ジャパンプロレス分裂(前編)選手とフロントの対立から全てが始まった

1987年2月5日、全日本プロレスの札幌中島体育センター大会で、ジャパンプロレスの長州力&谷津嘉章組が保持するインターナショナルタッグ王座にジャンボ鶴田&天龍源一郎組が挑戦、試合は白熱した熱戦の末、天龍がジャーマンスープレックスホールドで谷津から3カウントを奪い、鶴田&天龍組が1年ぶりに王座を奪還したが、この試合を最後に長州は全日本プロレスマットから姿を消した。


 ジャパンプロレスの項で触れたとおり、1984年に『新日本プロレス興行』は長州の『リキプロダクション』と合併して、新団体『ジャパンプロレス』を設立、竹田氏が会長、大塚氏が社長に就任、長州らも出資して株主として参加した。1985年1月から業務提携を結んでいた全日本プロレスに参戦、また世田谷区池尻で道場と若手のための合宿所も兼ねた道場が完成、道場開きには馬場も出席、全日本とジャパンの親密ぶりをアピールした。

 そして道場開きの席上大塚氏は会長、長州も社長に就任する人事を発表する。大塚氏は「一枚のチケットでいろんな団体を見れる」を掲げ、「団体の枠に取っ払い、馬場と猪木という2大首領にコントロールされない、全日本だけでなく新日本はUWFの選手に参加してもらう自由なリング」を理想に掲げており、長州がジャパンに参加する理由も団体の枠に囚われたくない趣旨に賛同したからだった。そのためにはジャパンも新日本また全日本の同等の力をつけいずれは完全独立しなければいけない、本社ビルの建設もジャパンを新日本と全日本の地位にまで押し上げ、長州の社長就任も馬場や猪木の地位にまで押し上げるためのものだけではなく、長州に据えた本当の理由は責任あるポジションに着ければ、簡単に辞める事が出来ないだろうという計算があったからだった。長州は社長と言っても、ジャパンの絶対的権限を握っていたのはオーナーだった竹田氏と会長だった大塚氏で、長州の社長は役目はレスラー達の不満を抑えるための現場監督的立場に過ぎなかった。

 大塚氏は当時プロレス団体には必要だったテレビ中継を実現するために水面下でTBSと交渉を開始、独自路線を敷くために新日本での扱いに不満を持っていたスーパー・ストロング・マシン、ヒロ斎藤、高野俊二を勧誘し、ジャパンの敵対勢力であるカルガリーハリケーンズを結成させ、ジャパンへの参戦をアピールさせようとしていたが、マシンらを引き抜いたことは馬場だけでなく長州も事前に知らされておらず、長州はマシンらの参戦にはこれ以上新日本を敵に回したくないという考えから猛反対する。長州は馬場と猪木という二大首領を脅威に感じており、これ以上は敵に回すべきではないと考えていたものの、ジャパンでは絶対的権限を持っていた大塚氏によって反対は押し切られたが、ジャパンの足並みの乱れはここからもう始まっていたのかもしれない。

 長州の懸念が当たり、長州の「俺たちの時代」発言だけではなく、大塚氏が全日本の承諾もなしにマシンらを引き入れたことで、馬場も長州とジャパンの動向に警戒心を抱く、そして独立へ動き始めているジャパンに対して先手を打ち、全日本プロレスからジャパンに支払われる日本テレビの放映権料を引き上げる条件を提示する代わりに、ジャパンの選手らに所属選手として契約を結ぶことを要求する。その条件を飲むことは独立の芽を絶たれてしまうことと同じことだった。

 ジャパンは全日本の選手を借りて主催シリーズを開催していたが、大塚氏の期待に反して不入りとなっており、期待していたTBSでのTV中継も交渉が決裂してしていた。ジャパンは興行の不振を補填するために全日本側の条件を飲まざる得ず、選手らは全日本のリングに上がることだけでなく、主催シリーズも単発興行に切り替えることを余儀なくされ、独立への気運は一気にトーンダウンしてしまった。

 だが馬場の仕掛けはこれだけではなかった、12月15日の池上本願寺における力道山23回忌法要で力道山の墓前で馬場は猪木と握手を交わし、双方の弁護士の立会いの下で全日本と新日本の間で引き抜き防止協定を締結、ジャパンの選手らは全日本側の引き抜き防止のリストに入れてしまてしまったことから、独立の芽は完全に絶たれてしまい、大塚氏によってジャパンの完全独立をあてにしていたカルガリーハリケーンズの3選手は新日本のリストに入れられたことから、新日本との契約が切れる翌年の3月まで干されてしまい、新日本との契約が切れても、ジャパンの一部として扱われたことから、全日本のリングに上がざる得なくなってしまった。

  これで全日本とジャパンの関係も修復されたことで一件落着かと思われたが、1986年になると今度は土地バブルが起きて本社ビルの地価が値上がりしたことでジャパンに内紛の兆しが見え始める。ジャパン本社は土地や建物を含めて竹田会長の持ち物で、ジャパンも将来的には自分のものになるとして家賃兼ローンとして月々200万円支払っていたが、本社ビル全てが自分らのものであると思い込んでいた長州ら選手達は、竹田氏がジャパンから金を受け取り、また土地でも儲けているとして不満を募らせていく。

 大塚氏も設立資金や選手の契約金や新日本やテレビ朝日への違約金全て、竹田氏から出ていたものから、支払うことは当然であり、また長州が来たことで全日本も興行数が増えているのにもかかわらず、選手が飽和状態で常時40選手も出場することで人件費も含めて経費がかかり、利益が出ないのに、長州らには新日本時代より高いギャラと、役員手当ても支払っていたが、そのことに長州らが理解を示そうとしないことに不満を募らせていた。

選手とフロントによる対立が生じ始めた頃から、ジャパンの専務だった加藤一良氏が長州に接近していた。ジャパンプロレスは運営部、興行部、芸能部の『リキプロ』、グッズ販売部の4つに分割され、加藤氏は芸能部の『リキプロ』を担当していた。大塚氏とは新日本時代から営業ではライバルだったが、新日本でのクーデター事件やジャパン設立の際には利害が一致して協力し合っていた。だが専務になったにもかかわらず本社ビルには入れず、恵比寿にあった旧ジャパンの事務所に留め置かれてからは、大塚氏に対して不満を募らせ、長州の腹心となって大塚氏とは対立し合うようになっていた。

 そして9・3大阪城ホール大会後に馬場と竹田氏が会談、興行数が増えても経費で利益が上がらない状況をどうすべきかを話し合いと、竹田氏は「長州、谷津以外はいらない、浜口以下はリストラする」と馬場に話したという。竹田氏は選手が飽和状態になっが試合時間も短く組み立てるようになって試合の質が落ちてしまっているとして、大塚氏や選手らに注文をすることもあった。リストラ発言の真意は、出場する選手を減らすことで試合内容を良くするものだったが、竹田氏の発言はジャパン内部に大きな動揺を与え、金銭のことだけでなく、試合内容にも口を出してくる竹田氏に対する不満をますます募らせていった。(続く)

(参考資料 GスピリッツVol.47 ジャパンプロレス 田崎健太著「真説・長州力)

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