FMW旗揚げのきっかけになった大仁田厚vs青柳政司の異種格闘技戦


1989年7月2日、「第2回梶原一騎追悼興行『格闘技の祭典89』」が後楽園ホールで開催され、大仁田厚は空手家の青柳政司と異種格闘技戦で対戦した。

1982年に全日本プロレスでアメリカ武者修行中だった大仁田厚はチャボ・ゲレロを破りNWAインターナショナルジュニアヘビー級王座を奪取、凱旋帰国して全日本ジュニアのトップとして君臨するはずだったが、1983年3月にヘクター・ゲレロとの防衛戦で勝利を収めた後で、リングから颯爽と飛び降りた際に床に打ち付け、左膝蓋骨粉砕骨折の重傷を負い、復帰はしたものの左膝骨折の影響で満足する動きはすることが出来ず現役を引退、そのあとは水商売やタレントなど様々な職業を転々としていたが、プロレスへの未練は残しており、1988年にはジャパン女子プロレスのコーチ兼営業部員となっていた。

ジャパン女子プロレスは1986年に旗揚げしたが、旗揚げ直後から経営が芳しくなかったこともあり、テコ入れとしてアントニオ猪木の元側近で”過激な仕掛け人”の新間寿氏と元ジャパンプロレス会長だった大塚直樹氏を顧問として招くと、新間氏はジャパン女子を女子プロレスだけでなく、 男子プロレスや空手などあらゆる格闘技を融合した格闘技連合として再出発を図り、現役復帰を模索していた大仁田も賛同、大仁田は12月22日に大阪府立体育会館で行われた新生UWFにも挑戦状を持参して乗り込み、神真慈社長に「チケットを持ってますか?」と門前払いされるも、格闘技連合の存在を大きくアピールしたが、神社長の発言は大仁田にとってレスラーとしてのプライドを傷つけるものだった。

,新間氏は新格闘技連合の一環としてジャパン女子に男子部を設立することを計画、レフェリーだったグラン浜田とコーチだった大仁田厚がリング上で対立したことを利用し、10月28日の後楽園大会で二人を対戦させたが、フロント側の一方的な決定に風間ルミら所属選手や女子プロレスファンも猛反発したため男子部は頓挫、新間氏はジャパン女子から撤退し、そのあおりを受けて浜田だけでなく大仁田もジャパン女子を去らざる得なくなってしまった。

現役復帰しながらも上がるリングを失った大仁田は剛竜馬が旗揚げしていた「パイオニア戦誌」に参戦したが、新間寿氏もアントニオ猪木のスポーツ平和党の幹事長を務めていたこともあって多忙、「格闘技連合」も動く気配もないため、大仁田も「もはや上がるリングは自分で作るしかない」とウォーリー山口、茨木清志と共に独自で動いて新団体設立を計画し始めたところで、新間氏からやっと連絡が入り、「第2回梶原一騎追悼興行」に参戦するように指示された。

『格闘技の祭典は』 1987年に死去した漫画原作者の梶原一騎の実弟である真樹日佐夫が主催するもので、真樹日佐夫は「格闘技連合」にも名を連ねていた。当初は新日本プロレスの所属だった藤原喜明の異種格闘技戦を予定していたが、藤原が新日本を離脱して新生UWFに移籍したため、格闘技連合のつながりから大仁田にオファーをかけたのだ。

大仁田の相手は誠心会館の館長で空手家の青柳政司が務めることになった。青柳はプロレスラー志望だったが身長が低いため断念、高校を中退して働きながら空手を学び、22歳には極真空手の「第10回オープントーナメント全日本空手道選手権大会」に出場して他流派ながらベスト16に連ね、梶原氏の劇画「四角いジャングル」でも描かれたこともあるなど注目される存在だった。その後地元愛知で誠心会館を設立、正道会館や士道館にも出場することで梶原氏や 真樹氏との交流が生まれ、青柳がプロレスラー志望であることを知った真樹氏は「プロレスラーと闘ってみたらどうだ」と大仁田戦をオファーした。

