全日本プロレス 旗揚げ前夜①日本テレビによる日本プロレスへの最大の報復…


1972年7月29日の午後6時、東京・赤坂プリンスホテルにてジャイアント馬場が会見を開き「今日の午2時ちょっと過ぎに、日本プロレス興業会社と日本プロレス選手会に辞表を出してきました」と入門から12年間在籍した日本プロレスに辞表を提出したことを発表、集まったマスコミも馬場の発表に驚くしかなかったが、馬場は今後どうするかを聞かれると「新しい組織を作りたいと思ってます。その上で日本テレビさんにも協力していただいて、再び日本テレビのブラウン管にのりたいと思います」「これは私の意志です、私が日本テレビさんに”よろしくお願いします”と言ったことに対してOKをしていただけた、今はその段階です」と発言したことで、馬場の日本プロレス退団=独立の裏には日本テレビが大きく関与していたことは明白だった。

1971年12月、日本プロレスにクーデター事件が起き、アントニオ猪木が追放されたが、クーデター事件の影響で日本プロレスに悪いイメージが定着してしまい、若干ながらも観客動員が下がるも、日本テレビで放送していた「日本プロレス中継」だけは馬場の活躍もあって高視聴率を稼いでいたのに対し、NETの「ワールドプロレスリング」は主役の猪木が抜けた代わりに坂口征二と大木金太郎を主役に据えるも、視聴率は大幅に低下していた。

そこでNETは「馬場を出して欲しい、要請を受けたら放送権料はアップするが受けなかったら放送は打ち切る」と要望書を出し、また日本テレビの一部幹部が「局として馬場の解禁には反対しない」と発言してしまったことで、社長の芳の里も「猪木を追放したのは日本プロレスだから、NETの言い分は筋が通っている」と馬場のNET登場を認めてしまう。

日本テレビ幹部の発言はあくまで一人の発言であり日本テレビの総意ではなく、しばらくして撤回されたが、日本プロレス側はこの発言を大いに利用して、芳の里は取締役だった遠藤幸吉と一緒に「馬場ちゃん、4月からNETにも出てもらうことになると思う。ここはウチの台所事情を察して協力してもらいたい」と馬場に申し入れたが、日本テレビ側も猪木が抜けたことでNETは馬場を出すことを要求してくるだろうと想定していたことから、馬場本人に「もし馬場ちゃんがNETの画面に出るようなことになったら、ウチは間違いなくプロレス中継から手を引くよ」と再三警告を受けていた。
芳の里らの申し入れに馬場は「そんな勝手なことをしたら日本テレビは怒ってプロレス中継から手を引いてしまいますよ、もともと2局放送という方法に無理があったんだから、ここはNETを切ってでも日本テレビとの絆を深めるべきだ」と反対するが、3月31日に「第14回ワールドリーグ戦」後楽園ホール大会の控室で芳の里が当時日本テレビの運動部長で後に全日本プロレスの社長となる松根光雄氏に対し、「4月から馬場をNETに出します」と通告、これに怒った日本プロレスは馬場の警告通りに5月12日の東京体育館大会をもって日本プロレスの中継を打ち切ってしまう。打ち切りの意向は日本テレビの判断だけでなくスポンサーである三菱電機の意向でもあり、力道山時代から日本テレビと三菱電機がバックアップして日本プロレスを支えてきたが、日本プロレスの一方的な裏切りに三菱電機が怒りスポンサーを降りると言い出したことで、日本テレビも大スポンサーだった三菱電機の意向に従わざる得ななかった。普段人の悪口を言わない馬場も『オレは日本テレビで育てられたスターなのに、ダラ幹が」と日本テレビへの恩義よりも、目先の金を取った日本プロレスに怒り、嘆いていた。

しかしプロレス中継はまだまだ高視聴率を稼げる重要なコンテンツであることから日本テレビは諦めたわけでなく、当時の日本テレビの社長だった小林與三次は重大な計画を指令を言い渡す、それは日本プロレスの大エースだった馬場を独立させることだった。なぜ先に独立していた猪木ではなく馬場だったのか、プロデューサーだった原章は猪木の方が将来性があるとして大きく買っていたが、小林社長には「プロレスは日本テレビにとって財産であり、正力さん(正力松太郎=初代社長)の遺産だ」「力道山の創ったプロレスをジャイアント馬場が継承する」というのが基本的な考えであったことから馬場に絞り、馬場もNET登場には反対していたことから、独立へ向けて脈があると考えていた。

