トーナメントで復活したWRESTLE-1、名プロデューサーが見た理想と現実

2003年にK-1とPRIDE、双方が対立したことによって頓挫したWRESTLE-1だったが、 2005年8月4日、両国国技館で「プロレス界のナンバーワンを決めるトーナメントWRESTLE-1 GRAND PRIX 2005として復活した。

 このトーナメントをプロデュースしたのは新日本プロレスの執行役員だった上井文彦氏で、新日本プロレスのマッチメーカーとして辣腕を振るったが、2004年6月に新日本プロレスの社長に就任した草間政一氏と対立、また社内からの突き上げに嫌気も差したことで新日本から退社していた。

 まだプロレス界を去るつもりはなかった上井氏に、新日本時代から懇意にしてきたK-1を要するFEG代表の谷川貞治氏が接触、上井氏と谷川氏は新日本がオーナーであるアントニオ猪木が格闘技路線を推進していたのをきっかけに、交流が生まれており、谷川氏は上井氏にプロレス興行のプロデュースを依頼してきたのだ。

 FEGからの話に乗った上井氏は新会社「有限会社ビックマウス 上井オフィス」を設立、そして新しいプロレスをやるためにはカリスマが必要として前田日明を担ぎ出した。前田とは旧UWF時代からの関係でもあったが、リングス所属だった成瀬昌由が新日本に移籍したことを受けて、新日本に引き抜かれたと勘ぐった前田は上井氏と口論となり、それ以来疎遠となっていた。前田と通じている知人の仲介で前田と再会した上井氏は前田と和解、前田も上井氏のプランに賛同し、ビックマウスのスーパーバイザーに就任したが、前田の目的はリングスから選手を引き抜き、また自身を裏切った高田延彦を要しているPRIDE潰し、PRIDEを潰した暁には、FEGも潰し格闘技界で天下を取るつもりだったという。

 2005年1月に上井氏と前田がスーパーバイザー就任の会見を開き「真のストロングスタイルを復活させる」ことをマニュフェストに掲げ、3月末にWRESTLE-1開催を発表、上井氏も前田の持っている怨念を氷解させたいとして石井館長や、パンクラスに属しつつもプロレスに回帰していた鈴木みのる、長州力とも引き合わせ、船木誠勝とも再会して和解を成立させ、上井氏も自身のルートで新日本と契約更新をしなかった柴田勝頼と村上和成を獲得、全日本プロレスやNOAHに協力を取り付けるなどして、開催に向けて下準備が出来上がっていた。

ところがFEGは上井氏が前田というカリスマを獲得したことで方針を転換し、FEGが新たに立ち上げる総合格闘技イベント「HERO’S」に前田をスーパーバイザーに招きたいと申し出てくる。FEGはPRIDEが高田延彦を統括部長として担いでいたのに対し、対抗して前田をHERO’Sのスーパーバイザーに担ぎ出そうと考えていたのだ。

 上井氏は難色を示したが設立した「ビックマウス」はFEGから資金を援助を受けていたこともあって、実質上はFEGの傘下の子会社に過ぎず、FEGの指示には逆らえないのもあったが、上井氏も「WRESTLE-1のPRのためなら」とFEGに協力せざるえず、前田も第2次UWFからプロレスより格闘技に軸を置いていたことから、FEGからの話に乗ってしまい、それと共に3月末に開催する予定だったWRESTLE-1も延期となってしまう。

 上井氏も「HERO’S」をプロデューサーとして扱われるようになったが実質上はお飾りで、仕切っていたのは谷川氏を始めとするFEGで、前田がTVの画面に登場することはあっても上井氏は登場せず、まだFEGもWRESTLE-1をPRしようともしなかった。この扱いに怒った上井氏は谷川氏に”HERO’Sのプロデューサーを降板して「WRESTLE-1をやりたい!」と食い下がったが、谷川氏は「いつか絶対にやりますから…」と答えるしかなかった。実は谷川氏はWRESTLE-1の放送をフジテレビに持ちかけていたが、「ファンタジーファイトWRESTLE-1」が中途半端に終わったことで放送に難色を示し、TBSもプロレスを放送する気はなかったのだ。谷川氏の返答を待ちきれなかった上井氏はHERO’Sのプロデューサーを降板してWRESTLE-1開催へ動くも、4月に予定していた横浜アリーナが延期とされ、さすがに開催も危ぶまれていたが、8月4日両国国技館での開催にやっと漕ぎつけた。

