ウィル・オスプレイの先駆けとなった英国人レスラー、”人間風車”ビル・ロビンソン


1967年1月、国際プロレスが旗揚げし、翌年の1968年1月に念願だったTBSによるTV中継が開始する。この頃の国際プロレスの外国人ブッカーはグレート東郷が担当しており、ルー・テーズやダニー・ホッジなど大物選手を招聘してきたが、2月にホッジを始めとする外国人選手の出場をボイコットさせる事件が起きた。原因はブッキング料の支払いを巡ってのトラブルで、これまで破格なブッキング料を東郷に支払ってきたが、国際プロレスは旗揚げから多額な負債を抱えており、東郷に支払うブッキング料も出す余裕がないため、吉原功社長が高すぎるとしてブッキング料の値引きを要求していた。ところが東郷もブッキング料に似合った大物外国人選手を呼んできたという自負があるため、吉原社長の要求に怒り、外国人選手のボイコットという事態を招いてしまった

交渉は決裂し、東郷は自分がブッキングしていた外国人らと共に日本を離れたことで、国際プロレスから撤退したが、外国人ルートを失った国際プロレスは窮地に立たされ、テレビ中継はこれまで未放送だった録画中継を放送することで凌いだものの、ノーテレビだった大会では日本人だけの無料興行を打って、前売り券も払い戻すなどして対応していた。

だが、いつまでも外国人選手抜きの興行の開催では、テレビ中継は放送出来ないとして、TBSは早急に外国人ルートの新規開拓を吉原社長に命じるが、アメリカマットは日本プロレスがほぼ独占しており、東郷とも関係が切れたことで国際プロレスに入れる余地はなかった。そこで頼ったのは早稲田大学の先輩である八田一郎だった。

八田一郎は日本にアマチュアレスリングを根付かせたことで、日本レスリング界の父とも言われ、日本アマチュア・レスリング協会会長を務めていたが、この時期には参議院議員を務めていた。吉原は次の生中継の入る大会まで1週間しかないことから、早急に来日出来るレスラーはいないかどうかを相談する。そこで八田は昔からの親友でイギリスのジョージ・レリスコウを紹介した。レリスコウはイギリスで初めてレスリングで金メダルを獲得した国際的英雄で、アマチュアレスリング協会の理事を兼任、またイギリスプロレス界を牛耳っていた「ジョイント・プロモーション」の顔役の一人で、プロモーションの中で最も発言力が大きく、八田の愛弟子たちとも長きにわたって最高のライバル関係を築いていた。

八田は直ちにレリスコウに電話で連絡を取ると、レリスコウはすぐトニー・チャールズら4人のレスラーを用意し、レリスコウ自ら選手らを引率して日本に来日、しかしワーキングピザの取得は出来なかったため、観光ビザの来日となり、開幕戦はチャリティー興行にせざる得なかったが、開幕戦が終わると当時はまだイギリスの領土だった香港に4人を向かわせ、ワーキングビザを取得、晴れて4人のレスラーは巡業に参戦した。日本プロレス界はプロレスの本場であるアメリカから大物外国人を招聘することがステータスと言われた時代で、ヨーロッパから選手が派遣されることを聞かされた東郷も「ヨーロッパの選手?そんなの受けるはずがない」と言わしめていたが、反則どころかパンチやストンピングもない、ヨーロピアンレスリングの前に日本人選手は対応できなかったことで、日本のファンに新鮮さを呼び大きなインパクトを残した。

レリスコウが第2陣として国際プロレスに派遣したのはビル・ロビンソンだった。ロビンソンはイギリス・マンチェスター出身でビリー・ライレー・ジムでキャッチ・レスリングを取得、1959年にデビューを果たし、ジョイント・プロモーションズを中心に活動し、ヨーロッパだけでなく、インド、南米のリングに上がっており、1965年にはヨーロピアンヘビー級王者にもなっていた。
日本へは当初チャールズらと共に第1陣として送られる予定だったが、当時のロビンソンはスウェーデンへ遠征に出ており、イギリスに戻ってくるとすぐジョイントプロモーションから日本への遠征を言い渡された。

日本のマスコミにはロビンソンを「英国のテーズ」と紹介され、ファンも実力の程はいかにと注目された。ロビンソンの来日初戦は4月3日横浜スカイホールで相手は本名で試合をしていた木村政雄ことラッシャー木村だった。横浜スカイホールは後楽園ホールが日本プロレスからの圧力で使用できないかったこともあって、当時の国際プロレスの常打ち会場だった
。ロビンソンは木村相手に閂スープレックス、サイドスープレックスなど投げ技やコブラツイストなど絞め技を披露、最後はワンハンドバックブリーカーからダブルアームスープレックスで3カウントを奪い勝利、ロビンソンの洗練されたテクニックだけでなく、日本で初公開となったダブルアームスープレックスは日本で大きなインパクトを与え、日本のファンから人間風車とも言われるようになった。またロビンソンのヨーロッパスタイルのプロレスも、アメリカンプロレススタイルが主流だった日本でも新鮮さを与え、またロビンソンの紳士的な態度もあって、ファンから人気を集めた、


ロビンソンは保持していたヨーロッパヘビー級王座の防衛戦を行い、サンダー杉山、豊登の挑戦を受け、杉山は降したが、豊登には大苦戦を強いられた、この時の豊登は選手としてのピークは過ぎつつあったが自慢の怪力は健在で、豊登の腰の重さの前に思うような試合が出来ず、1-1の後で両者リングアウトに持ち込むのがやっとだったという。

