新日本プロレスによるジャンボ鶴田引き抜き計画!


1975年、新日本プロレスが全日本プロレスからジャンボ鶴田を引き抜こうとしていた。

引き抜こうとしていたのは新日本プロレスの過激な仕掛け人としてアントニオ猪木の片腕として辣腕を振るっていた新間寿氏だった。

新間寿氏はミュンヘンオリンピックから鶴田獲得を猪木に進言していたが、猪木は「あんな木偶の坊はいらない」と乗り気になれず、代わりに同じミュンヘンオリンピックに出場していた吉田光雄(長州力)を獲得するも、新間氏はまだ鶴田をあきらめきれなかった。

新間氏と鶴田は同じ中央大学出身で先輩、後輩の間柄であり口説き落とせる自信はあった。新間氏はテレビ朝日を実質上取り仕切っていた三浦甲子二専務に鶴田引き抜きを提案。三浦専務も引き抜いた後に怪我をして引退した場合は、テレ朝専属でスポーツコメンデーターで雇ってもらうことを提案すると、三浦専務はOKを出したことで、早速鶴田引き抜き計画が進められることになった。

新間氏は鶴田の仲介者であるAと共に鶴田に会いたいと打診、新間氏は猪木が使っているリムジンで赤坂へ向かい、赤坂で待っていた鶴田を拾った。そのままテレビ朝日へと向かった。車中で新間氏は鶴田に新日本移籍を打診、新日本が裏で噛んでいることがわからないように、フリーとして海外へ渡り、いったんWWFのリングで試合をしてもらい、ロスのマイク・ラベール、メキシコを1年間に渡ってサーキットしてもらってから、新日本に参戦してもらうことを提案し、鶴田もMSGのリングに上がることに魅力を感じていた。

 テレビ朝日に到着すると新間氏に代わって三浦専務がリムジンに乗り、話し合いをするも、三浦専務は5分も経たないうちにリムジンを降り、新間氏も交渉内容を聞くが、三浦専務は「肝心なことを言っただけだよ、あとは鶴田に聞け」としか言わず、新間氏も鶴田にA氏を通じて返事が欲しい言うだけで、リムジンの運転手に鶴田を丁重に送るように指示した。

 鶴田からの返事はなく、新間氏も鶴田引き抜きを諦めてしまうが、半年経ったある日東京スポーツの井上博社長から新間氏が呼び出され、社長室には新日本担当記者である桜井康雄氏もいたが、井上社長は新間氏が来るなり「新間君!僕は君を信じていたけど、君と猪木君というのは悪い男だ!」と叱責される。いきなり井上社長から怒られたことで新間氏が戸惑うが理由がわからない、井上社長は「鶴田引き抜き件だ!」と忘れかけていた鶴田引き抜きを持ち出してきたのだ。
 鶴田は新間氏からの引き抜きは馬場に報告していたが、馬場は一笑していたという。馬場はおそらく新日本には抗議せず公にはしなかったが、なんだかの形で井上社長に伝わったと見ていいだろう。井上社長は新日本に対しては好意的な態度を取ってきたが、業界の秩序をかき乱すことだけは嫌っていた。井上社長は桜井氏も関与しているのではと二人を詰問するが、新間氏は「自分の一存で桜井さんは関係ない」とかばい、井上社長は」ジャンボは馬場さんが手塩にかけて育てた選手だ。君のところの坂口さんを引き抜いたらどうするんだ!」と一喝、「鶴田だけは絶対引き抜くな!」と釘を刺し、新間氏も鶴田だけは絶対手を出さないことを井上社長に約束させられた。

 鶴田はなぜ新間氏に会ったのかわからない、A氏との顔を立てたのか、鶴田自身はマット界全体でどういう評価をしているのか知りたかったからなのか、そして鶴田が新日本への移籍に応じなかったのは、馬場を裏切れない気持ちもあったのだろうが、三浦専務が鶴田との話し合いを早々に切り上げたのは、新間氏が乗り気でも三浦専務は内心乗り気ではなかったのではないだろうか…。仮に猪木に話を持っていたとしても、猪木も乗り気になっていただろうか…

こうして新間氏による鶴田引き抜き計画は挫折したものの、新間氏の願望は谷津嘉章の新日本プロレス入団という形で現れて実現、新間氏は谷津を鶴田のようにエリートコースに乗せて育成しようとしたが、凱旋マッチでスタン・ハンセンとアブドーラ・ザ・ブッチャーに潰されてしまい失敗に終わった。

もし鶴田が新日本プロレスに入門したらどうなっていたか、おそらくだがいきなりトップというエリート扱いせず、他の若手と同じ平等に育て上げていたのではないだろうか…、

 最後に鶴田の新日本プロレス登場は、新間氏が新日本を去った後の1990年2月10日の東京ドーム大会で、全日本から新日本への貸し出しという形で実現した。

(参考資料 ベースボールマガジン社 「日本プロレス事件史Vol.8 移籍・引き抜き・興行戦争)

 

 

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