全日本プロレスが日本プロレスを吸収合併…馬場がリストラしたかった3人のレスラー


1973年4月13日、力道山の墓がある大田区本門寺にて大木金太郎以下、日本プロレスの所属レスラーが集合し、力道山本家から力道山未亡人である田中敬子さん、リキエンタープライズ代表取締役である山本正男が同席の元、大木が日本プロレス選手会全員の身柄を力道山本家に預けると発表、この時点で1953年から続いた日本プロレスは崩壊は決定的となった。

日本プロレスは力道山死去後もジャイアント馬場、アントニオ猪木の2大スターを中心に大盛況となっていたが、1971年12月にクーデター事件が起きると猪木が離脱して新日本プロレスを旗揚げ、1972年7月には馬場も離脱して全日本プロレスを旗揚げする。

馬場、猪木の2大スターを失った日本プロレスはたちまち観客動員だけでな唯一の資金源だったNETのテレビ中継の視聴率も大きく低下させる。そこでテコ入れのためにNET主導で新日本プロレスとの合併を計画されて合意に達したものの、猪木によってエースの座を奪わることを危惧した大木が選手会や社長だった芳の里を説き伏せて合併を握りつぶしてしまい、これを受けて合併に賛成だった坂口征二は一部選手を引き連れて新日本プロレスに合流、NETも日本プロレスの打ち切って新日本プロレスの放送へ乗り換えてしまった。

唯一の資金源だったテレビ局からの放映権料を失った日本プロレスは社長だった芳の里は経営にギブアップしたが、最初から芳の里をあてにしてなかった大木は最後に支払われた放映権料と各選手の貯金など資金をかき集め、馬場と好勝負を繰り広げたフリッツ・フォン・エリックを招きシリーズ開催を強行した。この頃には全日本プロレスもNWA入りしており、エリックも全日本プロレスに参戦かと思われたが、日本プロレスはグレート小鹿を使ってエリックと交渉して日本プロレスに参戦させることに成功、エリックも日本プロレスはまもなく崩壊することをNWA内でも伝わっていたことから、最後の義理を果たすために日本プロレスへの参戦を決めたのかもしれない。

4月16日の大阪府立体育会館大会で「アイアンクローシリーズ」が開幕し、メインは大木が自身が保持するインターナショナルヘビー級王座をかけてエリックの挑戦を受けたが、大会当日前後に日本テレビをバックにつけた全日本プロレスと、NETが乗り換えた新日本プロレスによって興行戦争を仕掛けられただけでなく、テレビ中継も失ったことで興行的に不入りとなって惨敗を喫し、さすがの大木も現実を突きつけられてしまう。4月20日に群馬県吉井町体育館で日本プロレス最後の興行が行われ、老舗団体は20年の歴史に終止符を打ったが最後の興行3000人を動員も実数は300人と寂しい入りとなったものの、外国人選手らのギャラは未払いはなくキチンと支払われた。

その一方で残務整理を始めていた芳の里が力道山家を通じて全日本プロレスに選手の身柄を預かってもらうことを持ち掛けていた、芳の里も選手会がエリックを招いてシリーズを強行しても焼け石に水で、崩壊は時間の問題ということはわかっていた。日本プロレスは力道山死去後は興行は利益があっても、力道山の残した事業は莫大な負債を抱えていたことから、日本プロレスを継続するためには利益のあった興行部門だけ切り離し、負債だけは力道山本家に押し付けた形となっていたが、馬場は力道山が建設したリキマンションに住み、日本テレビも力道山家とは交流していたこともあって日本プロレスとは完全に関係は切れたわけではなく、馬場が全日本プロレスを旗揚げする際には力道山家からも後押しを受けていた。

合併に際しては力道山家だけでなく日本テレビの社長だった小林与三次、日本テレビをバックアップし、また日本プロレスをバックアップしていた三菱電機会長だった大久保謙、元運輸大臣で全日本プロレス最高顧問だった楢崎渡、自民党議員で後に郵政大臣となる福田篤泰が話し合い、日本プロレスの選手ら身柄を全日本プロレスに移管すべく交渉を開始、4人の大物が合意に達して、楢崎から社長である馬場から伝達され、馬場もバックアップを受けていた日本テレビと力道山家の意向とあっては断ることが出来ず、条件付きで了承した。