シリーズを終えたロビンソンは日本を離れたが、初来日で好評を得たことで11月に再び来日、初代IWA世界ヘビー級王者を決めるリーグ戦である「第1回IWAワールドシリーズ」にエントリーすることになった。旗揚げ時の国際プロレスはTWWA王座がタイトルだったが、東郷と絶縁した際に自然消滅してしまったため、看板タイトルがなかった。そこでジョイントプロモーションを含めたヨーロッパのプロモーターらと協力して、新たな統轄組織であるIWAを創立し、ベビー級王座を創設したのだ。
第1回のIWAワールドシリーズにはロビンソンだけでなく、ジョージ・ゴーディエンコ、ザ・ロックの祖父だったピーター・メイビア、日本側からは豊登、杉山、草津がエントリーし、豊登、ロビンソン、ゴーディエンコの三選手が決勝リーグに進出、ロビンソンと豊登の間で優勝決定戦が行われ、時間切れ引き分けになったものの、リーグ戦には持ち点10のバッド・マーク・システムが採用されていたこともあって、勝ち点が残っていたロビンソンの優勝となり、初代IWA世界ヘビー級王者となった。

シリーズが終了すると吉原社長の依頼で日本に残留することになり、そのまま日本陣営に入ってエース選手となった。それと共に日本人選手のレベルアップのため、選手のトレーナーを兼任し、寺西勇やマイティ井上、アニマル浜口を指導しヨーロッパ流のレスリングを叩き込んだ。

1969年、海外武者修行からストロング小林が凱旋すると、次期エースとして売り出させることになり、ロビンソンはIWA王座を持ったままイギリスへ里帰りする。国際プロレスには12月に戻ると約束していたが、カルガリーのプロモーターであるスチュ・ハートから、当時のNWA世界ヘビー級王者だったドリー・ファンク・ジュニアへの挑戦のオファーを受けたため、ビックチャンスを逃したくないロビンソンはカルガリーへ遠征に出てしまい、その後もオーストラリアからもオファーを受けたことで年内に日本に戻れなくなってしまった。
ロビンソンが不在の間に、国際プロレスはアメリカからの外国人供給ルート拡大のためにNWAの敵対組織であるAWAと業務提携を果たし、AWA世界ヘビー級王者だったバーン・ガニアが初来日を果たす。

ロビンソンは4月にやっと再び日本に戻り「第2回IWAワールドシリーズ」に参加し、5月14日の台東区体育館で行われた優勝決定戦で小林を破って、2連連続の優勝を果たしたが、5日後の19日、仙台で杉山にリングアウト負けで敗れ王座から転落、このシリーズを最後にロビンソンはエース外国人の役目を終えて日本を離れたが、国際プロレスも約束通り年内に戻らないどころか、その間にAWAとの業務提携と果たしたことで、ロビンソンは国際プロレスでは不要の存在になってしまったのかもしれない。

日本から離れたロビンソンが向かった先はハワイで、同じイギリス出身でハワイでプロモーターとなっていた後のPWF会長となるロード・ブレアースがバーン・ガニアと親しかったこともあって、ブレアースの紹介でロビンソンはAWAへと転戦、ロビンソンはAWAのルートで国際プロレスに度々来日するようになったが、その間に国際プロレスはTBSからの放送は打ち切りになり、エースだった小林は離脱して新日本プロレスへ移ってしまう。
1974年6月に小林が返上したIWA世界ヘビー級を巡って、日本での初戦の相手である木村と王座決定戦を行い、ロビンソンが勝利して王者に返り咲くが、8月にスーパースター・ビリー・グラハムに敗れたとして王座から転落する、それは国際プロレスが作り上げた架空のものだったが、ロビンソンにしてもIWA世界ヘビー級王座にはもうこだわりがなかったのかもしれない。

同年11月に再び来日しAWA王座をかけたガニアとの試合を実現したが、翌年に国際プロレスがAWAとの提携が終わったことで、ロビンソンの国際プロレスへの参戦はこれが最後となった。

今思えばロビンソンは国際プロレスで敗れたのは杉山だけだったが、それはリングアウトによるもので、キチンとした勝ち方ではなく、小林や木村、草津もロビンソンに勝てなかったことを考えると、ロビンソンという大きな存在を越えられなかったのも、国際プロレスにとって日本人エースを作れなかった大きな要因だったのではと思う。

ロビンソンは新日本プロレスに参戦しアントニオ猪木とプロレス史に残る名勝負を繰り広げ、全日本プロレスのレギュラー外国人選手となってPWF、UNヘビー級王座を奪取、アメリカでもAWAを主に活動してきたが、1985年10月に全日本プロレスへの参戦を終えると、ひっそり引退した。

1992年にUWFインターナショナルに招かれ、AWAで対戦したニック・ボックウインクルとエキシビションで対戦、1999年には宮戸優光の招きでUWFスネークピットのヘッドコーチに就任、鈴木秀樹を育成して後進の指導に携わったが、2014年2月27日に死去、享年75歳だった。

2024年に入るとロビンソン同じイギリス出身で新日本プロレスで育ち、エース外国人選手となったウィル・オスプレイがAEWと契約を結び、アメリカを拠点とすることになったが、その先駆けがロビンソンであったことには間違いない。

(参考資料 辰巳出版 国際プロレス外伝、ベースボールマガジン社 日本プロレス事件史Vol.5『革命と夜明け』)

読み込み中…

エラーが発生しました。ページを再読み込みして、もう一度お試しください。

コメントは受け付けていません。

WordPress.com でサイトを作成

ページ先頭へ ↑