 上井氏は様々なテーマを散りばめた夢のカードをWRESTLE-1で実現させようとしていたのだが、FEGがトーナメント開催を要求してくる。谷川氏はDSEのハッスルと差別化させるためにトーナメントの開催を考えたのだ。上井氏は猛反発するも結局FEGに押し切られてしまい、上井氏はNOAH、健介Office、リキプロ、フリーの天龍源一郎に参戦を呼びかけたが、FEGも独自にファンタジーファイト時代にWRESTLE-1を仕切っていた渡辺行秀氏を通じて全日本に参戦を持ちかけており、いつの間にかFEGと全日本によってWRESTLE-1の主導権を握られ、上井氏の提案もFEGや全日本によって却下されていったが、上井氏は希望だったミル・マスカラス、テリー・ファンクの参戦は押し通した。

 トーナメントの1回戦として諏訪間幸平(諏訪魔)vsザ・プレデター、天龍vs村上和成、ボブ・サップvsジャイアント・バーナード、佐々木健介vs長州、グレート・ムタvs曙、秋山準vs柴田勝頼と8試合を組んだ。この頃の諏訪間はまだデビューしたばかりで、諏訪魔とは名乗っておらず、天龍はフリーとしてNOAHを主戦場にしており、前田もビックマウスのスーパーバイザーとして第1試合から観戦していた。だが上井氏が自身が推していたバーナードがサップの咬ませ犬として扱われ、長州vs健介に至っては、WJ時代の遺恨も絡んでか長州が無気力試合で一方的に負けてしまい、バックステージでは長州の態度に怒った健介の夫人である北斗晶が控室にまで怒鳴りこみ罵るなど後味の悪いものに終わってしまう。

 上井氏の理想とかけ離れたものになっていくWRESTLE-1で唯一救いだったのは秋山vs柴田で、柴田が開始早々秋山の顔面を蹴り上げ、秋山は流血今までしたことがなかった流血を経験をしたことがなかった秋山が”キラー”となって、イスで柴田を殴打、その後も二人はバチバチとやりあい、張り手合戦を制した秋山は垂直落下式エクスプロイダーを連発して3カウントを奪い好試合となったことだった。

 10月2日にWRESTLE-1のトーナメント2回戦が国立代々木競技場第二体育館で開催され、全日本のルートでTEAM 3D、ドリー・ファンク・ジュニア、アブドーラ・ザ・ブッチャーが参戦、また上井氏のルートで三沢光晴まで参戦したが、肝心のトーナメントでは1回戦を突破していた天龍が出場を辞退し、代役にドン・フライが起用され、シードとして出場していたジャマールを破ったが、秋山はサップ、健介はムタ、諏訪間は鈴木に敗れ、準決勝にはフライ、サップ、ムタ、鈴木が進出するも、渡辺氏が全日本を退社したことでFEGはWRESTLE-1から撤退し、谷川氏も上井氏に中止を勧告する。上井氏は「今の状態では皆様にお見せするプロレスが出来ないが延期しても絶対にやります。絶対に決着は付けます」と話したが、本音は自身の理想とかけ離れたものは続ける意志はなく、決勝トーナメント開催を断念、こうやって決勝トーナメントは行われることもないまま、「WRESTLE-1 GRAND PRIX 2005」が幕を閉じた。

