ジャパンプロレス分裂(完結編)B・Iという二大首領の前に敗れた夢…

 話は戻って2月3日の札幌大会前後、馬場から鶴田、天龍を交えて長州、谷津とも話し合い、「これからはお前達4人が全日本を支えて欲しい」と大塚氏との約束を破って長州と谷津に全日本と契約することを求めてきた。馬場にしても自分の知らないところで大塚氏と長州が新日本と話し合っていたことに不快感を示しており、ジャパンはもう信用出来ないとして、永源と共に長州と谷津を押さえにかかり、また日本テレビも全日本プロレスの社長だった松根光雄氏を動かし、馬場の知らないところで長州を日本テレビとの契約を結び、契約選手として全日本に派遣するという形で引きとめようとしていた。 

 その一方で長州は谷津を伴って猪木と倍賞氏を通じて猪木と再び会い、猪木から「お前らが帰ってくるなら1億円を出してもいい」と提示される。長州は確かに全日本には良くしてもらっていたが、戦いに限界を感じていただけでなく、独立が出来ない以上、このままではジャパンは全日本によって取り込まれる。また新日本に戻ることは加藤氏よりも斎藤が熱心に勧めている。斎藤もビジネスと割り切っていた、全日本に参戦したのは僅か1シリーズだけで未練はなく、馬場よりも猪木への思いが強かった。長州自身もプライベートな事情でお金に困っていたこともあって提示された1億円にも魅力がある。長州はジャパンを捨てて選手達だけで新日本に戻ろうと谷津を説得したが、谷津は返答しなかった。

 もうこの頃には谷津は永源の説得を受けて全日本に残留することを決意していた。維新軍団入りしてからは、表向きは長州を立てていたものの、内心は見下したように醒めた眼で長州を見ており、新日本に対しても同じ感情を持っていた。また永源も選手全員に去られたら馬場の面子が立たないとして、長州は無理でも何人かの選手は引き止めようと暗躍していた。ジャパンは新日本との話し合いを進める長州と加藤氏、全日本に残留する谷津と永源、そして双方の間に立っていた浜口と、WWFへ行くことが決まっていたキラー・カーンの中立派と三つに別れ、関係は修復不可能となっており、竹田氏と大塚氏は立場上残留側にまわっていたが、大塚氏はこの時点でジャパンを解散することを考え始めていた。 

 話は戻って2月3日の札幌大会が終わると、長州は体調不良を理由に「エキサイトシリーズ」を全休する。人間関係に疲れ果てたこともあって、結婚を控える英子夫人と共に雲隠れしつつ、新日本と全日本、ジャパンの出方を伺っていた。後年長州は「天秤にかけていた」と明かしている。馬場は長州、また後日には猪木とも話し合い、長州は馬場にシリーズを休んだことをわび、3月27日から開幕する「チャンピオンカーニバル」への出場を約束、「チャンピオンカーニバル」中の4月2日、大阪府立体育会館大会はジャパン主催興行であり、社長である長州は出場しなければいけない興行だった。また猪木には引き抜き防止協定を守るように厳重に言い渡す。

 長州はジャパンの全体会議の後で次期シリーズである「チャンピオンカーニバル」から復帰を発表するが、3月いっぱいで全日本との提携を解消して完全独立をすることも発表する。長州は一旦全日本との関係を見直し、ジャパンは独立しても新日本と全日本とは選手個別のシリーズ契約にして出場し、そのバーターでジャパンの主催興行には新日本と全日本の選手に参戦してもらう。つまり現在の日本マット界のように団体同士で選手を貸し借りするテリトリー制のような形で馬場と猪木、双方の顔を立てつつ、ジャパンに協力してもらう構想を明かした。

