日米を席巻したnWo⑤nWo JAPANも消滅…受け継がれる黒の系譜


1999年1月から武藤敬司がnWo JAPANを乗っ取ったことで、首の負傷で長らく欠場していた蝶野正洋もnWo JAPANから離脱して独自行動を取り、札幌中島体育センター2連戦の初日である2月5日から復帰、蝶野は復帰戦で武藤&ヒロとハンディキャップマッチで対戦し、1vs2で奮戦する蝶野を武藤が足四の字固めで追い詰めにかかるが、突如AKIRAが乱入して武藤にムササビプレスを投下して救出する。AKIRAは平成維震軍に属していたが網膜剥離で欠場し、俳優業を開始して「仮面ライダー・クウガ」にも出演、レスラーとしてはほとんどセミリタイアの状況だったが、蝶野の誘いを受けてレスラーに復帰することを決意していた。こうして蝶野の新ユニットTEAM 2000が始動してnWo JAPANとの抗争を開始、WCWにおけるnWoウルフバックとnWoハリウッドの抗争を日本で再現する形となったが、TEAM 2000にはnWoスティングとマイケル・ウォールストリートが合流、時には大仁田厚とも共闘し、ドン・フライもTEAM2000入りしたことで、蝶野のカリスマ性もあってnWo JAPANを凌ぐ人気ユニットになっていった。

しかし、新日本プロレスもオーナーであるアントニオ猪木の方針で社長である坂口征二が会長に棚上げされ、藤波辰爾が社長に就任したことで、猪木が発言力が強まり現場介入し始め、小川直也を中心とした格闘技路線が推進されるようになるなど、新日本プロレスに混迷の兆しが見え始めていた。

nWo JAPANvsTEAM 2000も2000年1月4日の東京ドーム大会で行われた武藤vs蝶野の一騎打ちで最終決戦となり、武藤のムーンサルトプレスを剣山で迎撃した蝶野がSTFで捕らえ、武藤がロープエスケープしても、蝶野は新技のクロス式STFで捕らえて武藤がギブアップとなり、こうしてnWo JAPANは終焉となって、天山や小島、ノートン、ヒロもTEAM 2000に吸収されてしまったが、武藤は1999年12月10日の大阪府立体育館大会で天龍源一郎に敗れてIWGPヘビー級王座を失っており、蝶野戦へ向けてのテンションを下げていただけでなく、武藤と蝶野もnWoに醒めてしまっていた。

蝶野と武藤がnWoに醒めた理由は、ロイヤリティ問題が起きたからだった。nWo Tシャツが爆発的に売れてロイヤリティが相当入ったにもかかわらず、新日本プロレスは焼肉をごちそうさせるだけで終わり、武藤と蝶野がIWGPタッグを奪取した際にベルトにnWoのスプレーしたフィギアも販売したが、WCWがnWoと印しただけでクレームが入ったことがあったという。

蝶野もグッズやロイヤリティのことは関知していなかったが、ビショフによるとWCWは一切ロイヤリティは求めておらず、フィギアでもクレームはいれていなかったという。ロイヤリティに関してはエリック・ビショフとマサ斎藤との話し合いで名称の使用料も含めたロイヤリティも一切求めないことを約束していたが、それは契約もない二人による信頼関係で成り立っていたことから、キチンとした契約書を作成しなかったのが大きな問題だったのかもしれない。莫大だったnWoマネーがどこへ消えたのかは現在を持って不明である。

また新日本プロレスはWCWとの業務提携を解消する、新日本プロレスは1999年10月に獣神サンダーライガーをWCWに派遣していたが、WCWから派遣する大物選手はなく、2000年1月4日の東京ドーム大会にはゴールドバーグも来日する予定だったが、負傷を理由にドタキャンになるなどトラブルが起きていたことから、両団体の関係はほとんど破綻していた。

そういう状況で武藤がムタとしてビショフの誘いでWCWへ参戦する。ロイヤリティ問題も重なって武藤は新日本プロレスへの想いも醒めており、新日本プロレスとの契約を切れていたこともあって移住覚悟でアメリカへ定着する気だったが、肝心のビショフは業績不振を理由に解任され、現場はWWEから引き抜かれたビンス・ルッソーが現場を取り仕切っていた。

