猪木vsウイリー戦の後で行われたヤマハブラザーズvsオカマコンビ!


1980年2月27日、新日本プロレス蔵前国技館大会でアントニオ猪木が極真空手のウイリー・ウイリアムスと対戦、プロレスと極真空手のプライドをかけた一戦はセコンド同士の小競り合いもあって殺伐とするも、試合は両者ドクターストップの痛み分けとなり、後味の悪い中で幕引きとなったが、お客さんが既に席を立ち、空席が目立ち始めたところで、山本小鉄と星野勘太郎のヤマハブラザーズが登場、セルヒヨ・エル・エルモソ&エル・グレコのオカマコンビと対戦した。

星野は1961年、小鉄は1963年に日本プロレスに入門、1966年1月に二人は初タッグを結成し、1967年にロスサンゼルスで二人一緒に武者修行に出された。その後は星野はテネシー、小鉄はテキサスへと転戦し互いにシングルとなって個々に力をつけると、テネシーで合流した二人は再びタッグを結成、小型でパワフルなタッグとして評判を得たことで二人のタッグはヤマハの日本製オートバイにあやかってヤマハブラザーズと命名され、テネシー州のタッグ戦線で大活躍した。

ヤマハブラザーズは1969年に帰国、ちょうどNET(テレビ朝日)が日本プロレスを中継する「ワールドプロレスリング」が放送開始すると、NETでは馬場と坂口が放送されないこともあって、ヤマハブラザーズはNETの中継に登場する機会が増えて注目されるチームとなるも、1970年に「第1回NWAタッグリーグ戦」が開催されると、ヤマハブラザーズではなく、星野はアントニオ猪木、小鉄は大木金太郎とと組み出場させられる。これには事情がありチーム編成にあたっては日本プロレス側も大いに揉め、猪木のパートナーは星野に決まったものの、小鉄は馬場と組む予定だった。しかし馬場はNETの中継には登場することが出来ないため、NETの看板の一人となった小鉄は馬場と組ませられないということで社長だった芳の里の判断で大木と組ませることにした。小鉄にしてみれば大木と組むことで日本テレビとNET両方出れることから露出が増えて却ってプラスだったという。またリーグ戦では猪木と星野が優勝決定戦に進出し熱戦の末ニック・ボックウインクル、ジョニー・クイン組を破り優勝を果たした。この試合は星野にとって生涯に残るベストバウトに挙げ、また猪木に心酔するきっかけを作った。

「第2回NWAタッグリーグ戦」ではヤマハブラザーズとして参戦したが、このシリーズは倍賞美津子との 結婚を控えた猪木が主役だったこともあってヤマハブラザーズは脇に追いやられ、成績も3勝5敗と満足するものを残せなかった。ところが猪木がクーデター事件で日本プロレスを追われると、小鉄も追随して日本プロレスを離脱、星野は日本プロレスに留まったものの、馬場も離脱したことで経営が悪化した日本プロレスは人減らしのために一部選手を海外へ出すことになり、星野も海外へと出されてしまう。

そして星野は遠征先のサンフランシスコで日本プロレスの崩壊を知ると、実質上フリーとなってしまった星野に全日本プロレスを旗揚げしていた馬場から誘いを受けた。星野も馬場との仲が悪いわけでなく良くしてもらっていたが、猪木と小鉄のいる新日本プロレスなら「スッと入れる」感じがしたので新日本プロレスを選んだ。だがこの頃の新日本での小鉄は若手のコーチや裏方での作業も多くなっていたこともあって、ヤマハブラザーズとして組む機会は少なかった。

ヤマハブラザーズが本格的に活躍したのは1979年からで新日本プロレスは国際プロレスと提携を開始、対抗戦の先兵としてヤマハブラザーズが送り込まれた。国際プロレス側はピークの過ぎたヤマハブラザーズが送り込まれたのは大いに不満だったが、そのピークの過ぎたヤマハブラザーズにIアニマル浜口、グレート草津組が完敗を喫し、至宝だったIWA世界タッグ王座を奪取、その後マイティ井上&アニマル浜口組と抗争を繰り広げ、ヤマハブラザーズ健在を大きくアピールした。

