IWGPタッグ王座の前身、坂口征二の独壇場だった北米タッグ王座


1973年8月24日、アメリカ・ロサンゼルスオリンピックオーデトリアムにて、アントニオ猪木&坂口征二の黄金コンビがジョニー・パワーズ&パット・パターソン組の保持するNWA認定北米タッグ王座に挑戦、試合は3本勝負で1-1のタイスコアの3本目で黄金コンビが勝利を奪うも、反則裁定のため王座は移動ならず、12月7日の大阪で再戦が行われたが、3本目で黄金コンビが勝利も反則裁定で王座奪取に失敗する。

王座はカール・フォン・ショッツ&カール・フォン・ヘスへと渡って6月7日の札幌で黄金コンビが挑戦したが、今度は3本目で猪木が反則負けとなって王座奪取に失敗、そして8月16日の4度目の挑戦では黄金コンビが敵地であるロサンゼルスに乗り込み、3本目で坂口がバックブリーカーでショッツを降し、やっと王座奪取に成功した。

北米タッグ王座はNWAに加盟している「ハリウッドスタープロレスリング」でプロモーターであるマイク・ラベールが認定しているベルトで、NWAは基本的にNWA世界ヘビー級王座はあったものの、各州で認定している王座に関してはタッチしておらず、タイトルは竹の子のように乱立しており、新日本プロレスもNWAにはまだ加盟していなかったが、プロモーター独自で提携にすることは許されていた。

新日本プロレスは1973年4月からNETによるテレビ放送は開始したが、まだ看板とする王座はなく、12月に猪木がやっとNWF世界ヘビー級王座を獲得して看板タイトルを確保するも、タッグタイトルはまだなかった。ジャイアント馬場の全日本プロレスもテキサス州アマリロのプロモーターであるドリー・ファンク・シニアを使って日本プロレスの至宝の一つであるインターナショナルタッグ王座を手中に収めており、ジャイアント馬場&ジャンボ鶴田の師弟コンビが王座奪取を狙っていた。

北米タッグ王座を奪取した猪木は「坂口と一緒になって1年半、2人でタッグを締めたかった、名前はノースアメリカンタッグだが、オレは世界タッグだと思っている。何よりも馬場&鶴田組よりも先にタッグベルトになったことが嬉しい」とコメントしたが、猪木が馬場&鶴田の名前を出してカチンときたのか、全日本プロレス側が8月31日の「全日本プロレス中継」で倉持隆夫アナと解説で東京スポーツの山田隆氏が、倉持アナ「一部で、NWA認定と称するタイトルを使って選手権試合を行っている団体がありますが、これは公式なものではありません、そうですよね?」山田氏「その通りです、タッグ選手権に関しては、各地のNWAメンバーシップを持っているプロモーターが、言葉が悪いですが、勝手にNWAの名前を使ってタイトルマッチを行っているだけで、NWAの認定ではありません。NWAはタッグ王座は黙認しているだけです。日本ではNWAのメンバーになっているのはジャイアント馬場だけです」と主張して、北米タッグ王座はNWAが認定していないベルトであると主張するが、おそらくだが馬場の主張を日本テレビ側が代弁したと見ていいだろう。

これに対して新間寿氏は「このタイトルはNWA副会長であるマイク・ラベールの興行で行われたもので、猪木と坂口がラベールの認可で奪取したものですから、仮に新日本プロレスがNWAのメンバーであろうがなかろうが、関係ありません、悔しければ実力で取りに来てください、いつでも挑戦を受けます」とラベールがNWA副会長の座にいることを大いに利用して反論し、抗議を一切受け付けなかった。1975年2月5日のテキサス州サンアントニオで馬場&鶴田がザ・ファンクスを破り念願のインタータッグ王座を獲得し、この時はNWA会長だったサム・マソニックが立会人として招かれていたが、あくまで北米タッグよりインタータッグ王座こそがNWAが認めたタイトルであることを強調するためにわざわざマソニックを呼び寄せたのかもしれない。

しかしいざ北米タッグ王座を奪取しても、黄金コンビの防衛戦の相手は格下の二流チームばかりで、インタータッグのようにファンクスのような一流チームが挑戦することが少なく、トップ外国人であるアンドレ・ザ・ジャイアント、タイガー・ジェット・シンと格下レスラーを組ませて挑戦させるなど苦心し、インタータッグのような権威を作り上げるまでには至らなかった。北米タッグは一旦ハリウッドブロンドズとの防衛戦で無効試合となり、タイトル預かりとなっていったん王座は手離したが、黄金コンビはすぐ奪還して1970年まで保持し続けた。

しかし1976年に入ると猪木がウイリアム・ルスカ、モハメド・アリとの異種格闘技戦に専念するために北米タッグ王座を返上するも、黄金コンビと互角に渡り合えるチームがなく、猪木がこれ以上タッグ王座を保持するのは意味がないと考えたからかもしれない。北米タッグは坂口に任されることになったが、パートナーに抜擢したのはストロング小林だった。小林は猪木との戦いに敗れた後、1975年5月に新日本プロレスに入団して、猪木と坂口に次ぐ第3の男となっていたが、新日本に入団したことでなかなかタイトル戦線に加わることが出来なかった。

