元・横綱の双羽黒こと北尾光司さんが死去した、享年55歳。最近は近況を聞くことはなかったのだが、腎臓を患い闘病生活を送っていた。死去した日である2月10日は奇しくも北尾が1990年2月10日、東京ドームでプロレスデビューを果たした日でもあった。
北尾は戦慄ハイキック!高田延彦vs北尾光司の裏側 の項でも触れている通り、 中学卒業と同時に立浪部屋へ入門し、1979年に初土俵を踏み、1986年に1度も優勝したことのないまま横綱に昇進して、双羽黒 光司に改名するも、1987年12月に些細なことから立浪親方とトラブルとなり廃業、その後はスポーツ冒険家と名乗ってタレント活動を行ったが、アメリカのプロレス養成所の一つである「モンスター・ファクトリー」を訪れてからプロレスに興味を持ちレスラーに転向することを決意。このときの北尾は輪島や曙のようにプロレス団体には属してゼロからやりなおす気はなく、アメリカのレスラーのように1週間単位でギャラを貰えるレスラーになることを目指していたという。
北尾はルー・テーズに弟子入りし、6月1日には所属していた芸能事務所の「アームズ」の富岡信夫社長と共に新日本プロレスを訪れ、社長のアントニオ猪木と副社長の坂口征二に新日本のリングでデビューする意向を伝え、プロレス転向の記者会見では「全米一のハルク・ホーガンのようなレスラーになりたいです」と意気込みを述べた。
テーズの道場では2ヶ月修業し、新日本からマサ斎藤もコーチしたが、コーチの目を盗んではサボり癖があり、国内でトレーニングしても専属コーチだったアポロ菅原の言うことも聞かないなど、周囲からもプロ意識のなさを指摘されていた。
そして2月10日の東京ドームでのクラッシャー・バンバンビカロとのプロレスデビュー戦では絶対的ベビーフェースであるホーガンを意識しすぎて、カッコばかり囚われすぎたため、怪しげなパフォーマンスやぎこちない試合運びにファンからブーイングが飛んでしまった。そして巡業にも帯同したもののサボり癖は治る事はなく、橋本真也とマサ斎藤と組んでビックバン・ベイダー、ビガロ、スティーブ・ウイリアムス組と対戦したときにはコーナーに振られた際に足がもつれて転倒、挙句の果てには橋本や斎藤からもタッチに応じてくれず見放されるなど、醜態を晒すが、本人も”なぜ自分の思う通りにはならないんだ!”と苛立ちもあったと思う。
その苛立ちの現れが現場監督だった長州力との口論で、長州の指示を反抗した際に、長州の最も触れてはいけない出自のことを罵ったため、長州は「オマエはアウト!」だと言い放ち、北尾もそのまま失踪してしまったことで、新日本からも契約解除となったが、北尾も思う通りにならないことで苛立っていたのと同じ、周囲のコントロールを受け付けない北尾に新日本も苛立っていたことから、結局誰も北尾を引きとめようとしなかった。
新日本でトラぶった北尾を旗揚げしたばかりの天龍源一郎のSWSが引き取ったが、メガネスーパーの田中八郎社長は北尾の強さにはほれ込んでいたものの、ブッカーだったザ・グレート・カブキは北尾の本質を見抜いていたのか、甘やかせてはいけないと、敢えて厳しく接していた。だが甘えん坊で世間知らずの北尾は厳しく接してくるカブキにも反抗的な態度をとっていたという。
それでも天龍は将来のスタートして育てるために北尾を帯同してWWFの「レッスルマニア7」に参加し、北尾と組んでスマッシュ&クラッシュのザ・デモリッションも対戦も、本場のWWFに来たせいもあって、北尾は自分の思うような試合が出来ず、天龍の方が高い評価を受けてしまった。
そしてSWSでの八百長野郎発言となったが、今思えば北尾が自分の思うとおりにならないという苛立ちと、天龍降ろしを狙う反天龍派から世間知らずだったことを利用されたことから起きた事件だった。SWSから追われても田中社長は北尾を引きとめるために、剛竜馬の新団体に入れる計画も立てていたが、結局実現しなかった。
UWFインターでも結局武道の師匠の裏切りや、マネージメントを任せていた知人の裏切りもあって、さすがの北尾も世間というものを思い知るようになったのか、デビュー時からSWS時代と一転して態度が変わり謙虚さを見せるようになり、大相撲とも和解して立浪部屋のアドバイザーになっていたが、北尾がプロレスデビューした時点で世間というものを知っていれば、もっと違ったプロレス人生を送っていたのかもしれない。
ご冥福をお祈りします。