 しかしこの会見が開かれるまでに時間を要していた。理由は谷津と永源が反発したからだった。谷津らは長州の考える構想は口実に過ぎず、いずれは新日本一本に絞り全日本に戻る気はないのではと糾弾する。当然ながら馬場も納得しない、実はジャパンが全日本と契約を更新しない場合は6か月前から申し出をしなければいけない契約になっており、引き抜き防止協定によってジャパンの選手が全日本の選手と扱われていたことから、全日本からジャパンとの契約を破棄しない限り、新日本のリングには上がれないことになっていたのだ。大塚氏と長州を切り離して一本釣りを狙っている新日本も納得するわけがなかった。長州の考えた構想は全日本だけでなくジャパン、新日本を納得させるにはこれしかないと考えた窮余の一策だったが、周囲から反発を受け長州は孤立していく。

 孤立した長州は動き出し、「INOKI闘魂LIVEパート2」の前日である25日に行われたレセプションに、調整を理由に欠席した斎藤の代わりに出席し、斎藤のサイン済みの調印書を手渡して引き揚げつつも28日に開幕する「チャンピオンカーニバル」から復帰に備えた。この時点では長州の自分の構想通りに、また社長としての責任を果たして全日本に上がりつつ、新日本にも上がるつもりでいた。ところが前日の27日に永源が「長州が出場するなら、谷津は出さない」と反発する。長州の出場が難しくなったと大塚氏から説明を受けた馬場は自ら一人でジャパン本社に乗り込み、長州や大塚、竹田、斎藤らと会談、谷津と永源を説得する代わりに、長州らに完全独立を撤回させ、全日本と新しい契約を結び、長州だけでなく斎藤にも全日本に出場することを要求する。

 馬場や大塚氏、竹田氏もこれで事態が収拾したとして安心したかに見えたが、開幕戦当日に大塚氏と竹田氏が留守をしている間に、長州が斎藤、小林邦昭、寺西勇、保永昇男、栗栖正伸、笹崎伸司、佐々木健介、レフェリーのタイガー服部、カルガリーハリケーンズのスーパー・ストロング・マシン、ヒロ斎藤らと共に本社に篭城、試合出場をボイコットする構えを見せる。長州は馬場の応じるままになったら新日本とのラインは完全に消されると考えてフライングする決意を固めた上での行動だった。
 長州派に加わった選手らは、健介は長州の付き人でもあったが、小林と保永は全日本での戦いに限界を感じており、笹崎は馬場から直接指導を受けて反発したため、全日本に残っても意味がないとして長州側に加わり、ハリケーンズは独立していたとはいえ、実質上はジャパンの子会社でもあり、長州と同じく全日本での戦いに限界を感じていたことから、長州に追随する決意を固めるも、アメリカ遠征中だった高野俊二は馬場に可愛がられていたのもあって全日本に留まることになった。
 ところが栗栖が長州派から離脱して全日本の試合が行われる後楽園ホールへと向かった。栗栖は誰かに誘われて篭城に加わったが、新日本へUターンするという話を聞かされたことで、長州派から離脱することを決意、栗栖は長州や永源ではなく大塚氏を慕ってジャパンに移籍したに過ぎず、最初から新日本には戻る気はなかった。

 慌てて本社ビルに戻った竹田、大塚両氏は長州らに試合に出場するように説得するが誰も応じず、全日本に出場したのは谷津、永源、栗栖の三人、仲野信市は欠場していたが谷津を慕っていたこともあって残留派に加わることになった。30日には竹田、大塚両氏は長州のジャパン追放を発表したが、この追放は大きな意味合いがあった。これで長州は晴れて新日本に行けるわけになったのだが、提示されていた1億円を受け取ることができなかった。理由は追放されたということはもう新日本にしか行き場がないと示しており、新団体も興す力もない長州の足元を見て、大幅に値切って0が一桁ない1000万円しか渡さなかった。長州はこの話を全面否定したが、おそらくだが違約金も差し引いた額が1000万円だったのではと見ている。どっちにしろ長州にとっては大きく当てが外れる結果になった。

 残留派には長州派から離脱した寺西が加わり5人となったが、中立だった浜口はジャパンに参加する際に「トラブルを起こした場合は引退する」と約束していたことから引退を決意する。長州は理解者の一人である浜口を引き止めたが、浜口の意志は固かった。寺西が一転して全日本に残留したのは浜口一人引退することに納得しなかったのか、それとも新日本からもらえるはずだった1億円を当てにしたのか、未だ定かではない。その浜口も8月の新日本両国大会で引退式を行い、浜口ジムを開いて後進の指導にあたったが、その後新日本のリングで復帰を果たす、残留派はジャパンを通さずに全日本と直接契約を結び、ジャパンプロレス軍団として全日本に参戦した。

