もう一つのアナザーストーリー、引退した後のタイガーマスク


2020年8月18日、NHK BSプレミアムで「アナザーストーリーズ タイガーマスク伝説〜愛と夢を届けるヒーローの真実〜」が最近の佐山聡の近況のことも触れて新録されて、放送されたが、番組では触れなかったタイガーマスクの引退後の話に触れてみようと思う。

1983年8月、新日本プロレスで大人気を博した初代タイガーマスクが突如引退した。

引退する直前の初代タイガーは曽川庄二ことショウジ・コンチャを自身の側近に据えたことがきっかけとなって新日本プロレスや営業本部長だった新間寿氏との亀裂が生じ、一時は新日本の改革を目指す大塚直樹氏を始めとするクーデターに加担をしていたが、大塚氏らがどうしてもコンチャを信用できず、孤立した初代タイガーとコンチャは独自で動き出して新日本に対して契約を解除し、マスコミに向けて引退を表明、引退した初代タイガーはテレビ朝日で放送されていたバラエティー番組「欽ちゃんのどこまでやるの?」でマスクを脱ぎ、正体は佐山聡であることを明かし、新しい格闘技を追及するためにタイガージム設立へと動いていた。

コンチャは大塚直樹氏の知り合いの実業家で新日本の興行を請け負っており、その縁で佐山に密着し始め、信頼を得ると個人的なマネージャーとなっていたが、その反面暴力団と関係していたこともあって前科が8犯あり、日本に三台しかないというベンツのプレートを盗んで自身の車に付け替え、またある暴力団の手形を盗んで追われているため、本名は伏せていると公言していたが、前科のことは佐山には隠していた。

1984年に念願だったタイガージムがオープンし、インストラクターの一人として山崎一夫を招いた。山崎は初代タイガーがデビューしてからの付き人で佐山自身も可愛がり、山崎も佐山を慕っていたが、初代タイガーが引退後は高田延彦と共に将来を担うジュニア戦士としてテレビに登場するようになるなど売り出されていたものの、新日本内のクーデターがきっかけになって新日本に嫌気を差していたところで、佐山と再会し、山崎から引退の相談を受けた佐山は「レスラーを辞めるのはもったいない」と考えてタイガージムに勧誘、山崎も佐山の誘いに応じて新日本を円満に退団してタイガージムに移籍した。
前田日明の推薦で宮戸優光も加わり、佐山の新しい城であるタイガージムが始動し、会長にはコンチャ、社長には佐山が就任、専務を始めとした重役のほとんどがコンチャ側の人間だったこともあり、佐山は社長といってもジム生の面倒を見るだけのお飾り的な存在で、タイガーマスクの佐山が指導すれば会員はたくさん集まることから広告塔に過ぎなかった。その時誕生したのが新しい虎のマスクマン『ザ・タイガー』だった。『ザ・タイガー』は初代タイガーマスクとは違って空中殺法を封印、格闘技色を前面に押し出した覆面レスラーにするつもりだった。

だが、ジム設立へ動いている間にマット界は大きく激変しようとしており、プロレスから一線を画したはずの佐山も大きな渦に巻き込まれようとしていた。クーデター事件で新日本プロレスを追われた新間氏は新団体設立へと動いており、またクーデター一派だった大塚直樹氏も猪木の肝いりで新日本プロレス興行という興行会社を設立して新日本プロレスの興行を請け負うも、クーデター事件で新日本プロレス本体とはわだかまりを残して険悪な関係となっていた。

佐山は前年の12月に早稲田大学のプロレスサークルでの講演会で新間氏と一緒に登場したことがきっかけとなって和解を果たし、新間氏が「来年タイガーマスクを復活させる」と宣言し、1985年に入ると新日本の実権を握ったテレビ朝日と対立していた猪木と共にタイガーが新団体に参加するのではと取りざたされていたが、佐山がまだコンチャと切れていないこともあって、新間氏も佐山の獲得を断念、新間氏は前田日明を主力にした新団体「ユニバーサル・レスリング連盟」ことUWFを旗揚げするが、参加すると言われていた猪木が参加しなかったこともあって、旗揚げシリーズを終えたばかりにも関わらず幕引きを図り、新日本プロレスに再合流を図ろうとすると、それを知った前田やUWFの社長だった浦田昇氏から猛反発を受けてしまう。

