青柳政司


FMW、新日本プロレス、NOAHなどで活躍してきた空手家でありプロレスだーだった青柳政司が死去した、享年65歳。

青柳はプロレスラー志望だったが身長が低いため断念、高校を中退して働きながら空手を学び、22歳には極真空手の「第10回オープントーナメント全日本空手道選手権大会」に出場して他流派ながらベスト16に連ね、梶原氏の劇画「四角いジャングル」でも描かれたこともあるなど注目される存在だった。その後地元愛知で誠心会館を設立、正道会館や士道館にも出場することで梶原一騎や 真樹日出夫などと交流したことがきっかけになって、1989年7月2日、「第2回梶原一騎追悼興行『格闘技の祭典89』」で大仁田厚と対戦、1990年10月にはFMW旗揚げにも参戦して大仁田と抗争を繰り広げた。

1991年にFMWから離脱した青柳は剛竜馬のパイオニア戦志に参戦、パイオニア戦志が新日本プロレスと提携すると、青柳も新日本プロレスに参戦し、6月12日には獣神サンダー・ライガーと異種格闘技戦で対戦すると、青柳がライガーのマスクを破いたことでライガーの怒りを買い叩き潰されたが、パイオニア戦志が活動停止しても青柳だけは新日本プロレスに留まり参戦し続けた。

1992年に入ると些細なことから齋藤彰俊ら誠心会館と新日本プロレスがトラブルになったことがきっかけになって抗争が勃発、青柳も途中から館長の立場で誠心会館側に加わり、越中詩郎と小林邦昭ら新日本プロレス勢と抗争を繰り広げたが、この抗争がきっかけになって反選手会同盟が結成され、平成維震軍に発展した。

1994年に青柳は誠心会館運営に専念するために平成維震軍を脱退して新日本プロレスからも離脱、その後新格闘プロレスに参加、WWEマニアツアーにも参戦したが、新格闘技プロレスは青柳自身が最初からやる気がないのに無理やり参加させられたにすぎず、ギャラの未払いもあってすぐ離脱、その後はFMWに再び参戦してし1994年8月28日大阪城ホールで異種格闘技電有刺鉄線電流爆破バリケードマットダブルヘルデスマッチで大仁田と対戦、FMW再び離脱すると誠心会館を拠点に新東京プロレスやレッスル夢ファクトリーなどインディーに参戦した。

2000年にプロレスリングNOAHを旗揚げすると新日本プロレスを退団していた彰俊と共に参戦、彰俊は新日本プロレス退団後はセミリタイア状態になっていたが、彰俊がレギュラー定着することが決まると、それを見届けるかのように青柳はすぐ離脱、名古屋を拠点に活動し続けた。

だが、2013年になると青柳は網膜剥離が悪化し左目が完全に失明、それでもプロレスを続けたが、2015年にはバイク事故で右膝から下を30箇所粉砕骨折する重傷を負ってドクターから再起不能の宣告を受けNOAHのリングで引退するも、2017年に奇跡的に復活を果たして大仁田と抗争やプロレスリングマスターズなどに参戦、2020年2月24日のNOAH名古屋大会で開催された彰俊のデビュー20周年記念試合にも参戦して仁王(Hi69)相手にニールキックを披露して健在ぶりを見せ、昨年も大仁田を対戦するなど精力的に活動していた。

2022年7月7日、青柳は6日に亡くなっていた。打倒・プロレスを掲げてプロレスにどっぷり漬かった空手家の旅はこうして突然終わった。大仁田もミスター・ポーゴ、ターザン後藤、そして青柳とFMWで対戦した好敵手が次々亡くなったことで一番寂しく感じているのかもしれない。

ご冥福をお祈りいたします

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