WWFヘビー級王者になり、WWE殿堂入りを果たしたスーパースター・ビリーグラハム(本名エルドリッジ・ウェイン・コールマン)さんが死去した。享年79歳。
ボディービル出身のグラハムさんはスチュ・ハートのコーチを受けて1970年に本名でプロレスデビュー、ロサンゼルスに転戦した際に現在のリングネームとなった。
その後AWAへ転戦した際に、AWAと提携していた国際プロレスにビル・ロビンソンを破ったとして、国際プロレスの王座であるIWA世界ヘビー級王者として1974年8月に初来日し、マイティ井上と3度にわたって王座をかけて対戦し、3度目の対決で井上に敗れ王座を明け渡したものの、後年ロビンソンとIWA王座をかけて対戦した事実はなかったことが明らかになったことから、グラハムの役目は王座を井上へ橋渡しする”ショートリリーフ”だったのかもしれない。


国際プロレスではアニマル浜口とペンチプレス対決を行い、また入場曲として『ジーザス・クライスト・スーパースター』のテーマ曲「スーパースター」を使用するなど、日本のプロレス界で使用された入場テーマ曲の草分けでもだった。
日本から戻るとWWWF(WWE)へと転戦してヘビー級王者であるブルーノ・サンマルチノにも挑戦、1975年にWWWFとの提携ルートで新日本プロレスへと参戦しアントニオ猪木とも対戦した。
1977年4月にサンマルチノを破りWWWF王者となったが、この頃のサンマルチノはスタン・ハンセンの首折り事件の後遺症に悩まされており、王者として長くないだろうと言われていたことから、この時のグラハムもサンマルチノの後釜が決まるまでの”ショートリリーフ”だったのかもしれない。


ところがこれまでのWWWF王者は絶対的ベビーフェース像が求められ、ヒールだったイワン・コロフやスタン・スタージャックも王座を奪取しても、短期間ですぐベビーフェースに王座を明け渡していたが、観客とのやり取りやマイクパフォーマンスには抜群の才能を発揮し、ヒールでありながら驚異的な人気となり、またサンマルチノの後釜がなかなか決まらなかった幸運もあってか、10カ月もタイトルを保持、1978年1月にはNWA世界ヘビー級王者だったハーリー・レイスとのダブルタイトル戦も実現したが、グラハムの饒舌ぶりはリック・フレアーなど多くのレスラー達に影響を与え、ハルク・ホーガンやジェシー・ベンチュラもグラハムの熱心のファンだったという。
1978年2月には王者としてグラハムが新日本プロレスに参戦したが、これまでの王者だったサンマルチノはジャイアント馬場との友誼を最優先して全日本プロレスに参戦してきたことから、グラハムは新日本プロレスにとって初めて送り込まれたWWWF王者だった。しかし猪木はWWWF王座に挑戦せず、坂口征二が挑戦したが、新日本プロレスでのヒールはタイガー・ジェット・シンのような狂乱型が主流になっていたことから。グラハムのようなパフォーマンス重視のヒールは受け入れがたく、評価も低かったこともあって猪木との選手権は実現しなかったのかもしれない。
新日本プロレスから帰国後にすぐやっとボブ・バックランドに敗れ王座を明け渡し、やっとショートリリーフの役目を終え、国際プロレスにも再び参戦してIWA世界ヘビー王座となっていたラッシャー木村と対戦するも、グラハムの筋肉は薬物であるステロイドで作り上げたことから、次第に後遺症に悩まされるようになった。
1988年にWWEを解雇されたグラハムはテレビ番組でWWF内部の薬物使用問題を暴露したことで注目され、検察側の証人としてビンス・マクマホンに不利な証言をしたことで、WWEとは絶縁状態となった。
2003年にWWEと和解すると、2004年にWWE殿堂入りとなり、その後もステロイド剤の危険性を訴える活動を行う一方、特別ゲストとしてWWEのテレビ放送に時折登場し、WWEともレジェンド契約を結んだ。
近年は感染症や心不全、糖尿病とともに新型コロナウイルスに感染するなど闘病生活を送っており、数週間前から集中治療室で重篤な状態になっていることが報じられたばかりだった。
ご冥福をお祈りいたします
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