話は戻るがなぜ猪木vsウイリー戦の後でヤマハブラザーズの試合が組まれたのか、当初の予定ではヤマハブラザーズの試合はセミ前で組まれていたが、キックボクシングの3試合が長引き、終わって時点で放送していた水曜スペシャルの生放送開始直前となってしまい。そのため事情により試合順を急遽変更してメインの試合を先の行われる”逆取り”という方式が取られ、メインだった猪木vsウイリーが先に行われることになったのだ。

テレビ朝日のディレクターから「このままでは放送時間が押してしまって猪木vsウイリー戦が放送時間に入り切れなくなるんです、すみません」と詫びを入れると、既にウォームアップしていた星野はがっくりするどころか、怒りがこみあげてくる。そして猪木vsウイリー戦が終わった20:45くらいに出番となると、星野が『小鉄ちゃん、やっちゃおうか!』と声をかけると小鉄も『やりましょう』と応じ、先に入場していたヤマハブラザーズは後入場のオカマコンビが観客に「投げキッス」をしたところでを襲撃し、客席に雪崩れ込んで乱闘となって、オカマコンビも反撃したため小鉄も流血する。そこで猪木vsウイリー戦が消化不良となってモヤモヤして嫌な気分となっていた観客が「面白そうだ」と席に戻ってくると大いに沸いていく、試合は3分24秒でヤマハブラザーズの反則負けとなったが、観客も沸かせ満足させて帰すことが出来た、後年に小鉄は「意地でしたね、客が席を立つのを許すのはプロとして失格です、客に舐められたら終わりなんです」と語っていたが、殺伐した雰囲気、また消化不良でモヤモヤした雰囲気となった観客をいかに沸かせるか、これがヤマハブラザーズの「戦いのプロレス」なのかもしれない。

そしてこの二日後に「ビックファイトシリーズ」が開幕したが、このシリーズは引退を控えた小鉄の現役ラストシリーズでレフェリーも兼務するなど裏方となっていた小鉄も現役としてフル参戦し、4月4日の川崎市体育館で引退試合を行い、最後もヤマハブラザーズとして国際プロレスの鶴見五郎と大位山勝三の独立愚連隊と対戦、最後は山本がダイビングボディープレスで大位山を降して有終の美を飾って引退、その後は審判部長としてレフェリー、またワールドプロレスリングの解説者となった。星野も現役を続けつつ地元・神戸でプロモーターとして活躍、1992年3月1日の新日本プロレス20周年記念の横浜アリーナ大会でヤマハブラザーズが一夜限りの復活を果たしてブラック・キャット、ヤングライオンだった天山広吉こと山本広吉と対戦して10分時間切れなり、1994年の星野の地元である神戸ワールド記念ホールでも星野のレスラー33周年記念試合、2008年後楽園ホールで行われた昭和プロレスと3回に渡って復活、星野は1995年に引退したが魔界倶楽部の総帥として登場、「ビッシビシ行く…!」のフレーズで大人気となった。

山本もその後もCS放送で放送していた中継番組「新日本プロレスSXW」で解説を務めていたが2010年8月24日に旅行先で倒れ急死、68歳の生涯を終え、この頃になると星野も脳梗塞で倒れて闘病生活を送っていたが、小鉄の後を追うように11月25日に死去し、67歳の生涯を終えた。そして今年2021年に入ると猪木vsウイリー戦の後でヤマハブラザーズと対戦したオカマコンビの片割れであるエル・エルモソも死去した。こうして歴史の証人たちが次々と去っていくのは寂しい限りだ

(参考資料 ベースボールマガジン社「日本プロレス事件史Vol.30 黄金時代の衝撃」、山本小鉄引退試合は新日本プロレスワールドで視聴できます)

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