ジャパンプロレスが野心に燃えた1985年③BIという厚い壁に阻まれ夢破れる


念願だったテレビ局も着くことになって独立へ秒読み段階と思われていたジャパンプロレスだったが、急転直下の事態が起きてしまう。TBSがジャパンプロレスを中継することを見送ってしまったのだ。

TBSは過去に国際プロレスを中継していたが、中継を開始する際の様々なトラブルが起きた経緯もあって上層部の中にプロレスに嫌悪する実力者がいたため、寸前でGOサインが出なかったという。そのため制作会社との契約も、放送が実現しない場合は効力を失うことから破棄されてしまった。

9月26日のジャパンプロレスのゴルフコンペの場で長州力が「今年中のプレ・オールスター戦ない」と発言する。長州は「要するに選手が集まらなかったということだよ」と理由を述べたが、参加を期待していた第1次UWFで前田日明が佐山聡とシュートマッチ事件を引き起こしてしまったことで内紛が勃発し、ジャパンプロレスはUWFの浦田昇社長を通じて交渉していたのだが、前田の師匠である田中正吾によって浦田社長が失脚すると、田中氏が交渉役となって新日本プロレスと急接近していた。「長州も、オレはUWFからは2人参加してくると思っていたし、確信していたんだけどな…」と落胆したが、長州が参加すると見ていたのは全日本プロレスも獲得を狙っていた前田日明と髙田伸彦だったと見ていいだろう。馬場も水面下で前田と髙田の獲得に動いていたが、新日本プロレスと接近していることがわかると手を引いていた。

TBSが中継を見送り、UWFが新日本プロレスとの提携に傾いたことでジャパンプロレスは完全に独立を断念し、全日本プロレスとの関係修復を選択せざる得なくなった。馬場も人数が増えすぎたことでジャパンプロレスとの提携を見直し、独立を容認していたのだが、10月からゴールデンタイムに復帰することで、視聴率を稼ぐには長州の必要性を感じていた。おそらく長州の必要性を重視したのは日本テレビで、馬場の考える日本人vs外国人路線回帰ではゴールデンタイムで視聴率が取れないと見ていたのかもしれない。

全日本プロレスは関係修復にあたって新たな好条件を提示し、これまで日本テレビから支払われる放映料の10%をジャパンプロレスに支払っていたが、ゴールデンタイム復帰に伴って15%に引き上げ、両国国技館など東京の大会場を基準に全日本プロレスとジャパンプロレスの合同興行にすること、後楽園ホールは年間興行数に半分の主催権をジャパンプロレスに与えること、札幌中島体育センターは年1回、愛知県体育館と大阪府立体育会館は年2回の主催権をジャパンプロレスに与えることを契約書に盛り込んだ。ジャパンプロレスにとって好条件でもあるが、その代わりジャパンプロレス所属選手は、ジャパンプロレスが存続する限り、全日本プロレス所属選手として契約を結び、ジャパンプロレスの自主興行シリーズも年内をもって終了、全日本プロレスはその対価として4000万円をジャパンプロレスに支払うという新たな条件も付けくわえられていた。全日本プロレスからの条件はジャパンプロレスの独立の芽を完全に断たれることを意味していたが、TBSのバックアップが得られない以上、全日本プロレスからの条件を飲むしかなく、全日本プロレスとジャパンプロレスは新しい契約を結んだことで提携関係は継続されることになった。

そして年末に長州らジャパンプロレス勢に新たな足枷が加えられることになった、12月15日、力道山23回忌法要が東京の池上本願寺が行われ、馬場だけでなくアントニオ猪木も出席し、力道山の墓前で二人が握手を交わすと、猪木から会談を申し入れ、19日に猪木と副社長の坂口征二が新日本プロレスのハワイ遠征の際に、ハワイに滞在していた馬場を訪れ会談を持った。ハワイ会談の1週間後に馬場と猪木は極秘で会談、双方の弁護士の立会のもと『引き抜き防止協定』が結ばれたが、マスコミの前で二人の握手をしたのは『引き抜き防止協定』が結ばれたことへのアピールが目的だった。防止協定に中身はリストに上がっている選手を引き抜かないというもので、弁護士が立ちあっていることから法的効力を持っていた。