 ジャパンに籍を残していたままWWFに参戦していたカーンはジャパンの分裂をアメリカで知ると、長州だけでなく日本マット界にも失望してしまい、ビンス・マクマホンや抗争相手のハルク・ホーガンの引き止めを振り切って引退を決意、カーンは家族を置いて日本へ戻りタレントに転身する傍らスナックを経営した。またカルガリーへ海外武者修行に出されていた新倉史祐と馳浩は、馳だけが長州から帰国要請を受け帰国、新倉はカルガリーに取り残される。長州が新倉に声をかけなかったのは、永源の誘いでジャパンへ移籍したことから、永源派と見られていたのかもしれない。しかし新倉は永源からも声がかからず、体調を崩して帰国してからはフリーとして活動した。

 新日本へUターンした長州は加藤氏の「リキプロ」を拠点として新日本に参戦したが、全日本との問題はクリアされていないままの参戦を果たしたことで、馬場と大塚氏は態度を硬化させ、引き抜き防止協定に則った問題クリアを迫り、その結果火曜日夜8時に移行したばかりの「ワールドプロレスリング」には長州は画面に映ることはあっても試合は放送することは出来なかった。その後次第に小林などの試合は放送されるようになったが、長州の試合だけは「ワールドプロレスリング」放送することが出来たのは10月からだった。しばらくして長州軍団は新日本と所属契約を結びリキプロは解散となるが、長州の新日本復帰の立役者となっていたはずだった加藤氏だけは新日本に戻ることは出来なかった。加藤氏は剛竜馬のオリエンタルプロレスのフロントとして携わるも、剛と対立したことでオリエンタルプロレスを去り、そのまま業界からも去った。

 大塚氏のジャパンプロレスは谷津らが全日本と契約したことで、所属選手がいなくなり、8月31日の武道館大会をもって全日本との関係を打ち切り、プロモートを請け負っていた全日本女子プロレスの興行を消化した後で解散、事実上の空中分解だった。そしてしばらくすると栗栖が谷津と永源によって引退という形で全日本を去った。栗栖は馬場に気に入られていたが、谷津と永源とは折り合いが悪かったことから、二人は栗栖が懇意にしていた大塚氏がマット界から去ったことで、栗栖は必要ないと考えたのかもしれない。栗栖は大阪でジム経営の傍らフリーとしてレスラー活動を続けた。

大塚氏は後年「出発点では団体を作る意志はなかった、本当は維新軍団の5人だけでよかった、でも僕にも驕りと自惚れが生まれてしまったし、しかも統率力がなかった。けど新日本と全日本の2団体しかない時代に一石を投じて実績を残せたと思うし、ある時期はジャパンが一番いい会社だったと思います」と振り返っていた。

 大塚氏はプロレスとは別職種の会社の代表取締役となるが、90年11月に父親が入院していた東京医科大病院に、この年の最強タッグで左太腿大腿骨亀裂骨折で馬場が入院していると聞きつけると、大塚氏は見舞いに訪れ、元子夫人を交えて再会を果たし、馬場死去後の2000年7月には三沢光晴らが大量離脱したこと受けて、社長となっていた元子夫人に協力を申し出て、社外参謀として一時期全日本に携わった。

 ジャパンプロレスとは一体なんだったのか?B・Iという時代がまだまだ続いた時代に、一人の力のあるフロントが長州力というカリスマをB・Iの地位にまで昇り詰めらせて、時代を動かそうとしていたが、衰えが見え始めたとはいえ、B・Iという二人の首領の力の前には、まだまだ適わなかった。B・Iの時代が終わるのはもっと後のことである。
(参考資料 GスピリッツVol.47「ジャパンプロレス」日本スポーツ出版社「昭和プロレス維新」、田崎健太著「真説・長州力」)

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