UWFには藤原喜明や高田も移籍したが、前田を含めて華がないと考えた浦田昇社長とフロントの吉田稔氏が、佐山に来てもらおうとして交渉するも、必ずといってコンチャが割って入ってきており、その一方でコンチャは佐山に黙って全日本プロレスのジャイアント馬場に佐山を売り込んでいた。コンチャと佐山の間では、佐山をがんじがらめにする契約書が結ばれており、佐山も内容をよく見ないままサインをしてしまっていたことから、佐山に関する絶対的な権限を握っていた。コンチャにしてみれば佐山が理想とする格闘技より、金の生る樹であるタイガーマスクで、契約書を盾にすれば佐山も自身の操り人形として思うがままに動かざる得ないと考えていた。

ところがUWFに内紛が起きている間に、新日本プロレスと大塚直樹氏の新日本プロレス興行との亀裂が決定的となり、新日本プロレス興行は全日本プロレスと提携する。そこで馬場はコンチャから持ち掛けられた初代タイガーマスクの復帰のことを大塚氏に相談すると、大塚氏もクーデター事件ではコンチャに対して苦い思いをしていることから、「全日本独自でタイガーマスクを誕生させるべきだ」と提案したことがきっかけになって、2代目タイガーマスク誕生へと動き、コンチャの初代タイガーマスクを全日本で復活させる計画は完全に潰えてしまった。

これでコンチャの選択肢はUWFしかなくなり、コンチャは浦田氏にUWF参戦の条件として、自身をよく思っていない新間氏の追放を条件にすると、浦田氏もその条件を飲んで、佐山のUWFへの参加が決まった。この頃の新間氏は完全にUWFから孤立してしまっていたことから、コンチャの条件を飲むにはたやすいことだったのかもしれない。こうして佐山は山崎と共にUWFに合流、7月23、24日の後楽園ホールで開催された「無限大記念日」に1年ぶりにザ・タイガーとして復帰を果たし、23日には高田と組んで前田&藤原組と対戦、24日にはマッハ隼人と対戦してタイガースープレックスホールドで3カウントを奪い復帰後初勝利を収め、8月4日には山崎と共に入団を果たしたが、それと同時に新間氏は旗揚げメンバーの一人であるグラン浜田と共にUWFから撤退する。

ところがこの時点で佐山とコンチャの間に亀裂が生じていた。タイガージムを設立してからの佐山はコンチャが女性関係のトラブルだけでなく、インストラクターに対して約束通りの給料を支払わないなど金銭トラブルを起こしていていることを耳にするようになり、また佐山のサイン会のギャラを半分以上コンチャの懐に入っていることから、佐山も不信感を抱いていた。おそらく契約書にコンチャがどれだけ佐山のギャラを受け取るかも明記されていたと思う。UWFに合流した際には佐山が新日本プロレス時代に慕っていた先輩でUWFにはレフェリーとして参加していた北沢幹之からも、コンチャが隠していた前科のことも明かされ、騙されたと気づいた佐山はコンチャとの絶縁を決意してタイガージムへ来なくなり、山崎と宮戸と共に新しいジムの設立へ動く。

