心臓部強奪!武藤敬司が新日本プロレス離脱!


 2002年1月18日、武藤敬司が新日本プロレスの契約更改が行われる当日に新聞紙上で「武藤、新日本退団、全日本移籍」が報じられ、武藤も契約更改の席で新日本を退団する旨を伝えたことで退団が決定的となり、小島聡とケンドー・カシンが追随して退団、先に退社した経理担当重役だった青木謙治氏らソフト事業部の武田有弘氏(後のNOAH社長)、企画部でマッチメークに携わっていた渡辺秀行氏、ムタのコスチュームをデザインしていたデザイナーの矢部崇寛氏、営業の神谷昭徳もこぞって全日本入りが報じられ、心臓部を持ってかれた新日本は大激震に見舞われた。

 一大ムーブメントを起こしたnWoに終止符を打った武藤は2000年3月にグレート ・ムタとしてWCWに参戦するために渡米した。このときの新日本は藤波辰爾が社長に就任するも、オーナーであるアントニオ猪木の介入で格闘技路線を推進し始めており、新日本に対する情熱を薄れた武藤は新日本との契約が切れたことから、当時のWCWの現場責任者だったエリック・ビショフの招きでグレート・ムタとしてWCWと契約して渡米したが、ムタを招いた張本人だったビショフが失脚して、人種差別主義者のビンス・ルッソーに責任者が代わっており、有色人種嫌いを公言していたルッソーは日本人のムタを邪魔者扱いしていた。武藤がアメリカに滞在している間に、日本では橋本真也が解雇され新団体設立へと動き、猪木の要請を受けた武藤は居心地の悪いWCWに見切りをつけて新日本へと戻り、頭頂部が薄くなってきた髪もスキンヘッドに剃り上げた。

 日本へ帰国したばかりの武藤に現場責任者の一人である永島勝司氏の要請で全日本プロレスに参戦することになった。当時の新日本は三沢光晴らが大量離脱して選手層が一気に薄くなった馬場元子社長の全日本プロレスと提携を永島勝司氏のルートで開始していた。2001年1月28日の全日本東京ドーム大会に参戦した武藤は最初こそは全日本参戦には乗り気にはなれなかったものの、元子夫人は太陽ケアと対戦して勝利を収めた武藤のプロレスセンスに惚れ込んでしまい、元子夫人は永島氏を通じて武藤に参戦オファーをかけ、武藤も新日本の合間を見て全日本に参戦するようになり、三冠ヘビー級王座と世界タッグ王座の5冠王に君臨、新日本でもIWGPタッグ王座も奪取したことで、両団体を股にかけて活躍し、次第に自分を必要としている全日本に居心地の良さを感じるようになった。

 そのうち元子夫人も全日本プロレスには武藤敬司が必要と考えるようになり、全日本プロレス所属で参議院議員であり、武藤ともウマの合う馳浩に「武藤さんがウチに来てくれないかな」と相談すると、馳は武藤に「全日本やらない?全日本をあげるよ」とオファーをかけ、武藤は「じゃあ頂こうかな」と即決する。武藤は猪木の要請で新日本へ戻ってきたものの、新日本を格闘技色へ染め上げようとする猪木の考えと合わなくなっていた。そういう状況で、武藤は新日本から小川直也と対戦するように指示された。武藤は対戦にあたって条件を提示、おそらく純プロレスでの試合を条件にしたと思う。武藤は小川戦のオファーを受けたことで、「この試合を飲んだら、オレのキャリアは壊される」と考えていた。小川とはムタとして対戦しているが、小川は強いだけで考えるプロレスが出来ない、ムタではムタワールドに染めきり破ったことで試合は成立させたが、武藤が考える純プロレスでは、考えるプロレスが出来ない小川ではプロレスになるどころか、試合すら成立できるかどうかわからない。小川が拒否したことで試合は流れたが、小川戦のオファーも新日本離脱に拍車をかけるきっかけになった。

