アントニオ猪木が権威を高めた”世界王座”NWFヘビー級王座


1972年4月から新日本プロレスに坂口征二が合流、NETテレビ(テレビ朝日)でのゴールデンタイムでの中継がスタートしたことで、崩壊寸前だった新日本プロレスはやっと軌道に乗ったか、課題はいくつか残ったままで、そのうちの一つが外国人ルートの確保だった。

 新日本は旗揚げから外国人選手のブッキングは猪木の師匠であるカール・ゴッチを頼っていたが、ゴッチは選手は無名の選手や名がある程度通っていてもピークが過ぎた選手ばかりブッキングすることから、外国人ルートは貧弱で、日本プロレスとの合併が計画された際には芳の里がNWAの会員だったことで、NWAのルートが確保されたかと期待されたが、合併計画は頓挫するだけでなく、後発に旗揚げしたジャイアント馬場の全日本プロレスがドリー・ファンク・シニアの尽力で先にNWA入りを果たしてしまったことで、外国人ルート確保に遅れを取ってしまっていた。坂口が合流したシリーズして初のビックマッチである4月20日の蔵前国技館では猪木、坂口の黄金コンビが復活したが、対戦相手はゴッチを絡めたタッグマッチを予定していたものの、ゴッチは古傷の膝の負傷を理由に断り、相手はジャン・ウイキンスとマヌエル・ソト組が務め、試合は完勝もビックマッチを飾る相手としては役不足だった。

 5月になると突如現れたタイガー・ジェット・シンが話題を呼んだことで、やっと軸になる外国人選手を確保、そしてロスサンゼルスのNWAハリウッドレスリングとも提携を結んで外国人不足は解消されつつあったが、軸になる選手はシンだけでまだまだ不足しており、また全日本プロレスが馬場用のタイトルであるPWFヘビー級王座を誕生させたのに対して、新日本は猪木用の王座がまだなく、タイトル獲得も急務とされたところで、NWFが新日本に対して提携を求めてきた。

NWFはプロモーターであるペドロ・マルチネスとエースであるジョニー・パワーズによって設立された団体で、マルチネスは元々NWAの会員だったが、NWAの主流派プロモーターを嫌悪したことがきっかけとなり、脱退して1970年にNWFを設立、ブッカー兼任エースとしてパワーズを招き、パワーズも自分の思うとおりに団体を動かしたい願望が強かったこともあって、マルチネスと組むことになり、NWFの最盛期には次々とエリアを拡大してNWA、AWA、WWWF(WWE)に次ぐ第4の団体として認知されるようになった。

 そんなある日にパワーズが日本に遠征したことのあるジョージ・キャノンから坂口が猪木の新日本プロレスに移籍したことを知らされた。キャノンは坂口がデトロイトで修業した際にマネージャーをやっており、個人的に坂口を知っていた関係で日本プロレスが崩壊したことで激変期に入った日本マット界の動向に興味を持ち、パワーズに「(新日本と)提携関係になったら双方にメリットがあるよ」と進言していた。

パワーズは1960年にプロレスデビューし、1964年にはブルーノ・サンマルチノの保持するWWWF王座(WWE)に挑戦することでトップレスラーとなっていた。1966年にボビー・ブランズとサニー・マイヤースのブッキングで東京プロレスの旗揚げシリーズにジョニー・バレンタインと共に初来日した際には猪木とも対戦していた。
早速キャノンを通じて日本プロレスで外国人ブッカーを務めていたミスター・モトに連絡を入れたが、モトはすでに外国人ブッカーをやめていたため、代わりにハリウッドレスリングのプロモーターであるマイク・ラベールの兄ジン・ラベールを通じて新日本とコンタクトを取った、その過程で新日本も猪木もNWAにも入れずアウトロー扱いを受けていると知ると、自身も同じアウトロー扱いを受けていると共感していた。

1973年8月24日に猪木と坂口がロスサンゼルスに遠征してパワーズとパット・パターソンが保持しているNWAノースアメリカンタッグ王座に挑戦、NWAノースアメリカン王座は実在していない王座でロスサンゼルス側がNWAの名前を使って急造された王座だった。試合は3本勝負で2-1で猪木、坂口の黄金コンビが勝つも、3本目が反則裁定だったため王座は移動しなかったが、大会後に新日本側と会談を持ち、NWFが新日本に外国人選手を供給することと、NWFの組織全てを新日本に移管することを条件に出した、それは実質上新日本がNWFを買収したことに等しい話だったが、実は新日本と接触し始めた頃のNWFは設立時の勢いはなく衰退を始めており、マルチネスも店じまいすることを考え、パワーズ自身もプロモーターをやめてレスラーに専念しようと考えていた。