馬場と猪木が利害関係が一致して手を組む、それは長州が一番怖れていたことで、長州が「俺たちの時代だ」と叫んだ8月5日の大阪城ホール大会では、ジャパンプロレスがスーパー・ストロング・マシンを引き抜いた際にも一番反対していたのは長州で「これ以上、猪木さんを敵に回すのは得策ではない」と大塚会長に訴えていたが、既にマシンは大阪に来ていたことから、長州の反対意見は押し切られ、マシンを上げざる得なくなっていた。

『引き抜き防止協定』の煽りを食らったのはマシンらカルガリーハリケーンズで、マシンとヒロ、高野俊二は新日本プロレスとの契約は終わっていなかったことから、新日本プロレス側の引き抜き防止リストに載せられてしまい、11月に開催したジャパンプロレスの最後のシリーズ「ニューウェーブ・イン・ジャパン」には参戦出来たものの、ジャパンプロレスとの対戦が中心で全日本プロレス勢との対戦は組まれなかった。また新日本プロレスが全日本プロレスから引き抜いたブルーザー・ブロディも12月12日、宮城県スポーツセンターで行われた「IWGPタッグリーグ戦」優勝決定戦を当日になってボイコットする事件を起こしおり、ブロディも新日本プロレス側の引き抜き防止協定のリストに載せられたことで事実上日本マットから締め出されてしまった。
ハリケーンズは全日本プロレスのシリーズには参戦出来ないため、事実上干された状態となり、それでも大塚会長はせっかく引き抜いたハリケーンズを遊ばせるわけにはいかないということで活躍の場を与えるために、86年1月1日の後楽園大会から開幕する「ニューイヤー・ウォーズSUPER BATTLE’86」にカルガリーハリケーンズの参戦を発表して強行突破を図り、ハリケーンズも試合の準備をして後楽園ホールにまで乗り込んでいったが、『引き抜き防止協定』を盾にした全日本プロレスが門前払いを受け、この仕打ちにハリケーンズは怒り全日本プロレスだけでなく新日本プロレスをも非難して会場を後にするが、ハリケーンズは新日本プロレスとの契約が切れる3月末日まで全日本プロレスに上がることが出来ず、長州が掲げた「俺たちの時代」はBIという巨大な壁に阻まれ頓挫してしまった。

新日本プロレスとの契約が切れた4月からカルガリーハリケーンズはやっと全日本プロレスに参戦、最初は三人セットで全日本マットに上がっていたものの、次第に全日本本隊に叛旗を翻したザ・グレート・カブキ、長州に叛旗を翻したキラー・カーンとの共闘、ラッシャー木村と阿修羅・原の国際血盟団との共闘で便利屋的ポジションに甘んじるようになり、またマシンは原と組んでアジアタッグを奪取、ヒロは世界ジュニアヘビー級王座奪取、体格のある俊二は馬場に気に入られてAWAに海外武者修行へ出されるなど、個々の活動が多くなっていった。馬場もハリケーンズに対しては一定の評価はしていたが、充分に売り出されていないままで新日本プロレスを飛び出したこともあって、ハリケーンズの価値は全日本プロレスでは小さなものでしかなかった。

