
WWE殿堂入り式典である「WWE Hall of fame 2019」が開催され、レガシー部門で新日本プロレスで”過激な仕掛け人”として辣腕を振るい、アントニオ猪木の側近として支え、WWFの会長だった新間寿氏がレガシー部門で殿堂入りを果たした。
1971年に新日本プロレスは旗揚げされたが、この時点では外国人ルートは確立しておらず、カール・ゴッチのルートで無名の選手しか呼べなかった。
しかし新日本プロレスもテレビ中継がスタートしてから、やっと軌道に乗り、NWAの会員にはなれなかったが、ロスサンゼルスのプロモーターであるマイク・ラベールを通じてビンス・マクマホン・シニアと知り合い、WWFとの提携関係がスタート、王者のブルーノ・サンマルチノは全日本プロレスが独占していたことから新日本へ送ることが出来なかったが、WWFが独占契約していたアンドレ・ザ・ジャイアントが新日本をブッキング、その見返りとして新日本もアントニオ猪木を当時WWFの本拠地だったマジソン・スクエア・ガーデンに参戦させた。
ビンスシニア夫妻が来日した際は、二人を京王プラザホテルに宿泊させたが、 ツインルームに宿泊させたことに新間氏が怒り「新日本の大事なお客さんを、何でこんな部屋に入れるんだ!スイートを取れ!」と怒鳴って、最上級のスイートルームに変更させるなど、新間氏のもてなしのおかげもあってビンスシニアとの信頼関係を築き、家族ぐるみでの交流を深めてきた。まさしく新日本とWWFの関係は新間氏とビンスシニアが築きあげた関係だったが、新間氏がWWF会長に就任する際には猪木は「オレを一レスラーとして使っているWWFの会長に、オマエ(新間氏)がというのはおかしいだろう」は良い顔をしていなかったという。新間氏は「私が社長を使うのではなく、WWFの会長が猪木のマネージャーをやっているっていいじゃないですか」と返し、猪木が納得したが、内心はビンスシニアと信頼関係が強くなれば強くなるほど、猪木は新間氏の存在が大きくなることを警戒しだしたのかもしれない。
しかし昭和58年のクーデター事件で新間氏は新日本を去り、ビンスシニアも死去すると、新日本とWWFとの関係は一変し、現在のビンス・マクマホンが新日本との関係を見直し、最終的には提携関係は解消となったが、ビンスになっても新間氏との交流は続けられたという。

レガシー部門では日本人では力道山、ヒロ・マツダに続いて3人目、また存命中であることから異例中でもあったが、新間氏のこれまでの功績が殿堂入りという形で現れた結果だと思う。
最後にブルーザー・ブロディもレガシー部門で殿堂入りとなったが、ブロディのリングネームはビンスシニアが名づけたことから、ブロディとWWFは縁がないわけでもない。だがブロディは新日本に移籍した際にWWFへ参戦をほのめかしたことがあったが、実現には至らなかった。理由は明らかにされてないが、ブロディは現在のビンスより、シニアの方が良かったとされていることから、ビンスとはソリが合わなかったことが原因だったかもしれない。
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