しかし、UWFへ所属し、新しいジムを設立しても契約書がある限り佐山とコンチャの縁が切れないことから、浦田社長が喫茶店でコンチャと会い、契約書の破棄と、佐山と二度と関わらないと念書を書かせようとしたが、コンチャが暴力団と関わっているということで、浦田社長は自身の知り合いの暴力団組長を立会人として同席させた。その暴力団組長はコンチャにとって親分であり、またコンチャは親分の系列の組の下っ端だった。親分はコンチャの隣に座り、契約書の破棄と念書を書くように強要すると、コンチャが仕方なく応じたことで全てが丸く納まったかに見えたが、コンチャは腹いせに浦田社長を強要罪で警察に訴え、浦田社長が逮捕される事態が起きてしまう。この浦田社長の逮捕劇はUWFにとっても大きなイメージダウンとなった。

その後タイガージムに佐山達が来なくなったことで、タイガージムは解散することになり、佐山はコンチャとは二度と会うことはなかった。スタッフらはしばらくUWFの手伝いをしながら、年明けにやっと新しいジム「スーパータイガージム」を設立、タイガージムの会員もそのままスーパータイガージムへ移行、最初こそは前田や高田も出稽古に来るなど佐山とUWFの関係も親密に見えたが、佐山が参戦してもテレビ中継がつかず、興行的にも悪戦苦闘が続いたこともあって佐山と上井氏らフロントの間でも亀裂が生じていた。フロントにしても求めていたのは初代タイガーマスクのような四次元殺法であって、格闘色の強いスーパー・タイガーまた佐山聡では客が入らないと考えていたのだ。

スーパータイガージムも表向きは軌道に乗ったかに見えたが、実際は自身の貯金を切り崩し、自宅を担保に入れているのが現状で、経営に頭を痛めていたが、そこでUWFに念願だったスポンサーが付くことになり、スーパータイガージムもUWFとの合併話が持ち上がる。佐山にとって渡りに舟で、計画ではビルの中に新しい道場を作って1階が事務所、2階にスーパータイガージム、3階にUWF道場を設けて、試合をしながら選手を育てていこうというものだった。

しかし、UWFのスポンサーとなった会社は金の地金を用いた悪徳商法を手口とする「豊田商事」という会社で、UWFがスポンサーとなった頃には、豊田商事の商法が社会問題化してマスコミに取り上げられていた。そして会長だった永野一男が多数のマスコミの中で刺殺される事件が起き、豊田商事も破産、UWFもせっかく獲得したスポンサーを失ってしまったことで合併話もなくなってしまうどころか、一転して経営も苦しくなる。

それでも佐山はUWFルールを定めるなど格闘色を強めようとして理想を貫こうとするが、現実的な問題が最優先に考える前田とフロントとの間で対立が生じてたことで佐山は孤立し、1985年9月2日の大阪臨海スポーツセンター大会でのSタイガーvs前田戦で前田が佐山を潰しにかかり、これで佐山はUWFには居場所はないと感じて離脱、宮戸はとっくの間に佐山と袂を分かっていたが、山崎は「自分は一度リングを降りた人間なので、これでまたリングから降りたら二度と上がれなくなる」と佐山にUWFに残りたいと自身の気持ちを伝えると、佐山も「インストラクターはもっと後でも出来ることだ」と気持ちよく山崎を送り出した。

これで佐山は一旦プロレスとは一線を画して新しい格闘技「シューティング(現・修斗)」の普及に専念したが、1994年に新日本プロレスの永島勝司氏の要請で10年ぶりに新日本プロレスと和解を果たして参戦を果たし、初代タイガーマスクのリングネームでUWFインターナショナルなど各団体に参戦、1997年にタイガーキングとして登場し師匠であるアントニオ猪木とも対戦した。

猪木との再会をきっかけに猪木の設立した団体「UFO」に加わるも、方向性の違いを巡って離脱、再び初代タイガーマスクとして他団体に参戦するだけでなく、自身の団体である「リアルジャパンプロレスリング」を旗揚げした。現在パーキンソン病の疑いで病魔と闘いながらも、新し格闘技を現在も追及し続けている。

(参考資料 GスピリッツVol.44「特集・スーパー・タイガー」Vol.54「タイガーマスク&スーパー・タイガー」)

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