ジャパンプロレス分裂(中編)長州争奪戦に存在した二つの線


ジャパンプロレスに内紛の兆しが出てきた状況の中で、馬場が永源遥を通じて長州と谷津に対してジャパンを通さずに、直接契約することを持ちかけてくる。永源はジャパンの選手会長で、馬場との連絡役になっていたが、営業力の強さを馬場に評価されてからは、全日本側の人間になり始めていた。馬場は永源を通じて長州を含めた選手らと竹田&大塚氏の間で亀裂が生じていることを知らされ、大塚氏らでは長州を押さえることが出来ないと判断、馬場自身が長州を押さえにかかろうとしていた。これを知った竹田&大塚両氏が馬場と会談して、馬場に長州らと直接交渉しないように約束させ、従来どおりにジャパンとの提携は継続、長州に代表権を持たせて発言力を強めさせ、コミュニケーションの改善を図るために『リキプロ』を塩尻の本社に移転させることで事態はどうにか収拾させたものの、分裂への火種は燻ったままだった。

 1987年1月8日に、大塚氏は新日本プロレスの渉外担当部長だったしていた杉田豊久氏とジャパン本社で会談、杉田氏から「新日本の営業がガタガタで、力を貸して欲しい」と持ちかけてくる。新日本もテコ入れでUWFと提携したものの、観客動員にはなかなか結びつかず、また昨年9月をもってテレビ朝日で放送されていた「ワールドプロレスリング」も金曜夜8時から撤退、月曜夜9時に移転するも、特番も入ることから放送も休むことも多かったこともあり苦戦を強いられ、4月からは火曜夜8時の枠に移行することも決定していた。長州復帰はおそらく新日本の主導権を握っていたテレビ朝日の意向と見ていいだろう。放送枠移行に伴い起爆剤が必要と考え、長州やジャパンに戻ってきてもらおうと考えたのだ。

 大塚氏は全日本との提携関係もあって返答は避けたが、杉田氏が「社長(アントニオ猪木)が会いたい」と返答すると、大塚氏は猪木に会うことを決意、当初は大塚氏だけの予定だったが、大塚氏は長州を誘う。誘い応じた長州は身につけていた高価な腕時計を外したという。新日本の事務所を訪れた二人だったが、猪木は大塚氏ではなく「長州、よく来た」と長州の手を握り歓迎し、長州も猪木の前では背筋をピンと伸ばして直立不動になっていた。当初は猪木はジャパン全体に戻ってきてもらおうとしていたが、大塚氏が長州と一緒に来たことで、引き抜きの相手はジャパンから長州に代わってしまっていた。大塚氏はこの時点で「長州を連れてきたことが失敗だった」と反省したという。

 内紛が兆しが見え始めた前年から長州には新日本へUターンするという噂は絶えず、非公式ながら藤波辰己と会ったことも公言することもあり、またアントニオ猪木も「10月9日に後楽園球場(実際は両国国技館だった)で開催される『INOKI 闘魂 LIVE』で長州から出場したいと言ってきている」と発言することもあった。長州が社長という立場もあり、引き抜き防止協定という存在もあって、その都度否定していたが、本音では全日本との抗争も長州vsジャンボ鶴田が実現した時点で限界に感じるようになっていた。全日本に参戦してイデオロギー抗争を軸にしても、鶴田や天龍、ハンセン、そして前年にデビューした輪島大士の存在を使って牽制し、長州を全日本の中心にしようとせず、またジャパンを通さずに直接契約を求めてきたことで、ジャパン全体が全日本に取り込まれていく現状に危惧を抱いていたのも事実だった。そして猪木と再会したことで新日本プロレスに対する想いが再燃し始めていた。

 ところが猪木と長州が再会した翌日に、新日本の取締役であり猪木の懐刀の一人で、長州とも飲み仲間で親しかった倍賞鉄夫氏が加藤氏に接触、倍賞氏は加藤氏に大塚氏を排除して長州の一本釣りを持ちかける。倍賞氏は新日本のクーデター事件の際には大塚氏によって一度失脚、クーデターが失敗してから復権していたが、倍賞氏にとって一時的とはいえ失脚に追いやった大塚氏が戻ることは許されないことだった。二人は大塚氏排除で利害が一致し、杉田氏とは別ラインで長州の引き抜きへと動き出す。

 ここから長州は動き出し、1月17日の地元徳山でカート・ヘニングを破りPWFヘビー級王座を防衛、この大会は日本テレビの「全日本プロレス中継」の生放送だったが、若林健治アナウンサーからの勝利者インタビューで全日本のリングの上で藤波辰己の名前を出したことで、大きな波紋を呼ぶ。

 試合後には杉田氏の手引きで長州は大塚氏や永源を交えて新日本の興行先である福岡で坂口征二、藤波とも会うことになっていたが、長州は突如「中止になった」と言い出す、それでも福岡へ向かったが会談が予定通りに行われ坂口から「ジャパン全員に戻ってきて欲しい」と要請を受け、長州はその発展系の話として「新日本、全日本双方に上がれるかどうか」と逆提案していたが、大塚氏も長州が隠し事をしていると勘付きだしていた。

 そこで13日にアメリカでトラブルに巻き込まれたせいで刑務所に収監され、やっと刑期を終えて出所していたマサ斎藤が帰国する。斎藤は会見で猪木との対戦をアピールし、20日に中野サンプラザで行われていた「突然卍固めLIVE」に出演していた猪木の前に花束を持って駆けつけ、3月26日に行われる「INOKI闘魂LIVEパート2」大阪城ホール大会への出場を表明する。早速新日本も斎藤の出場を発表するが、その発表をしたのは倍賞氏だった。倍賞氏ラインから加藤氏によって斎藤の新日本出場の話がジャパンに持ち込まれ、全日本も斎藤を使う気がなかったことから、『1試合だけをやってアメリカに戻るなら』ということで全日本やジャパンの承諾を得ていたが、斎藤の新日本出場を巡る会議の席上で長州と谷津、永源が新日本との関係を巡って対立、長州は会議途中にも関わらず退席するも、この時点で新日本とのラインは杉田&大塚から倍賞&加藤が主導権を握ることになった。(続く)

 (参考資料 GスピリッツVol.47「ジャパンプロレス」日本スポーツ出版社「昭和プロレス維新」、田崎健太著 「真説・長州力」)

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