日本テレビがプロレス中継を打ち切ったすぐ後に馬場と交渉を開始、交渉の場には小林社長も立ち会った。だが、慎重居士の馬場はなかなか首を縦に振ろうとしなかった。確かに馬場には日本プロレスから離れる意志はあったが、独立は考えておらず、かつての主戦場だったアメリカへ戻り、ハワイを拠点として先にアメリカへ行っていたマシオ駒と大熊元司と共に行動して各エリアをサーキットするつもりでいた。しかしこの頃は自分のオフィスを持ってプロモートするのが一流の証と言われており、馬場と対戦したブルーノ・サンマルチノ、ジン・キニスキー、フリッツ・フォン・エリックも自分のオフィスを持ってプロモートをしていたことから、馬場にとっても自分のオフィスを持つ最大のチャンスでもあった。その間にも別ルートで猪木の新日本プロレスとも水面下で交渉していたが、小林社長の「ウチはあくまで馬場一本でいく」と決め、「旗揚げに対しての資金は全て日本テレビが負担する」「放映権料も最大限用意する」「馬場がいる限り、プロレス人気が下火になっても放送は打ち切らない」と確約を得た馬場は独立をすることを決意する。

馬場は7月11日の「ゴールデンシリーズ」を終えると表向きは新潟・三条へ里帰りするとしていたが、密かにハワイへ飛んで現地で日本テレビの関係者と合流、外国人ルート確保のための下準備に入り、帰国後に独立会見に臨んだ。

日本プロレス中継を打ち切った日本テレビの金曜8時の枠は過去の日本プロレスの名勝負を振り返る『日本プロレス選手権特集』と銘打ったアーカイブ番組を開始、7月14日まで放送し、7月21日からは石原裕次郎、萩原健一が出演する刑事ドラマ「太陽にほえろ!」がスタートする。なぜ7月21日に「太陽にほえろ!」をスタートさせたのかというと、NETが月曜8時の枠だけでなく28日から金曜8時の枠でも日本プロレス中継である『NET日本プロレスリング中継』を開始することになっており、日本テレビも日本プロレス潰しの一環で『NET日本プロレスリング中継』の放送開始一週間前に「太陽にほえろ!」をスタートさせようとしたのだ。石原裕次郎はこれまで映画中心で活動していたが、テレビドラマのレギュラー出演は初めてで、萩原健一も歌手だけでなく俳優としても頭角を現していたことから、二人の共演は大きな話題を呼んでいた。7月28日から「第1次サマービックシリーズ」が開幕し、『NET日本プロレスリング中継』が金曜8時から放送を開始すると、日本テレビはもう一つの日本プロレスへの復讐を用意したが、それが翌日のオフに行われた馬場の独立会見だった。

馬場は「第1次サマービックシリーズ」の最終戦である石巻大会まで出場、シリーズ中にも日本プロレスは馬場に残留を促してきたが、元々日本プロレスとは契約を結んでいなかったこともあって、馬場の意志は変わらなかった。シリーズ中でも馬場が辞めることで会場には重苦しい雰囲気が漂っており、デビューしたばかりの木村健悟も「この会社(日本プロレス)、潰れるね…」と巡業に帯同していた東京スポーツ記者の門馬忠雄氏に漏らすほどだった。また上田馬之助と松岡巌鉄も馬場が出場することを嫌ったのか、シリーズ途中でボイコットしてしまった。二人は後に日本プロレスが全日本プロレスへ合流した際にリストラ対象とされたが、この一件も大きな要因になったと思う。馬場本人も日本テレビに「オレが辞めたら日本プロレスは間違いなく潰れるよ」と話していたが、猪木が残っていたら、自分が去っても日本プロレスはまだやっていける。だが、猪木もいなくなり、自分もいなくなれば日本プロレスは間違いなくやっていけなくなることを充分にわかっていた、だからシリーズ中に選手は誰も勧誘せず、「いずれ日本プロレスは崩壊する、その時に来て欲しい選手にはかければいい」と考えており、日本プロレスが崩壊してから誘えばいいと思っていた。

馬場は「サマービックシリーズ」まで参戦したが、日本プロレスの慰留交渉は続き、日本プロレスの協会会長の平井儀一まで出馬して「日本プロレスへの復帰のための調停案」を提示、①9月20日の「第2次サマービックシリーズ」の最終戦まで出場すること、②来年3月31日までの週1回、NETの「ワールドプロレスリング」に出演すること、さすれば日本テレビへの出演も容認する。と条件を出したが、馬場は全て拒否して日本プロレスを去っていく。

馬場に追随するのは既に日本プロレスに辞表を提出したフロントの米沢良蔵だけだったが、レフェリーだったジョー樋口も辞めることがわかると、馬場が日本プロレスを辞めたのならとすぐ樋口レフェリーを勧誘して馬場に追随することなった。

シリーズを終えた馬場が再び外国人ルートの確保のために再び渡米したが、待っていたのは思わぬ形での逆風だった。

(参考資料 辰巳出版 GスピリッツVol.25 『特集・全日本プロレス』)

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