こうした経緯があって大仁田vs青柳が実現したが、プロレスvs空手の異種格闘技戦が行われるのは猪木vsウイリー・ウイリアムス戦以来20年ぶりで、「格闘技の祭典」には新間氏のルートで新日本プロレスから星野勘太郎、木戸修、保永昇夫、ジャパン女子からデビル雅美やミス・Aと名乗っていたダイナマイト・関西が参戦、猪木も新間氏の依頼でリング上で挨拶したが、格闘技のリングということで大仁田にしてみればアウェーでいわば敵地、空手ファンから「プロレスに舐められてたまるか!」という空気が充満しきっていた。

ルールは3分5Rで大仁田は通常のタイツとリングシューズ、青柳は胴着だけを着用して素手と素足、レフェリーは1名、ジャッジ2名、勝敗はKOとギブアップのみで、顔面突きやチョーク、サミング、平手打ちは反則、グラウンドは時間無制限でロープエスケープはOK、ランバージャック方式で行われ、青柳のセコンドには空手家のセコンドがズラリ並んだに対し、大仁田のセコンドには新日本プロレス勢は着かず、たけしプロレス軍団からプロレスデビューを目指していた後に外道となる高山圭司、後に邪道となる秋吉昭二、後にスペル・デルフィンとなる脇田洋人、そしてイギリスで自力にてデビューを果たしていた後にウルトラマン・ロビンとなる尾内淳の4人だけが着いた。新日本プロレス勢がセコンドに着かなかったのは、つながりがあるとはいえ新間氏はもう新日本プロレスの人間ではなく、縁もゆかりもない大仁田には関わるつもりはなかったからかもしれない。

第1Rから青柳がローキックやハイキックで大仁田からダウンを奪い、大仁田はタックルからグラウンドを狙って青柳はロープエスケープするも、大仁田が離さないため館内は一気に興奮状態となる。大仁田がフェースロックで捕らえて青柳がロープエスケープした勢いで大仁田が場外へ転落すると、青柳陣営の空手家達が大仁田をリングに押し戻そうとして、大仁田がエキサイトしたため大仁田陣営と青柳陣営が一触即発となって不穏な空気が流れる。

第2Rになると大仁田のランニングエルボーが青柳の側頭部に命中し、青柳は左耳鼓膜を破ってダウンするが、大仁田は青柳を場外へ蹴り出したことで青柳陣営が怒りエプロンにまで駆け上がる、ここは士道館の館長で世界格闘技連合にも名を連ねていた添野義二が青柳陣営を宥めてリングから降ろして試合は続行されるも、第3Rになると大仁田のヘッドロックや脇固めを仕掛け、青柳がロープエスケープしても離さず、第4Rになると大仁田は青柳だけでなくレフェリーまでもラリアットを浴びせ、青柳をショルダースルーでトップロープから落として場外戦に持ち込み、イスで青柳の脳天に一撃を加えてしまう。

大仁田の行為に空手家達が激怒して大仁田に襲い掛かり、本部席のテーブルを手にエプロンに上がる者や、リングに上がる者もいたため大混乱、大仁田のセコンドである秋吉らも空手家らに向かっていって乱闘となる。収拾不可能となった試合はいったん中断となり、再び添野氏がリングに上がって空手家らを宥めてリングから降ろして試合は再開されたが、エキサイトした大仁田は青柳に頭突きを浴びせて流血に追い込み、制止に入ったレフェリーも殴打したことから、青柳の弟子だった松永光弘、正道会館所属だった佐竹雅昭ら正道会館勢も乱入して大仁田や秋吉らと大乱闘になり、空手ファンまで暴れ出すなど、館内は暴動状態となった。