27日に赤坂プリンスホテルで馬場、大木、力道山家を代表して敬子未亡人による共同会見が開かれ、大木、高千穂明久(ザ・グレート・カブキ)、上田馬之助、小鹿、松岡巌鉄、ミツ・ヒライ、桜田一男(ケンドー・ナガサキ)、羽田光男(ロッキー羽田)ら日本プロレスの選手が全日本プロレスに合流することを発表、大木本人は仲介者から対等合併だと聴かされたことで、五分の形の対等合併であることを信じ込んでいたが、同じく日本プロレスの残党で全日本プロレスに合流することになるグレート小鹿は吸収合併されることを理解していたという。小鹿によると「仲介を労を取ってくれた方々も大木さんに面と向かって対等合併とは言わなかった。芳の里さんも言わなかったのでしょう」と話していたが、大木もNETが日本プロレスから新日本プロレスに乗り換える際に「新日本を放送することはあっても、力道山先生から伝統のある日本プロレスをNETが見捨てるわけがない、隔週でウチを放送するだろう」と都合よく楽観していたことから、周囲が吸収合併だと言っても、この場に及んで”対等合併”と都合よく思い込んでいたのかもしれない。

しかし日本プロレスの残党を引き受けるつもりだった馬場は硬い表情のままで笑顔すらなかった。旗揚げしたばかりの全日本プロレスは日本人選手層が薄く、即戦力として鶴田友美(ジャンボ鶴田)を入団させたもののファンク一家に預けられてアメリカで武者修行中、ザ・デストロイヤーや、国際プロレスのトップだったサンダー杉山を入団させて日本人選手の層の薄さをカバーしていたが、まだまだ十分にカバーしきれていなかった。そのためにアメリカ・オレゴン州で活躍するフリーレスラーのマティ鈴木を助っ人として招いていたが、後年鈴木によると馬場から「日本プロレスの連中は絶対にメイン、セミでは使わない」と明かしていたという。馬場にしてみれば後々帰国する鶴田を売り出すだけでなく、旗揚げから追随してくれた大熊元司やマシオ駒、サムソン・クツワダにも配慮しなければならないことから、日本プロレス残党を引き受けるのは迷惑な話で、また対等合併を信じ込んでいた大木の態度を見ても、頭痛の種が増えただけだった。

そこで馬場は日本プロレスの残党を引き受ける際には現場の「決定権を自分に一任して欲しい」と条件を出しており、日本テレビ側もそこまでは口は出すことではないということで了承してもらったが、大木にはそのことを知る由もなかった。また鈴木も大木らが日本プロレスに来たことでオレゴンへ戻ろうとしたが、馬場から9月いっぱい残ってくれと打診された。理由は鶴田を10月から日本に戻すことを決めており、ファンク一家に対しても鶴田の調整を急いでほしいと注文していた。

日本プロレス残党らは八丈島で合同合宿を張った後で、6月29日に「サマーアクションシリーズ前夜祭」公開パーティが開かれ、馬場以下、全日本プロレスの選手と、大木以下、日本プロレス残党が出席して双方が対面、30日からシリーズが埼玉・行田から開幕したが、大木はセミ、高千穂明久がセミ以下と扱わても、日本プロレスNo.2だった上田馬之助だけがカードから外されてしまう。上田は日本プロレス末期には大木と組んでインターナショナルタッグ王座を保持するなど事実上のNo.2だったが、開幕から干されることは上田にとっても大きな屈辱だった。

7月1日には上田がやっと出場したが、3日には松岡が外されてしまう。松岡も日本プロレス末期では小鹿と組んでアジアタッグ王座を保持し、ダニー・ホッジの保持するNWA世界ジュニアヘビー級王座にも挑戦するなど活躍していた。それ以降は馬場も大木には配慮してかタッグを組むなどNo.2として扱いながらも、上田と松岡は日替わりでカードが組まれ、起用されたとしても前座か、また中堅、格下外国人レスラーの嚙ませ犬として扱われるなど冷遇を受けるが、馬場がさっそく全日本プロレスから追い出したいと考えたのが上田と松岡の二人だった。

上田と松岡は大相撲の間垣部屋の出身だったことで、行動を共にすることが多かったが、上田は人がよくて人付き合いの良さもあって周囲から好感を持たれていたものの、松岡は上田と違って、力道山時代から上のレスラーにはゴマをすって、時には讒言をし、また下のレスラーにはパワハラまがいのいじめを繰り返しており、小鹿からも「アイツは悪そのものだよ」と他の残党らからも嫌われ、またマスコミに対しても平気で蹴飛ばして横柄な態度を取るなどマスコミからも印象が悪く、また馬場も松岡が後輩をいじめている姿をよく見かけたことから嫌っていた。

馬場は上田と松岡を最初に追い出しにかかった理由は、上田はクーデター事件のしこりを残しているだけでなく、上田もクーデター事件の真の裏切り者は馬場だとして信用しておらず、また松岡は馬場が唯一引き取るのを嫌がっていたことから、カード的に冷遇して追い出そうとしていた。

