NWA世界ヘビー級王者 ドリー・ファンク・ジュニア初来日


1969年2月11日、フロリダ州タンバで歴史的事件が起きた。

3年間に渡ってNWA世界ヘビー級王者に君臨してきたジン・キニスキーを28歳の新鋭だったドリー・ファンク・ジュニアが破り、新NWA世界王者となった。

ドリーはNWA世界ジュニアヘビー級王者にもなり、テキサス州アマリロで現役選手兼プロモーターとして活躍していたドリー・ファンク・シニアの息子で、ウエスト・テキサス州立大学でフットボール選手として活躍したドリーは1963年にアマリロでデビュー、4か月後には当時のNWA世界ヘビー級王者だったルー・テーズとも対戦していた。

キニスキーはテーズを破りNWA王者となったが、王者となって3年が経過するとキニスキーも40代に差し掛かり、地元のカナダ・バンクーバーに専念したいということで王座から降りたいと要望があったことから、NWA側も新しい王者を探さなければならなくなり、次期王者にはテーズ、パット・オコーナー、ウイルバー・スナイダー、キニスキーの好敵手だったフリッツ・フォン・エリック、ニック・ボック・ウインクル、ヒロ・マツダが候補に挙がったが、NWAは当時のアメリカマットはまだテレビでの全国放送はなされておらず、州ごとにプロレス中継が始まっており、その中で時間的に一番多くテレビに映っていたのはNWA王者だったことから、テレビプロレス時代へ向けてふさわしく新しい人材を求められていた。

 新しい人材ということでベテランのテーズとオコーナーは除外され、ニックはAWAへ転戦することが決まっており、スナイダーは実力はあるが遠征嫌いで、ベビーフェース色が強く、エリックはテキサス州ダラスのプロモーターに落ち着いており、また60分フルタイムの試合は出来ないということで除外された。最終的にドリーとマツダに絞られたが、マツダは日本人で軽量だったことで除外されたことで、残ったのは売り出し中のドリーで、マソニック会長やNWAの会員プロモーターもドリーの実力を認めていたことから賛成し、ドリーは次期NWA王者の最有力候補となって、ドリーも期待に応えてキニスキーを破りNWA世界王者となった。

 この年のNWA総会で日本プロレスの社長だった芳の里がNWA第二副会長に就任すると、ドリーのブッキング権利を持つファンク・シニアに来日を要請し初来日が決定した。日本でNWA世界ヘビー級選手権が開催されるのは12年ぶりで、この時は王者のテーズに力道山が挑戦したが、この時の日本プロレスには正式加盟しておらず、ハワイのプロモーターでNWAのメンバーだったアル・カラシックから又貸しされたものだった。1967年にNWA王者となっていたキニスキーが来日するも、まだNWAの会員になる直前だったためNWAヘビー級選手権は行われず、日本プロレスがNWAのに正式加盟したのは、キニスキーが帰国してからだった。

 日本プロレスはテーズやキニスキーと比べてドリーは強そうに見えなかったため来日に熱心ではなかったが、日本プロレスや国際プロレスの外国人ブッカーだったグレート東郷が日本で新団体設立を目論んでおり、目玉としてNWA王者になったばかりのドリーを招聘しようとしてファンク・シニアに働きかけていたことから、日本プロレス側は一転して熱心にオファーをかけ、東郷の新団体も日本プロレス側の妨害工作が功を奏して、東郷はNWAに加盟できず、最終的には新団体も頓挫したため、ドリーはファンク・シニアと共に日本プロレスに初来日が実現となった。

 ところが日本でのドリーの評価は低いものだった。ドリーがNWA新王者になったことは日本にも報じられたが、まだ日本のマスコミは世界王者はテーズやキニスキーのイメージが強く、未来日だったこともあって、どんな選手なのかマスコミやファンもイメージが出来ておらず、またアマリロに遠征していたことがあった大木金太郎も「ドリーはシニアの操り人形、シニアの言うことしかやらない」とマスコミに話していたことから、マスコミもドリーを「ひ弱なチャンピオン、キニスキーに勝ったのはマグレ」としか見ていなかった。