ハリケーンズが全日本プロレスに参戦して1年後の1987年3月、長州は再びジャパンプロレスの完全独立を図る。この頃の長州は水面下で新日本プロレスと会談しており、新日本プロレスへのUターンが取り沙汰されていた。そこで長州は新日本プロレスと全日本プロレス双方に上がることで、ジャパンプロレスにも自主興行を開催する際には新日本プロレス、全日本プロレス双方の選手にもバーターとして上がってもらおうとしていた。それは長州にとって新日本プロレスへのUターンは全日本プロレスでの戦いに行き詰まっていたことから願ってもないことだったが、引き抜き防止協定の存在もある限り、新日本プロレスへのUターンは絶対に許されないものだった。そこで考え抜いたのは長州が両団体を股にかけて参戦することで、引き抜き協定にも『本協定書の期間中に、お互いに相手の所属選手を、いかなる名目でも自主興行に出場させないことを約する。だだし必要のある時は、相手方の同意を得て自社の興行への相手方所属選手の派遣出場を要請することが出来る』と入っていたことから、新日本プロレスと全日本プロレスが話し合い、長州らジャパンプロレスを共有する形を取ればいいと考えたのだ。長州にしてみれば馬場、猪木の存在は無視することは出来ないため、二人の顔を立てるにはこれしかないと考えていたと思う。

長州の案には大塚会長だけでなくハリケーンズも賛成したが、この頃のジャパンプロレスは内部分裂寸前で、長州派と谷津と永源遥による反長州派で対立が起きており、反長州派は既に全日本プロレスに取り込まれていたことから、長州の案には猛反対し、あくまで長州の一本釣りを狙う新日本プロレスも納得するわけがなかった。孤立した長州は自分に追随する選手と共に新日本プロレスへのUターンを選ばざる得なかったことで、ジャパンプロレスの分裂は決定的となった。ジャパンプロレスの分裂には子会社扱いだったハリケーンズにも影響が及び、マシンとヒロは長州に追随して新日本プロレスへのUターンを選んだが、高野は海外遠征中だったこともあって全日本プロレスに残らざる得なくなり、ハリケーンズもマット界の流れに振り回される形で解散を余儀なくされた。

ジャパンプロレスやカルガリーハリケーンズも長州に勢いがあり、また独立しても上手くやっていけると考えていたと思う、しかし一つ歯車が狂うと全てが崩れ去ってしまった。また『俺たちの時代』発言で独走してしまったことで馬場と猪木に警戒されてしまった。最後に取った長州の団体を股にかける案も、現在ではうまくいっていたかもしれないが、馬場と猪木が絶大なる力を持っているうちは無理だった。長州の案は時代に早すぎたものだったのかもしれない。

長州は新日本プロレスに戻ると、藤波と前田と組んで世代闘争を起こし新日本プロレス内で「俺たちの時代」を実現しようとしたが、藤波と前田とは足並みが揃わず世代闘争は頓挫、一方の全日本プロレスは皮肉にも長州が去ったことで鶴田、天龍中心の鶴龍時代へと突入する。90年代に入ると新日本プロレスでは長州が現場を取り仕切る立場となって武藤敬司、橋本真也、蝶野正洋の闘魂三銃士が台頭、全日本プロレスでは天龍が退団、鶴田が病気で一線を退くことになったが、三沢光晴、川田利明、田上明、小橋建太が台頭。また様々なインディー団体が生まれて多団体時代となったが、馬場は現役を続け、猪木も1997年に引退したが、マット界の首領として影響力を大きく残していた。

ところが1999年に馬場が急逝、猪木も2005年に新日本プロレスの経営悪化に伴って株式を売却して経営から退くも、経営再建を目指す新体制と対立して、新日本プロレスを飛び出し、新団体「IGF」を旗揚げしたが、新日本プロレスから離れただけでなく、また猪木の影響を受けない新団体も次々と旗揚げしたことで猪木の影響力も低下、新日本プロレスはブシロード体制となって再建に成功したのに対し、猪木は自身が旗揚げしたIGFとトラブルとなって撤退、IGFも消滅したが、猪木が新日本プロレスから離れた時点で馬場、猪木の二大首領の時代は終わっていたのかもしれない。

(参考資料 ベースボールマガジン社「日本プロレス事件史Vol.29 GスピリッツVol.29「特集・四天王プロレス」)

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