 こうして新日本とNWFに間で合意に達し、新日本のリングでNWF世界ヘビー級選手権が行われたが、新間寿氏はNWFという団体は知らず、選手権に関しても乗り気になれなかった。しかし、猪木が「オレが巻いて権威を高めればいいだろ」と説得すると、新間氏も一転して乗り気となった。1973年9月の闘魂シリーズ前半にパワーズが参戦、9月10日の蔵前国技館大会でパワーズに猪木が挑戦し、1-1の後で猪木が卍固めでパワーズからギブアップを奪いNWF世界ヘビー級王座を奪取、こうしてNWF王座は新日本に移された。

 猪木は1974年3月21日にクリーブランドに遠征してNWFの主催するビックマッチに参戦、アニー・ラッド相手に防衛戦が行われたが、このビックマッチがアメリカにおけるNWFの最後の興行となり、NWFは4年の歴史に幕を閉じた。こうしてNWFは新日本の一部として取り込まれたが、新日本はNWFはアメリカにまだ存在しているとし、新日本から一時的に追放されたシンが来日する際には「アメリカのNWF本部の指名」としてシンを来日させるなど、NWFの名前を大きく活用した。パワーズは新日本の常連外国人選手として引き続き参戦し、猪木のNWF王座に3度挑戦したが、王座を奪還することが出来ず、新日本もWWF(WWE)と提携を果たしてアンドレ・ザ・ジャイアントや大物外国人選手が来日するようになると、新日本におけるパワーズもランクも下がっていった。

 パワーズは1975年にエディ・アイホーンという億万長者をバックにつけたマルチネスと再び組み、IWAを旗揚げ、WWFに対して侵攻を開始すると、新日本プロレスにも救援を求めたが、新日本はIWAと敵対しているWWFと提携を結んでいただけでなく、NWAの会員になるのも間近だったことから、パワーズの救援要請には応じることが出来ず、IWAもNWAやAWAとも手を組んだWWFとの興行戦争に敗れ、IWAも店じまいとなった。

 NWF王座は猪木がシンやアンドレ、ストロング小林や大木金太郎相手に防衛戦を行い、猪木自身が権威を高められたかに思われたが、1976年に新日本も条件付きでNWAに加盟することになると、NWAのルールに則りNWFから世界の名称が外されることになった。猪木はNWF王座から世界が外されることに反発したが、NWAはマルチネスとパワーズがIWAを作ったことで、NWFという団体はアメリカには存在しておらず、新日本の王座になっていることに見抜いていたのかもしれない、この年の猪木はモハメド・アリと異種格闘技戦を行ったものの、ボクサー相手に寝て対応したこともNWAの主流派プロモーターからの風当たりが強い要因となり、納得できない猪木はNWA脱退も視野に入れたが、最終的に応じ、NWFから世界の名称が外された。

 NWF王座は途中でシン、スタン・ハンセンに明け渡したものの、7年半にわたって猪木や新日本の代名詞的なベルトとなった。しかし、NWAによって世界の名称が外されたことがきっかけになったのか IWGP構想が掲げられると、それに伴って新日本のヘビー級のベルトが全て封印されることになり、1981年4月にハンセンとの王座決定戦を最後に封印された。

 2002年8月に藤田和之が「本物の戦いをしたいという僕等の想い」と発言したことがきっかけとなってNWF王座が復活、藤田、高山善廣、安田忠夫、高阪剛の間で王座決定トーナメントが開催され、高山が王者となり1年間にわたって保持、NOAHのリングでも力皇猛相手に防衛戦を行ったが、2004年1月4日にIWGPヘビー級王者だった中邑真輔とダブルタイトル戦を行い、中邑が勝利を収めたことで王座は統一され、再び封印された。

 パワーズは1980年11月に開催された「第1回MSGタッグリーグ戦」にNWF時代の好敵手であるオックス・ベーカーと組んで参戦したが、リーグ戦は連敗どころかベーカーが新日本側とトラブルとなって途中帰国したため、煽りを受けたパワーズも途中帰国を余儀なくされたが、これが現役として最後の来日となり、1982年まで現役を続けたが、引退して実業家に転身した。
 1990年9月に猪木のレスラー生活30周年記念イベントに招かれて来日し、グレーテスト18クラブ王座の管理者の1人に選ばれた。その後は故郷のカナダ・オンタリオ州ハミルトンで余生を過ごしていたが、2022年12月30日、79歳で死去した。

ご冥福をお祈りいたします

 

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