1969年11月にドリーはファンク・シニア、ポリスマンとしてNWA世界ジュニアヘビー級王者でスナイダーとのコンビでジャイアント馬場・アントニオ猪木のBI砲からインターナショナルタッグ王座を奪取したことがあるダニー・ホッジ、ファンク一家の一員だったハーリー・レイスと共に来日を果たした。来日初戦はドリーはホッジと組んでBI砲の保持するインタータッグ王座に挑戦、猪木相手にダブルアームスープレックスことテキサスブロンコスープレックスを披露するなど、実力者ぶりを発揮、試合は3本勝負で1-1の引き分けとなったが来日前の下馬評を覆し、12月3日の静岡大会では6人タッグで猪木と対戦した際には、スピニングトーホールドを初披露してヒロ・マツダからギブアップを奪う。

12月2日の大阪でまず猪木がドリーに挑戦、猪木は前日に左指を骨折するというハンデを負っての挑戦となったが、ドリーがスープレックス、バックドロップで攻め込み、スピニングトーホールドで勝負に出たが、回転した際に猪木は咄嗟にうつ伏せになるという閃きを見せて防ぎ、猪木はコブラツイストやブレーンバスターで反撃も、ドリーもカウント2でキックアウト、試合は3本勝負だったが互いに1本も取れず引き分けとなり、猪木は王座を奪取できなかった。

3日には馬場が挑戦、馬場も猪木に負けじと1本目は新必殺技で、後年にジャック・ブリスコからNWA王座を奪取した技であるランニングネックブリーカーを披露して先取するが、2本目はドリーはバックドロップからスピニングトーホールドでギブアップを奪ってタイスコアに持ち込み、3本目も馬場は16文キックやジャイアントバックブリーカーと攻め込んだが、ドリーは3カウントを許さず時間切れ引き分けとなり、猪木、馬場と2日連続で60分フルタイムを戦い抜くなど、無尽蔵のスタミナ振りも見せつけた。

 ドリーは後年「楽な挑戦者など一人もいなかった。毎日毎日、60分闘う覚悟で会場入りした。その日の試合運びなんてイチイチ考えてない、毎日、試合前は10分1本勝負を6回やるんだと言い聞かせた。楽な相手なら、大技一発で10分以内に簡単に勝つこともあったが、大抵はそうじゃなかった。平均40分、50分、3回に1回は60分フルタイムだったと思う。同じ大技が60分に6回出したとしても、それは私がシュミレーションした通りの試合だったということだ」NWA世界ヘビー級王者時代を振り返っていたが、NWAの決められたスケジュールに則り、各エリアで防衛戦を行い、組織に加盟している全てのプロモーターに利益をもたらさなければいけない。それを考えるとドリーが戴冠していた4年間は過酷でありNWA王者の宿命でもあった。

 ドリーは1970年8月に弟のテリー・ファンク共にNWA王者として再び来日、2日の福岡で猪木の挑戦を再び受けたが、今度は互いに1本を取り合って1-1となったが時間切れ引き分けとなって、猪木は王座を奪取できなかった。1971年12月に王者として再び来日し、テリーとのザ・ファンクスでBI砲からインターナショナルタッグ王座を奪取したが、この時に日本プロレスに異変が起きていることは知る由はなく、9日の大阪で猪木の挑戦を受ける予定で、ドリーも猪木との再戦を心待ちにしていたが、直前になって日本プロレス側から猪木が欠場すると告げられ、代役に坂口征二が挑戦、選手権は2-1でドリーが防衛も、猪木とは2度と対戦することはなかった。

 ドリーは1973年5月にミズーリ州カンザスシティでレイスに敗れNWA世界ヘビー級王座から転落、NWA王座はレイスを経てジャック・ブリスコへと渡った。ドリーが王座転落後にファンク・シニアが急死したため、アマリロのプロモートに専念せざる得なくなった。その後もNWA会員からはドリーが再び王者になることを望んでいた声も多く、1975年12月にブリスコが王座から降板を申し入れたため、再びドリー待望論が持ち上がった。しかしドリーは同時期に全日本プロレスで開催される「オープン選手権」に参戦することになっていたため代わりに弟のテリーを推薦、テリーがブリスコを破りNWA王者となったが、ドリー自身も王者となれば再び家を留守にする機会が多くなるとして王者になることを望んでいなかったのが理由だった。

 ドリーはテリーと共に馬場の旗揚げした全日本プロレスの常連外国人選手となって、外部から馬場をサポート、一旦全日本との関係が切れたが、2013年にPWF会長に就任、79歳となっても時折り日本で現役選手としてリングに上がって健在ぶりを見せている。

(参考資料 GスピリッツVol.35 特集ザ・ファンクス ベースボールマガジン社「日本プロレス事件史 Vol.5 革命と夜明け」)

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