 武藤は全日本とのパイプ役である永島氏を通さずに元子夫人と直接話し合った。永島氏に伝えなかったのは、猪木に知られることを警戒してのことだった。全日本プロレスが創立30周年を迎える2002年9月まで元子夫人が社長を務め、10月から武藤にバトンタッチすることを約束してもらうも、武藤も経営に関しては全くど素人だったため、不安を感じた武藤は新日本からスタッフを引き抜くことを決め、真っ先に青木氏に声をかけ口説く、青木氏は新日本の株式上場計画を推進していたが、計画の発案者である猪木自身が”上場すれば、自分の一存では新日本を動かせなくなる”とわかると手を引き、青木氏は全責任を取らされたことで新日本に嫌気を差していたが、武藤からの誘いは即答を避けた。

 ところがソフト事業部の武田氏が武藤に追随することを決めたことで、青木氏もやっと新日本を離れる決意を固め、渡辺氏、矢部氏、神谷氏も話に乗って、武藤の計画に乗り、12月にそれぞれが社長の藤波の慰留を振り切って辞表を提出して退社する。このときは誰もが武藤の計画に気づいていなかったが、武藤の一番世話になった坂口には事前に退団することを報告、坂口にも誘いをかけた。坂口は新日本の社長に就任し、新日本の経営を立て直した功労者でありながらも、猪木によって会長に棚上げされており、武藤も坂口の不遇ぶりを見て、馬場とも親しかった坂口も追随するなら、元子夫人も歓迎するだろうと考えた上で誘った。だが坂口はあくまで猪木に追随するため丁重に断るも、武藤の気持ちを察して、敢えて猪木どころか藤波、長州、永島氏にも武藤が辞めることを伝えなかった。

 武藤は次に必要なのはレスラーと考え、プライベートで仲が良かった小島聡、武藤の付き人だった棚橋弘至に声をかけた。小島はしばらく迷った末、武藤に追随することを決めるも、棚橋は「新日本プロレスが好きで入ってきましたから、新日本プロレスで自分のプロレスをやります」と断った。それでも武藤はどうしてもあと一人が欲しいと考えていたら、馳のラインでケンドー・カシンが入っていた。カシンは猪木の付き人で猪木寄りと思われていたが、新日本を影で牛耳る猪木事務所に対しての不満があり、またレスラーとしてのワンステップ上がりたいという願望も強く離脱を決めていた。

 そして1月18日に武藤は小島、カシンと共に退団、先に退社していた武田氏らと合流して全日本入りを果たすと、2月1日の新日本プロレス札幌中島体育センター大会で、蝶野正洋は猪木をリングに呼び入れた。蝶野は敵対していても武藤の味方であり、これからも新日本で武藤を支えていくと考えていたが、武藤の行動は蝶野にも内緒にしていたことで、裏切られたと怒るも、武藤の気持ちは理解していた。

 猪木は「俺は怒ってる今日は。新日本からしばらく離れている間にいろんなことが起きた。 武藤、馳、そんなことはどうでもいい。それよりも、新日本プロレスの心臓部、それを持って行かれて、俺は怒っている。そしたら蝶野が立ち上がってきた。世の中が光を失った今、 リングの上の戦いでそれを見せる。それが新日本プロレスだ。蝶野、怒ってるか、お前はみんなのこの声はお前に期待しているんだぞ!」と呼びかけると、蝶野は「会長、俺は新日本で戦うレスラーとして俺は神である猪木に聞きたい。おれはここのリングでプロレスがやりたいんですよ!!」と返す、それは武藤の気持ちを代弁するものだった。
 しかし、猪木は「俺が引退してから、ちょうど4年になる。この道をいけばどうなるものか(中略) 迷わずいけよ、いけばわかるさ。今の世の中はみんな、夢をなくして 縮こまってしまった。そんな世の中で、夢を与えるのが力道山イズムであり、猪木イズムだ。お前達が継いでくれなくて誰が継ぐ!災い転じて福となす、今お前に教えよう。お前はただの選手じゃない。 プロレス界全部を仕切っていく器量になれよ!」と現場責任者就任の話に擦りかえられてしまい、蝶野の訴えを聴かないどころか、永田裕志や中西学、棚橋、鈴木健三(KENSO)らに「誰に怒っているんだ!」と裏切った武藤への怒りをアピールさせ、健三は「明るい未来が見えません」とアピールするが、棚橋は「怒りたいのはアンタだよ」と猪木に訴えようとした、だが周囲に止められた。仮に棚橋が訴えても、武藤ら幹部達が辞めた理由を理解しようとしない猪木はおそらく聴く耳を持たないどころか、ビンタを浴びせていたのかもしれない。

