永田が渦中に巻き込まれた2003年大晦日の興行戦争①仁義なき戦いが勃発!


 2003年12月31日の大晦日、K-1、PRIDE、INOKI BOM-BA-YEが3大格闘イベントがTV局を巻き込み、熾烈な興行戦争を繰り広げていたが、アントニオ猪木がオーナーとなっていた新日本プロレスも否応なく巻き込まれ、永田裕志も巻き込まれていった一人だった。

 なぜ3つの格闘イベントが興行戦争となったのか?1993年5月に正道会館の石井和義館長が立ち技最強トーナメント「K-1 Grand Prix ’93」を開催し、フジテレビが放送したことで爆発的な格闘技ブームが起き、1996年にはフジテレビがゴールデンタイムでK-1を放送、ナゴヤドーム、大阪ドーム、東京ドームと三大ドームツアーを開催、テレビの視聴率も20%を越えていったことで、格闘技が視聴率を稼げるコンテンツとわかると、フジテレビだけでなく日本テレビ、TBSもこぞってK-1を放送を開始、K-1は格闘技で絶大なる人気を誇るようになった。 

  1997年10月には総合格闘技イベント「PRIDE」がスタート、当初はヒクソン・グレイシーvs高田延彦を開催するためのイベントだったはずが、ヒクソンが高田を破り大きなインパクトを与えたことで好評を得たPRIDEは「PRIDEナンバーシリーズ」として継続されたものの、このときはまだまだ人気面ではK-1には及ばなかった。だが、2000年からPRIDEも谷川貞治氏の斡旋でフジテレビで放送がスタートし、2000年5月1日に行われた桜庭和志vsホイス・グレイシー戦からPRIDE人気が一気に高まり、ファンからも認知されていった。

異種格闘技のパイオニアを自負していた猪木もPRIDEのエグゼクティブ・プロデューサーに就任することで、藤田和之や小川直也を擁している猪木事務所もK-1、PRIDEに大きく係わるようになり、2001年の大晦日にはK-1、PRIDE、猪木事務所が協力して、「INOKI BOM-BA-YE 2001」を開催、紅白歌合戦の裏番組としてTBSが放送すると14.9%の視聴率を獲得したことで、大晦日の格闘技イベントが定着、8月28日には国立競技場に進出し「Dynamite!」が開催、ゴールデンタイムでは放送されることはなかったものの、スカパーPPVの売り上げは10万件記録、9月1日の14時30分から16時54分の時間帯に録画放送されて10.6%を記録するなど、格闘技ブームはプロレスをも凌駕するようになったが、実際のところは主催のTBSがK-1にイベントを依頼し、K-1から猪木へ、そして大会運営をPRIDEの主催するDSEに発注されるシステムとなっており、DSEはまだK-1の衛星団体に過ぎず、格闘技は実質上K-1の一人勝ちだった。

2002年の大晦日には「INOKI BOM-BA-YE 2002」も開催され、視聴率も16.7%を記録するなど前年度より上回り大成功を収めたが、2003年に入るとPRIDEを運営していたDSEの社長である森下直人氏が急死、K-1も脱税で摘発された石井氏がK-1の全役職を辞任、証拠隠滅教唆容疑で逮捕される事態が起き、これまで信頼関係を結んでいた人物が同時に消えたため、K-1とPRIDEも関係は大きく一変する。
PRIDEはDSEの常務だった榊原信行氏、K-1は石井館長のアドバイザー的存在だった谷川貞治氏が後を引き継ぎFEGを設立してK-1を運営することになったが、以前からK-1の下に置かれる現状に面白くなかったDSEがK-1を出し抜こうと考え始め、これまで独占していたK-1を他局でも放送されていたことに面白くなかったフジテレビと組み、K-1から川又誠矢氏率いる反谷川グループを抱き込む。川又氏は石井館長の側近で、石井館長が逮捕された際には、自身が後継となってK-1を運営すると思っていたが、石井館長は谷川氏を後継にしたため、反発した川又氏はミルコ・クロコップと吉田秀彦を抱き込んで、二人を中心とした新格闘技イベントの旗揚げを計画していた。

