プロレスの放送を打ち切り、これで日本テレビからプロレス中継が消えてしまう。しかし日本テレビは「プロレス中継は正力松太郎氏の遺産だから続けなければいけない」とプロレス中継を継続させるために、馬場を説得、日本プロレスから独立した馬場は全日本プロレスを旗揚げすると、日本テレビが「全日本プロレス中継」をスタートさせることで、プロレス中継の灯を守る。

しかし、時が経つと共にプロレス中継も重要なコンテンツではなくなり、「プロレス中継は正力松太郎氏の遺産だから続けなければいけない」と考える人も少なくなった。「全日本プロレス中継」もゴールデンタイムから深夜枠に移行し30分枠と縮小され、馬場が亡くなると、日本テレビは三沢光晴の旗揚げしたプロレスリングNOAHを放送するようになるが、日本テレビは視聴率を稼げなくなった読売巨人軍を始めとしたスポーツ中継の縮小を断行、プロレス中継も対象に入り、2009年3月に「プロレスリングNOAH中継」は放送を終了、地上波からプロレス中継が消えた。

その後は「プロレスリングNOAH中継」はCSジータスで放送を継続するも、経営が苦しくなったNOAHはサイバーエージェントの傘下となり、ABEAMで配信という形で放送は継続され、代わりにジータスでの放送がなくなり、プロレス中継も年に1回開催される「小橋建太プロデュース興行」だけとなったが、辛うじて日本テレビにおけるプロレス中継の灯だけは守られていた。

そして2022年9月18日、50周年を迎えた全日本プロレスの武道館大会をBS日本テレビが放送され、日本テレビのプロレス中継スタッフもYoutubeでダイジェストながらも全日本プロレスやNOAHの過去の名勝負を配信するようになり、サブスクリプションの「Hulu」でも配信されるようになる。

2024年2月9日に日本テレビがプロレス中継70周年を記念したプロレス大会「プロレス中継 70年史 THE 日テレプロレス」が開催されることになり、全日本プロレスとNOAHが参戦することになった。現在は配信の時代となったが、時代は変わってもプロレス中継の灯だけは灯し続けている。

(参考資料=日本スポーツ出版社 竹内宏介著「テレビ・プロレス見聞45年史『金曜8時伝説』」辰巳出版 GスピリッツVol.31「特集日本プロレス」)

コメントは受け付けていません。

WordPress.com でサイトを作成

ページ先頭へ ↑