 武藤らの退団を受けて全日本とのパイプ役だった永島勝司氏は武藤退団の責任を追及され退社に追いやられ、長州も新日本を退団するなど武藤退団の余波は続くが、武藤の退団劇は、これから起きる猪木体制の新日本プロレス崩壊の序章に過ぎなかった。

 武藤と小島、カシンは2月9日に全日本に入団するも、待ち受けていたのは全日本ファンからのブーイングで、ファンの間では武藤らを受け入れ難い雰囲気となっており、また川田利明や和田京平レフェリーを始めとする選手やスタッフも、武藤の移籍は全く極秘とされていたことから、武藤らの突然の移籍に戸惑うしかなかった。青木氏も全日本の経理を担当し、全日本の株式も上場する計画を立てる。ところが、全日本はCSしかテレビ中継がないのにもかかわらず、外国人選手には破格のギャラを支払っており、武藤らの高額のギャラも支払わなければならないため全日本の経理を圧迫したため、株式上場どころではなくなり、青木氏も全日本の内部事情を調べなかったことを後悔しつつ、金策に追われる状況となってしまい、武藤全日本は最初から悪戦苦闘から始まっていた。

 武藤はやっと元子夫人から社長を譲り受け、武藤も青木氏も資産を切り崩して会社に投入して全日本を運営してきたが、経営は好転せずケンドー・カシンの退団を皮切りに渡辺、武田氏など新日本から追随してきたスタッフは去り、青木氏も遂に経営不振の責任を取る形で退社、青木氏は退社した全日本のスタッフと共に王道プロレスを標榜した団体「キングスロード」を旗揚げしたが、半年足らずで消滅、青木氏はこれを機会にプロレス界から去った。

 武藤は新日本でブッカーとなった上井文彦氏の要請で度々新日本に参戦、NOAHにも参戦して三沢光晴ともタッグで対戦、橋本のZERO-ONEとも対抗戦を行い、自ら外から打って出ることで武藤全日本をアピールした。

 猪木はK-1やPRIDEとも関係を保ちつつ、新日本で格闘技路線を推進するが、猪木自身が大きくか関わった「INOKI BOM-BA-YE 2003」が大失敗に終わり、PRIDEからも追放されたことで、格闘技界での権威を大きく失墜させてしまう。それでも新日本内で格闘技路線を推進したが「アルティメットロワイヤル」など的外れな企画を打ちたてるなど、新日本のファン離れに歯止めが利かなくなり、遂にユークスへ新日本を売却、ユークス新体制でも猪木は格闘技路線を推進させようとしたが、新体制は金のかかる格闘技路線を認めず、猪木は新日本を去ってIGFを旗揚げした。

 猪木はなぜ格闘技路線を推進したのか、さまざまな意見が出ているが、猪木の中ではプロレスだけでは世間に伝えられないと感じ、格闘技に乗り出すことでプロレスというものを大きくアピールしたかったのではないだろうか、しかしK-1、PRIDEから誕生した格闘技ブームは長続きせず、プロレスというジャンルはさまざまな広がりを見せて、現在まで残った。猪木は現在のプロレスをどう見ているかわからない、いや変わったことでもうわからないのかもしれない。

 (参考資料 福留崇広著「さよならムーンサルトプレス 武藤敬司35年の全記録」別冊宝島社「新日本プロレス『崩壊』の真相」双葉社「逆説のプロレス『新日本プロレス、アントニオ猪木』新日本プロレスワールド 猪木問答は新日本プロレスワールドで視聴できます)

 

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