全日本プロレス所属 ザ・デストロイヤー


1972年12月19日、全日本プロレス「ジャイアントシリーズ第二弾」の新潟大会でジャイアント馬場がザ・デストロイヤーと対戦、試合前に「馬場に負けたら助っ人として日本に残る」と公言していたデストロイヤーは馬場に敗れ、公言通り日本陣営に入り、21日の後楽園では宿敵だった馬場とタッグを結成、そのまま全日本プロレスに所属となった。

1963年5月に日本プロレスに初来日後も、デストロイヤーは日本プロレスに来日して豊登やジャイアント馬場、アントニオ猪木と対戦、1971年に開催された「第13回ワールド・リーグ戦」でも優勝争いに加わり、猪木に足4の字固めを仕掛けてそのまま場外心中を図り、両者リングアウトに持ち込んで優勝を阻むなと、健在ぶりを見せつけていた。

アメリカでのデストロイヤーはフリーランスとしてアメリカ各地を転戦、AWAではミスターXに変身して参戦にしていたが、1972年7月のレイ・スチーブンスとの試合で左足首を骨折、長期欠場を余儀なくされ、これまで大きな負傷もなく、無事之名馬だったデストロイヤーもさすがに衰えを痛感し、「これまで通りアメリカ各地を転戦することは難しい」と判断していた。そこで負傷も癒えた12月に全日本に初来日した際に、馬場に相談すると「日本に定着しないか?」と打診されたという。10月に全日本は旗揚げしたが日本人選手が不足しており、鶴田友美ことジャンボ鶴田も入門していたが、まだデビューしておらず、また日本テレビで放送されていた「全日本プロレス中継」も主役が馬場一人だけとあって思うような視聴率を稼げていなかったのもあったが、馬場がデストロイヤーを最も欲した理由は”ポリスマン”になって欲しかったからだった。

 ポリスマンとはプロレス用語でいうと「道場破りにきた人間を迎撃して退治する」ことを意味しており、アメリカマットでは各テリトリーに2,3名のポリスマン的レスラーを抱え、フロリダではレスリングに長けるだけでなく数々の修羅場を潜り抜けたマサ斎藤、AWAではシュートに長けるビル・ロビンソン、新日本プロレスでは藤原喜明がその役目を担っていた。特に新日本プロレスはカール・ゴッチとルー・テーズという大物ポリスマンも確保してたことから、それに匹敵するポリスマンとしてデストロイヤーに白羽の矢をたてたのだ。

デストロイヤーも考えた末、妻と3人の子供を東京に呼び寄せることを条件に日本に留まることを決意、家族4人で麻布に住居を構えた。引っ越し費用は日本テレビが出してくれたという。全日本の所属となったデストロイヤーは1973年3月の「第1回チャンピオンカーニバル」から日本に定着、鶴田が帰国するまで全日本のナンバー2となり、5月には家族を呼び寄せた。

 その矢先に全日本に日本テレビからデストロイヤーにバラエティ番組にレギュラー出演して欲しいとオファーを受けたが、馬場は「デストロイヤーをテレビに出すと他の選手も出せと言い出すのでは・・・」と乗り気ではなかった。しかしデストロイヤーにかかる費用は日本テレビから出ていたこともあって馬場は断ることが出来ず、デストロイヤーの出演を認め、日本テレビ系列で金曜10時から放送されたバラエディ番組「うわさのチャンネル」にデストロイヤーがレギュラー出演すると、視聴率は20%を記録し、デストロイヤーも和田アキ子との軽妙で面白いやりとりで名コメディアンぶりを発揮することで、一躍一般的にも知名度を上げ、全日本も視聴率だけでなく観客動員も向上する。
 全日本所属選手になりベビーフェースに転向したこともあって「第2回チャンピオンカーニバル」ではアブドーラ・ザ・ブッチャーとも抗争を繰り広げたが、デストロイヤーが多忙になったことで、ポリスマンの役目を果たすことが難しくなると、馬場は元NWA世界ヘビー級王者でもあったパット・オコーナーもポリスマンに据え、デストロイヤーとの二枚看板で全日本のポリスマンとなった。

 そして人気者になったデストロイヤーは「覆面世界一決定戦」でミル・マスカラスと10月9日の蔵前で対戦も、馬場と日本テレビはこのまま終わらすのは惜しいとして、覆面世界一十番勝負とされ、覆面レスラー相手に10番勝負を行い
対戦相手はマスカラスを始め、カリプス・ハリケーン、ミスター・レスリング、スーパー・デストロイヤーなど一流覆面レスラーとの対戦もあったが、半分以上は常連外国人選手に覆面を被せて対戦させたのもあり、ディック・マードックがザ・トルネード、ムース・モロウスキーがジ・アベンジャー、マリオ・ミラノがザ・バラクータ、キラー・カール・コックスがザ・スピリット、ダン・ミラーがブルー・シャークに変身してデストロイヤーと対戦さえたが、一部マニアからは正体がバレバレで、またブラック・デビルという覆面レスラーとも対戦するが、ブラックデビルは偽物で、しばらくして本物のブラックデビルと対戦となったこともあったが、デストロイヤーは全勝し10番勝負を乗り切った。

 デストロイヤーは和田アキ子と同じ時期に「うわさのチャンネル」を降板、1976年に全日本とのレギュラー参戦に終止符を打った。この頃には鶴田も成長するだけでなく、日本人選手層も厚くなり、また渕正信などが馬場のポリスマン的な役目になるほど成長していたことから、自身も助っ人やポリスマンとしての役目も終わったこともあったが、最も最大な理由はプライベートでも愛妻が男を作って逃げてしまって離婚という辛い出来事も起きていたこともあって日本に滞在することが辛くなっていたのかもしれない。最後の相手は馬場が務め、デストロイヤーが勝利を収めたが、最後の勝利は馬場がデストロイヤーに対する貢献を認めていたことで華を持たせた意味もあった。

 アメリカへ戻ったデストロイヤーは年に1回全日本に参戦、1993年には引退したが日本で居住していた麻布で開催される 麻布十番納涼祭りには再婚した妻と毎年来日して元気な姿を見せ、そして日本政府から 秋の叙勲において外国人叙勲者として旭日双光章を受章するなど、日本から認められた外国人レスラーとなったが、2019年3月8日、ニューヨーク州の自宅にて家族に見守られながら死去、88歳の生涯に幕を閉じた。

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