新日本プロレスvs極真空手、一触即発!アントニオ猪木vsウイリー・ウイリアムス!


 1980年2月27日、蔵前国技館でアントニオ猪木が極真空手のウイリー・ウイリアムスと対戦した。ウイリーこと本名ジョー・ホーキンスは空手三段で極真全米選手権では反則で3位に終わるも、映画「地上最強の空手PART2」では灰色の熊と戦って”熊殺し”の異名を取り、また梶原一騎原作の漫画「四角いジャングル」でも紹介され、ウイリーの存在はプロレスファンからも知られるようになった。
 ウイリーは極真関係者から「極真空手よりも強いと言っているレスラーがいる」と猪木の存在を説明され、”地上最強は極真カラテ”と自負していたウイリーは猪木との対戦を決意、しかし当時の極真空手は他流試合は禁止とされており、ウイリーは破門され、あくまで一個人として猪木と対戦することになったが、これはもしウイリーが負けた場合を想定した防衛策だった。

 一方の猪木は1976年のウイリアム・ルスカ、モハメド・アリとの戦いから異種格闘技路線をスタートさせたが、1978年に「四角いジャングル」で企画、誕生した格闘家であるミスターX戦との異種格闘技戦が大凡戦に終わったあたりから異種格闘技戦シリーズはピークを過ぎ始め、猪木自身もそろそろ打ち止めにしようと考えており、ウイリーとの対戦を決めたものの「アリ戦で有名になったのに、まったくやるメリットはない」とコメントしていた。

 ところが決戦1ヶ月前の1月10日、雑誌で極真会館で総裁を務め、対戦の仕掛け人であり、決戦に向けて立会人を務めていた梶原氏が、極真の世界王者である中村誠氏との座談会の際に梶原氏が「猪木はウイリーのパンチ一発で死んじゃう」中村氏が「猪木は年だよ」と誹謗する発言をしてしまい、新日本側が激怒する。梶原氏の発言は対戦を盛り上げるものに過ぎなかったが早速新間寿本部長が梶原、中村両氏に対して「謝罪しなければ試合そのものを白紙に戻す」と発言するだけでなく、中村氏には2月8日の新日本プロレス東京体育館大会への来場して新日本の代表選手との対戦を要求するなど、思わぬ波紋を呼びかけてしまう。

 新日本と極真空手は以前からいざこざを起こしており、極真側が 『第1回オープントーナメント全世界空手道選手権大会』 を開催した際に空手以外の格闘技への参加を「四角いジャングル」を連載した少年マガジンを通じて呼びかけると、新間氏が噛みついて新日本プロレスの威信をかけて13名の選手が参戦しようとしたが、極真側が難色を示し、大山倍達と新間氏が直接会談したことで和解となり事なきを得るも、門下生らの怒りは治まっていなかった。

 梶原と中村両氏は弁解はするも、謝罪は拒否するだけでなく、極真vs新日本の全面対抗戦も辞さず、新日本の会場に殴りこみをかけることを示唆する。ここは日本格闘技連盟副会長である黒崎健時氏が双方を仲介して、最悪の事態は避けるも、双方とも納得するわけがなく、火種はいつ燃え上がるかわからず、燻ったままだった。

そして大会当日となるが、会場となった蔵前国技館は新日本と極真側だけでなくプロレスファン、空手ファンの乱闘を警戒してか厳戒態勢となり、猪木が勝ったら袋叩きを狙ったファンや空手関係者が金属探知機でチェックを受け、中には猟銃を持ち込もうとする者もいたため銃刀法違反で検挙される人間が続出、会場もセミまでプロレスが行われたにも関わらず、殺伐とした雰囲気となってしまっていた。

そしてメイン開始直前に黒いジャンバーを着た200名の空手家が現れる、この事態に営業部長の大塚直樹は極真の添野義二に問い詰めると、万が一ウイリーが負けるような状況になったら、試合を壊すために門下生に召集をかけており、集団でいると物騒な雰囲気となるため、四方へと散っていたのだ。さすがに新日本のレスラー達もプレッシャーがかかり、空手家たちの行動に注意し、猪木のセコンドには万が一の事態に備えて藤波辰巳まで着くことになった。

 試合形式は3分15ラウンド形式で行われるも、猪木の関節技は5秒と制限、場外カウントも15とされ、レフェリーも双方に通じているユセフ・トルコ氏が裁くことになった。
 1Rは猪木がロープへ走るなど牽制、猪木がドロップキックを仕掛けるもウイリーは避けて後廻し蹴りやミドルキックを繰り出し、ローキックを浴びせていく。猪木は組みつくもロープブレークとなり、ウイリーは後ろへ下がった猪木にパンチ、猪木は猪木アリ状態からアリキックを仕掛けたところで第1Rが終わる。