この頃のWCWは内部の足の引っ張り合いで現場責任者が頻繁に代わって混乱しており、次世代を担う選手だったクリス・ジェリコ、ザ・ジャイアント(ビックショー)、新日本プロレスの常連だったワイルド・ペガサスことクリス・ベノワ、エディ・ゲレロ、ディーン・マレンコ、ペリー・サターンがWCWに見切りをつけてWWEへ次々移籍してしまっていた。そういう状況の中でムタがWCWへ復帰するも、排他主義を公言するルッソーは有色人種のムタを冷遇し、ムタもWCWからの扱いに納得できず、僅か半年でWCWを去り、猪木の誘いで新日本プロレスへ戻っていった。

蝶野のTEAM2000はnWo JAPAN残党を加えたただけでなく、敵対してきた後藤達俊、小原道由の犬軍団を吸収、ジュニアから邪道、外道、金本浩二を加え、アルコール依存症から来る無断欠場、暴力事件でWCWを解雇されたホール、WWEから一時的に解雇されていたエディ・ゲレロまで加えて一大勢力となり、帰国した武藤も薄くなった頭を剃り落としてスキンヘッドになってイメージを一新させ、全日本プロレスにも参戦してBATTを結成し、TEAM 2000と抗争を繰り広げるが、新日本プロレスは猪木を中心とした格闘技路線がメインとなり、強さだけを押し出すストロングスタイルをアピールする時代に逆戻りしてしまっていた。

WCWでは2001年1月11日にWCWの親会社であるタイム・ワーナーがインターネット接続会社であるAOLと合併してAOLタイム・ワーナーとなったと同時にWCWの身売りを発表する。WCWは損失を6200万ドルほどの赤字を抱えおり、AOLタイムワーナーは赤字部門となったWCWを売却して切り離そうとしていた。この頃のビショフはまたWCWから解雇されて投資会社の役員になっており、WCWを投資会社に買収させてなんとか存続させようとしていたが、タイムワーナーは「マンデーナイトロ」を含めたWCW関連の番組を全て打ち切ることを決定してしまい、ビショフによるWCW存続計画も頓挫してしまう。

2001年3月26日、「マンデーナイトロ」の最終回に現れたのはWWEのビンス・マクマホンで「WWE RAW IS WAR」の二元生中継となっていた。ビンスはWWEの会場でWCWを買収したことを発表、こうしてWWEvsWCWにおける「マンデーナイトウォーズ」はWCWがWWEに吸収されることで幕を閉じた。

日本では2002年に入ると武藤は全日本プロレスへ移籍、小島も追随し、また蝶野も2・1札幌で猪木の裁定で解任された長州の後任として現場監督に就任させられ、こうしてTEAM 2000も自然消滅する。

蝶野は現場を取り仕切ったが、アメリカンプロレスを否定する猪木の方針でプロレスよりも格闘プロレスをメインに扱ったことで、新日本プロレスはファンのニーズを見失ってしまい、人気や観客動員低下に歯止めが効かず経営が悪化していく、蝶野は現場監督を退き、再び反体制に戻ってBLACK NEW JAPANを結成したが、猪木はユークスに新日本プロレスを売却、蝶野も新体制となった新日本プロレスに留まったが、再生を請け負った新体制と蝶野は反りが合わず、蝶野も2010年をもって新日本プロレスを退団してフリーとなり、ブシロード体制になるまで新日本プロレスとは距離を取った。

2002年にWWEでビンス・マクマホンがリック・フレアーと団体経営権を巡る争いで、ホーガン&ナッシュ&ホールを揃えてWWE内でnWoを復活させたが、WWEを席巻するまでには至らず、ホールがトラブルで解雇、ナッシュが負傷で欠場したため、WWEでのnWoは中途半端な形で終わった。

蝶野が新日本プロレスを去った後は様々なヒール、また反体制ユニットが結成されたが、2013年にnWoと同じ黒を基調にしたユニット、BULLET CLUBが誕生、リーダーはプリンス・デヴィット(フィン・ベイラー)、AJスタイルズ、ケニー・オメガと代替わりして現在はジェイ・ホワイトがリーダーとなり、現在はブシロード体制で人気が復活した新日本プロレスがアメリカに進出したことで、蝶野がnWo時代に描いていた日米を股に掛けたストーリーを現在BULLET CLUBが同時展開、蝶野が作り出した黒を現在はBULLET CLUBがしっかり受け継いでいだ。

nWoは2020年にWWE殿堂入りを果たし、初期メンバーであるホールは2022年3月14日に死去、日米を席巻したnWoは今でも伝説として残っている。

(参考資料 福留崇広著イーストプレス「さよならムーンサルトプレス 武藤敬司35年の全記録」、斎藤文彦著電波社『フミ・サイトーのアメリカンプロレス講座』、新日本プロレスワールド、TEAM2000の試合は新日本プロレスプロレスワールドで視聴できます)

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