2月5日の札幌で坂口&小林組が始動しシン&ブルータス・ムルンバ組との王座決定戦で新王者組となったが、坂口にとっては猪木がアリ戦に専念させるために北米タッグ王座を充実させなければならないことから、坂口自らアメリカへ飛んで対戦相手になるチームを探して防衛戦の相手として迎えたが、坂口にとって小林は息がぴったり合ったことから格好のパートナーだった。「猪木さんと組んでいる時はだいたい6対4で割合でオレが出ていったが、小林さんとコンビを組んだ時は、フィフティフィフティで、互いに息が合ってやりやすかったよ」と答えていたが、後年に猪木師弟コンビとしてタッグを組むことにある藤波辰爾も「パートナーとしての自分の役目はメインの主役である猪木さんがどうやって光らせなければならないのかを考えていた」と語っていたとおり、猪木と組んでいる坂口と藤波は最終的には主役である猪木を光らせなければならないことを常々考えていたが、坂口は小林とのタッグではそれぞれが五分の関係だから互いに引き立たせることが出来るチームと思っていた。

ところが小林本人は「相手にやられてやっと坂口に交代して、そこから一気呵成に戦うのが見せ場なのに、あの人は自分がやられいても、やり返して交代するから、僕の見せ場がなくなり、また試合が最初からになってしまう。そういうパートナーを思う気持ちがないの」と坂口とのタッグは好きではなかった。坂口&小林は1977年2月の大阪でシン&上田馬之助組に敗れて王座を奪われた際に、小林の腕の負傷が原因で敗れ、周囲からも小林の不甲斐なさを批判されたことから、小林の中では坂口との関係は五分ではなく、自分が坂口の引き立て役として扱われていると受け止めていたのかもしれない。

坂口&小林vsシン&上田の北米タッグ王座を巡る攻防も新日本プロレスの看板となって、6月にはアメリカバージニア州まで再戦が行われたが、7月の福岡で坂口&小林が奪還に成功、その後は2年間に渡って坂口&小林組は長期政権を築いた。

その坂口&小林によって長期政権を築いてきた北米タッグ王座だが、1979年4月に坂口&小林はヒロ・マツダ&マサ斎藤組に敗れて王座を明け渡してしまう。

本来なら前王者として坂口&小林で再戦するどころだが、坂口は小林とタッグを解消してパートナーに長州力を抜擢する。この頃になると坂口は藤波の台頭もあって次第に一歩引き出し始めており、新日本プロレス全体のことを考える立場になっていた。長州の抜擢も新日本全体の事を考えての抜擢で、この頃の長州もトップの壁をなかなか突き破れず、藤波に後れを取るようになってスランプに陥っていた。

6月に坂口は王座奪還のままでロスサンゼルスまでマツダ&斎藤を追いかけ、1-1の3本目で坂口の期待に応えて長州がバックドロップで斎藤から3カウントを奪い王座奪取に成功、7月に四日市で行われた初防衛戦では坂口の前パートナーだった小林が木村健吾をパートナーに抜擢して挑戦し、3本目では長州がバックドロップで小林から3カウントを奪い防衛することで小林越えを果たして、坂口のパートナーとして認められた。坂口は長州と組むにあたって「やりたいようにやらせた」と語っているように、放任主義を取って長州のやりたいようにやらせて発奮を促した。そのかいもあって坂口&長州組はシン&上田やWWFから参戦したサモアンズなど強豪チームが挑戦しても、一度も奪われずに防衛し続けた。

最初こそは北米タッグ王座も黄金コンビのために用意されたベルトだったが、次第に坂口自身がプロデュースすることで権威を高めた。まさに坂口あってこそのベルトだった。

1981年4月にIWGP実行委員会が発足すると、新日本プロレスはジュニアを除くヘビー級のベルトは全て返上となり、坂口が築き上げてきた北米タッグ王座も返上となって坂口&長州のタッグはIWGP路線によって終わりとなり、新日本におけるタッグ王座も封印となった。

その後3年半にわたって新日本プロレスはタッグ選手権を行わなかったが、1985年5月に藤波が木村と組んでディック・マードック&アドリアン・アドニス組を破りWWFインターナショナルタッグ王座を獲得したことで、新日本におけるタッグ選手権が復活、WWFインターナショナルタッグ王座は、全日本プロレスの鶴田&天龍源一郎組が保持しているインターナショナルタッグ王座に対抗して新日本とWWFが作り上げた王座だったが、新日本とWWFが提携が終わったことで僅か5カ月で王座は封印となってしまう。

それに伴ってIWGPタッグ王座が新設、王座決定リーグ戦が開催され、優勝決定戦にはトップだったブルーザー・ブロディ&ジミー・スヌーカーがボイコットしたことにより、北米タッグ王座を持ち帰った猪木&坂口の復活黄金コンビと初代のWWFインタータッグ王者だった藤波&木村の間で争われ、藤波がドラゴンスープレックスホールドで猪木から3カウントを奪うことで初代王者組となった。以降はIWGPタッグ王座も新日本の看板タイトルになり、現在に至っている。

(参考資料 ベースボールマガジン社『日本プロレス事件史Vol.16『王者の宿命』」、新日本プロレスワールド、北米タッグ選手権は新日本プロレスプロレスワールドにて視聴できます)

読み込み中…

エラーが発生しました。ページを再読み込みして、もう一度お試しください。

コメントは受け付けていません。

WordPress.com でサイトを作成

ページ先頭へ ↑

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。