第2Rはウイリーはキックも、猪木は避け、ジャブも猪木はバックステップで避けるが、組みついたところでウイリーは膝蹴り、猪木が頭突きを浴びせればウイリーも頭突きで応戦、猪木は間合いを図ってから浴びせ蹴りも、避けられるとウイリーは猪木の顔面にキック、膝蹴りも、猪木はカニバサミからグラウンドを仕掛け、そのまま場外へ転落すると、ウイリーはマウントパンチを浴びせたところで、双方のセコンドが殺到して小競り合いとなる。ウイリー側のセコンドが慌ててウイリーを制止するが、両者リングアウトとなり、猪木は額が割れて流血してしまった。

両者はリングに戻ると、試合続行を訴え、立会人の梶原氏の権限で第3Rから続行となるも、ユセフ・トルコレフェリーが新間氏の抗議を受けてウイリーのセコンドが多すぎるとしてリングサイドからの退去を命じる。セコンドは4人とされていたのだが、ウイリー側はそれ以上の数がセコンドに着いていてしまっていた。

 第3Rはウイリーがパンチのラッシュも猪木は場外へ逃れ、リングに戻って猪木のビンタとウイリーのパンチが相打ちになると、猪木が胴タックルからテイクダウンを奪いマウントを奪うも、そのまま転がるように場外へ転落、リングに戻ると、ウイリーのエルボーに対して猪木は背負い投げから腕十字で捕獲しつつ、顔面に蹴りを浴びせる。猪木は再びタックルを狙うが、ウイリーは切らせず、第3R終了。

第4R、ウイリーがパンチのラッシュに猪木が胴タックル、ウイリーのトラースキックに対して、猪木はドロップキックと互いに空を切る。ウイリーの廻し蹴りを避けた猪木はもつれ合ったまま場外へ落ちて、猪木は場外で腕十字で捕獲、場外だと5秒制限がないという猪木の機転だったのかもしれないが、再び両者リングアウトとなるも、またセコンド同士が小競り合いとなり、また一触即発となる。

試合は続行かと思われたが、猪木は脇腹、ウイリーは腕を負傷したため、両者ドクターストップの痛み分けとなるも、小競り合いはこれで収まったわけでなく、新間氏がウイリー陣営に挨拶にいくと、極真会館の若い選手が押し寄せ、極真側の添野義二氏が新間氏に飛び蹴りを浴びせるも、添野氏は「新間さん、そのまま立たないでくれ!」と耳打ちし、新間氏は倒れたままになると、添野氏は「新間をやったからな!」と叫んで若い選手を抑え、新日本vs極真の小競り合いもこれで終息となった。添野氏もまだ若い空手家らが収まりがつかないことから、誰が生贄にしなければと考えて、手加減しながらも新間氏に飛び蹴りを浴びせたかもしれない。

 猪木は後年「二度とやりたくない」と明かしたが、一方のウイリーは「あの試合はすべがいようだった。あの試合ほど緊張したことはなかった。私自身。荒れ以上燃えた試合はなかった。猪木とやれてよかった、あの一戦で有名になったからね、極真の名誉を傷つけることはなく、極真の名を世界に広めたのだから、役に立ったと思いますよ」と語った。

 猪木にしてみれば双方の周囲が勝手にトラブルとなって、面子同士がぶつかり合ったのだから、わずらわしく、また面倒な試合だったと思う。だがウイリーにしてみれば、自身の名だけでなく極真の存在を大きくアピールしたことでメリットがあった。後年極真は分裂したものの松井章圭派がフランシスコ・フィリオをK-1に送り込んだが、その先駆けがウイリーだったのかもしれない。

 その後ウイリーはK-1にも参戦して佐竹雅昭と対戦、リングスにも参戦して前田日明と1992年7月に対戦するも膝十字固めに敗れた。

 猪木とは1997年1月4日に新日本プロレスで猪木の引退に向けての 「ファイナル・カウント・ダウン 」の6番目の相手として対戦し、猪木がコブラツイスト、ウイリーが正拳の決め技限定マッチとして行われ、猪木がコブラツイストで勝利し、17年前の決着をつけるも、互いにピークを過ぎていたこともあって、17年前の緊張感は出すことは出来なかった。

 ウイリーは1999年にFMWに参戦、空手家キャラとなった でBADBOY非道と対戦して勝利、自分もFMW大阪IMP大会を観戦しウイリーを見たが、リングスで戦った頃のウイリーではなかった。

 ウイリーは格闘家を引退し木彫り職人をしながら後進の指導にあたっていたが、6月7日に心臓病で死去、享年67歳だった。ご冥福をお祈りします。

(参考資料 ベースボールマガジン社「日本プロレス事件史Vol.6 強豪外国人襲来」 新日本プロレスワールド、猪木vsウイリー戦は新日本プロレスワールドにて視聴できます) 

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