「WRESTLE-1 GRAND PRIX 2005」が失敗した理由は上井氏一人の力だけでは限界があり、FEGや他団体の思惑を押さえられなかったのが一番の原因だった。上井氏も谷川氏とは五分の関係だったと思うが、谷川氏やFEGにしてみれば傘下の子会社としか見ておらず、いつの間にか上から上井氏を見る立場になってしまい、上井氏の理想よりもFEGの思惑を優先させた。2005年は格闘技ブームは下火になりかけていたが、FEGの力は格闘技界だけでなくプロレス界にもまだ絶大な力を誇っていたことから、上井氏一人では手に余った存在だった。

 FEGと距離を置くことを決意した上井氏は自分のプロデュースする興行を開催するために、「ビックマウス」とは別会社である「ビックマウス・ラウド」を設立、社長には村上が就任し、これまで通り前田も関わることになり、引退していた船木誠勝を担ぎ出しプロレスラーとして復帰させる計画を立てていた。9月11日に「ビックマウス・ラウド」が旗揚げされた後楽園大会は前田や船木も登場したことで大成功を収めたが、2006年2月26日の徳島大会で前田が突如脱退を宣言して船木と共に離脱してしまう。理由は前田が「自分は未完成だったUWFを進化させて、スーパーUWFを作るつもりだったが、上井さんから『そういう気持ちはない』と言われました。」と方向性の違いが理由だったが、前田がこれまで通り『HERO’S』に関わり、船木が「HERO’S」で復帰したことを考えると、前田と上井氏の決別にはFEGも一枚噛んでおり、前田と上井氏を切り離しにかかったという見方も出てくる。
 上井氏の災難はまだ続き、今度は村上と金銭の流れで対立が生じ、村上が「上井に重大な裏切りがあった」とマスコミに告発、上井氏は村上との決別を余儀なくされ、「UWAI STATION」なる新しいプロレスイベントを立ち上げ、同じく「ビックマウス・ラウド」から離脱した柴田もこれまでどおり参戦したが、柴田も上井氏に不信感を抱いて袂を分かち決別、「UWAI STATION」もスポンサーが全面撤退したことを受けて幕を閉じた。

 上井氏は西口プロレスの営業を手伝った後でプロレス界から身を引くために東京を離れて地元・大阪へ戻り、別職種に就いていたものの、新日本プロレス時代から世話になっていたアントニオ猪木との交流は続いていた。その間にDSEショックで格闘バブル崩壊、PRIDEを要したDESもUFCを要していたズッファ社に買収されて、PRIDEは事実上の終焉を迎え、谷川氏は元DSEスタッフを取り込み、「HERO’S」とPRIDE残党を合併させた格闘イベント「DREAM」を立ち上げたが、前田は合併にあたって弊害的存在とされたのか、高田延彦共に「DREAM」から外され、前田は独自で格闘イベント「THE OUTSIDER」を立ち上げ、上井氏は人脈を利用して自身のプロデュース興行を開催した。

上井氏や柴田が去った後の「ビックマウス・ラウド」は自主興行を開催できる力はなく、ZERO1を要していたファースト・オン・ステージの傘下となり、NOAHが中心となっていたGPWAに加入して村上自身も様々な団体に参戦してきたが、2010年に解散。村上は前田とも和解し、現在はフリーとして様々団体に参戦している。

柴田は前田と船木との縁もあって総合格闘家として「DREAM」に参戦、船木は2008年に全日本プロレスに参戦したことをきっかけにプロレスに回帰したため「DREAM」を離れ、柴田も桜庭和志の「Laughter7」に移籍して、引き続き「DREAM」に参戦したが、K-1やDREAMを主催していたFEGが破産したことで「DREAM」は活動停止に追いやられ、MMAで実績のなかった柴田は桜庭と共に古巣の新日本にUターンし、谷川氏もしばらくの間、表舞台から姿を消した。

「WRESTLE-1」は武藤敬司によって団体化され、「WRESTLE-1 GRAND PRIX」も団体内のNo.1を決めるトーナメントして現在も使用されている。
(参考資料 上井文彦著「『ゼロ年代』狂乱のプロレス暗黒期」谷川貞治著「平謝り」)


 

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