ミルコは1996年3月にミルコ・タイガーのリングネームで「K-1 GRAND PRIX ’96」にエントリーし、1回戦では判定でジェロム・レ・バンナを破ったものの、準々決勝ではアーネスト・ホーストにTKO負けを喫し、ミルコ・クロコップとリングネームを改めてからはのK-1 GRAND PRIX ’99にもエントリーして、決勝まで勝ち上がるもまたしてもホーストの前にTKO負けを喫して準優勝に終わり、2000年、2001年とK-1 GRAND PRIXにエントリーするが、2000年にはまたしてもホーストに判定で敗れ、2001年は予選トーナメント1回戦で敗退するなど、優勝するまでには至らなかった。
そんなミルコを変えたのは2001年8月19日に開催された「K-1 ANDY MEMORIAL 2001」で、当時IWGPヘビー級王者だった藤田和之とMMAルールで対戦したが、藤田のタックル狙いをカウンターの膝で迎撃した際に、藤田の頭部が大流血すると、試合はドクターストップでミルコが勝利となった。

ドクターストップとはいえIWGPヘビー級王者である藤田の敗戦は大きな影響を与え、その後「INOKI BOM-BA-YE 2001」では永田裕志、「Dynamite!」では桜庭和志をKOしたことでプロレスハンターの異名を取るようになり、立ち技よりもMMAでの活躍するようになった。


川又氏の計画を知った榊原氏はミルコ獲得のために川又氏と組むことでミルコの引き抜きに成功する。ミルコの引き抜きを知った谷川氏は榊原氏に抗議するが、榊原氏は強気な態度を取って受け付けず、これでK-1とPRIDEの信頼関係が崩れ、選手の引き抜きを中心とした熾烈な仁義なき戦いへと突入していった。   

 そして2003年の大晦日も猪木がPRIDEのエグゼクティブ・プロデューサーを務めていたこともあって、DSEの主催で「INOKI BOM-BA-YE 2003」をさいたまスーパーアリーナで開催することになっており、フジテレビが放送することになっていたが、対するK-1も「Dynamite2003」をナゴヤドームで開催しTBSが放送することになっていた。ところが川又グループが新日本プロレスの取締役でありUFOの社長だった川村龍夫と組んで「INOKI BOM-BA-YE 2003」を日本テレビで放送することを進めたためPRIDE側と対立する。川村氏は2002年に格闘技イベント「UFO LEGEND」を東京ドームで開催し、日本テレビでゴールデンタイム枠にて生中継されたが、平日開催のためか観客動員は28684人、視聴率も10%と低調に終わっていたが、第2回の開催を諦めていなかった川村氏は川又氏と組み開催したのが「INOKI BOM-BA-YE 2003」だった。

こうしてDSEと川又グループは仲間割れとなり、川又グループはミルコだけでなく、藤田和之や小川直也、そして新日本プロレスを要していた猪木事務所を抱きこんでかねてから練っていた新団体計画を進め、神戸ビックウイングで「INOKI BOM-BA-YE 2003」の開催を発表する。川又氏は新団体が成功した暁には定期放送がスタートし莫大な放映権料が入る契約を日本テレビとは結び、そのうち何パーセントを猪木事務所に入ることになっていたことから、猪木事務所にとっても大きなビジネスチャンスだった。

川又グループと決別したDSE側も11月9日のPRIDE-GP決勝戦・東京ドーム大会で統括部長の高田が「今日この会場には、私の師匠である猪木さんが来てません。なぜこの世界格闘技史上歴史に残る空間に、あの人は来てないんですか? 猪木さんはPRIDEに背を向けてしまったんでしょうか? 私は、あえて一言だけ言います。去る者は追わず!」と猪木に対してPRIDE追放を宣言、「PRIDE男祭り」とタイトルを改め、さいたまスーパーアリーナで開催することを発表することで、TBS、フジ、日テレを巻き込んだ格闘技興行戦争の火蓋が切られた。(続く)

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