試合は最初こそは試合収拾不可能として無効試合となったものの、空手家達が納得しなかったため、大仁田がレフェリーに暴行を加えてしまったことで反則負けに訂正され、添野氏も空手家達が暴れたことで大仁田に謝罪した。大仁田は後年「オレは会場の全てが見えていたから、プエルトリコやサントドミンゴ、テネシー、何をしでかすかわからない気性の荒い観客に囲まれた状況でヒールに徹して憎まれていたんだから、それぐらいの危機管理能力もつくよ。もちろん度胸だってつくしね」と後楽園騒動を振り返っていたが、アメリカに渡った日本人レスラーは反日感情が強いところでは移動用の車をパンクさせられ、また傷をつけられたり、銃社会だったこともあって発砲されることがあった。特に大仁田が修行したテネシー、プエルトリコは気性の荒いファンも多く、ナイフで斬りつけられることもあった。大仁田にとってカオスな空間はいわば慣れっこであり、この試合で大仁田は自身が目指すスタイルに目覚めたのかもしれない。

大仁田は手持ちの資金5万円で新団体「FMW」旗揚げを決意、「格闘技連合」も関わっていたが、全日空ホテルの鶯の間で行われた旗揚げの記者会見では大仁田は自分の力では興行が打てないため、新間氏や大塚氏に協力を依頼するために設立記者会見に出席してもらい、会見場となったホテルも新間氏らが用意してもらったものだった。新間氏も大仁田の旗揚げは「新格闘技連合」の一環として捕らえていた。

ところが青柳の乱入して大仁田に襲い掛かると、大仁田は口から血を吐いてきていたYシャツを血で染めてしまい、警察や救急車も来る事態にまで発展、また会見で使用されていたホテルの金屏風も青柳の襲撃の際に破損させてしまい、金屏風を破損されたホテル側も激怒して補修費用を新間氏らに請求、ホテル側に対して顔を潰された新間氏らは旗揚げ前からFMWから撤退してしまった。

「あの人達にあるのは新日本プロレスで、どうしても猪木さんの偶像を追ってしまうからね。もし、一緒にやっていったとしても、どこかでぶつかってたんじゃなかな」と大仁田が後年振り返っていたように、大仁田の言う通り新間氏の根底には自身がプロデュースしたアントニオ猪木というものがあり、大仁田が目指す方向性とは相容れないものがあったことから、FMWで一緒にやったとしても遅かれ早かれ亀裂が生じ新間氏らは撤退していたのかもしれない

FMWには大仁田だけでなく『格闘技の祭典89』では大仁田のセコンドについていた秋吉らだけでなく大阪でジムを経営していた栗栖正伸が参加、アメリカで全日本プロレスから武者修行に出されてはいてはみたもののテリトリー制の崩壊で干されていたターザン後藤を呼び寄せ、10月6日に愛知県露橋スポーツセンターにてFMWが旗揚げされ、メインは大仁田vs青柳の再戦が組まれたものの大仁田は敗れ、10日の後楽園ホールでの再戦で大仁田は勝ち1勝1敗1無効試合となる。そしてUWFとは対極的なものを作ろうとしてリングに有刺鉄線を導入、大仁田が有刺鉄線で傷だらけになる姿は大きなインパクトを呼び、FMWは異種格闘技からデスマッチへとシフトチェンジしていった。FMWの成功をきっかけにユニバーサルプロレス連盟やW☆INGなど新しい団体も旗揚げされ、プロレス界に馬場、猪木の影響化に置かれないインディベンテント(独立団体)が次々誕生していったことで新しい時代へと突入していった。

その後青柳は剛の「パイオニア戦志」に引き抜かれて離脱、青柳は 「パイオニア戦志」 からも離脱後は新日本プロレスや新格闘プロレスなど団体を渡り歩き、WWFマニアツアーに参戦した。そして青柳は再びFMWに参戦し1994年8月28日の大阪城ホールで異種格闘技電有刺鉄線電流爆破バリケードマットダブルヘルデスマッチで対戦した。

そして2021年に大仁田は自ら考案した電流爆破マッチを世界に発信するため新団体「FMW-E」を旗揚げする。これまで引退や復帰を繰り返してきた大仁田だったが引退ではなく廃業と言うまでまだまだリングに立ち続けるのかもしれない。

(参考資料 辰巳出版 Gスピリッツ Vol.26「第三極の誕生と消滅」 ベースボールマガジン社「日本スポーツ事件史Vol.10 「暴動・騒乱」)

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