その後も上田と松岡は日替わりでカードが組まれ、高千穂明久は試合運びも上手く、馬場からも評価を受けていたことで上田らと違って上のカードで組まれただけでなく馬場のパートナーに起用されるこちともあり、小鹿は前座として扱われるも残党らを取りまとめており、また大熊とのコンビも評判が良かったことから、今後も必要として連日のようにカードが組まれていた。高千穂は元々クーデター事件の時はアメリカへ遠征していて深くかかわっていなかったこともあったことから、変な遺恨もなく起用しやすかったのもしれない。さすがの上田らも我慢できず、大木に”馬場に抗議してくれ”と頼むが、大木は自分が馬場と組むことで対等とされたことで満足していたことから、二人の頼みも聴きつけようとしなかった。試合から外された上田は密かに鈴木を誘って大会後に飲みに出かけたが、全日本プロレスで居場所がないとわかったことからアメリカへ行きたいと相談を持ち掛けていたという。

10月に鶴田が帰国すると9日の蔵前国技館で行われる創立1周年記念興行で、馬場のパートナーに起用され、ドリー・ファンク・ジュニア&テリー・ファンクの保持するインターナショナルタッグ王座に挑戦することがわかると、インタータッグ王座も日本プロレス伝統のベルトであることから大木も鶴田ではなく日本プロレス代表として自分と組むべきだと馬場に抗議するが、馬場も今後は鶴田をNo.2として売り出すだけでなく、大木の力量ではファンクスと対抗できないと判断したことから、大木の抗議を一蹴した。

9日の蔵前大会当日、この大会をもって上田と松岡は全日本プロレスを去ることになった。当初は開幕戦から離脱するつもりだったが、日本プロレスのメインレフェリーだった沖識名の引退セレモニーが行われることになっており、二人も沖から世話になっていたことから、それまでの義理として全日本プロレスに参戦した。松岡は国際プロレスから移籍した肥後宗典と対戦して勝利、上田はラリー・オーディという格下外国人選手と対戦して敗れたが、内容的にも無気力試合で試合放棄に近い形だったという。

上田と松岡が馬場の思惑通りに去ったことで、次は大木のリストラに着手する。鶴田が帰国したことで、これまで馬場と対等として扱われていた大木は中堅に降格、そして柔道の金メダリストであるアントン・ヘーシングも全日本プロレスに参戦するようになると、大木の対戦相手も格下外国人選手相手が主になっていったことで扱いも更に悪くなっていく。12月14日、日大講堂大会で大木はスタン・ブラスキーと対戦して勝利を収めたが、この試合を最後に韓国へ帰国、その後は病気を理由に欠場し続け、遂には全日本プロレスからの連絡にも応じなかったことで無断欠場扱いとなり、そのまま全日本プロレスに所属として戻ることはなく、馬場も大木の離脱は歓迎していたこともあって咎めもしなかった。

大木は1974年10月になると、猪木に挑戦状を突きつけて対戦したことで新日本プロレスに参戦、大木は馬場にも挑戦状を出していたが、全日本プロレスに無断で欠場しただけでなく、一方的に離脱したことを理由に相手にしなかった。ところが大木は猪木戦で高評価を受け、1勝1敗1分と互角に渡り合ったことで、馬場は大木に興味を示し、大木も新日本プロレスも離脱したがっていたこともあって、双方の利害が一致して、大木はフリーとして全日本プロレスに戻り、馬場の口利きで大木も韓国代表としてNWA入りを果たしたことから、合流時とは違って馬場と大木は良好的な関係を築いていった。

全日本プロレスを離脱した上田と松岡は日本テレビとの契約が残っていたため、新日本プロレスどころか国際プロレスにも参戦することが出来ず、様々な伝手を頼って新団体設立も視野に入れたが、資金が集まらなかったとして断念し、その後は上田だけアメリカ時代の友人だったリップ・タイラーのとりなしでアメリカへ渡ることになり、オクラホマやルイジアナ、ミシシッピー地区を主にして活躍、日本テレビとの契約が切れた1976年に帰国し髪を金髪に染めて”まだら狼”として国際プロレスに参戦、以降はヒールとして新日本プロレスに参戦し、タイガー・ジェット・シンとのコンビで活躍した。

それと比べて松岡は人付き合いの悪さからアメリカへの伝手がなく、一旦地元である山口に戻って働きながらアメリカの各プロモーターに手紙を書いて売り込みをかけ、オファーがかかることを待っていたが、1974年1月にやっとノースカロライナからオファーを受けてアメリカへ渡るも、年齢的にも厳しい時期にあたっため、アメリカでは通用することもなく、アメリカで引退したが、その後の消息は知るものもいない。松岡も嫌われ者であったことから誰も知るつもりはなかったのかもしれない。
(参考資料 ベースボールマガジン社「日本プロレス事件史Vol.22『夏の変革』)

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