全日本プロレス最大のミステリー、サムソン・クツワダクーデター事件の謎


 4月22日発行の東京スポーツ、天龍源一郎の「龍魂激論」で全日本プロレスの秋山準、ジャイアント馬場の側近で名誉レフェリーの和田京平と対談した際に、1977年末に全日本プロレスで起きたクーデター事件のことに触れ、

天龍「サムソン(クツワダ)がテレビ局と大物スポンサーを「ジャンボが来るから」って口説いたんだよ。結局、事前にバレてサムソンは即刻クビになったんだ。まあ、ジャンボは相づちを打った程度だったらしいけど。誰かが密告したんだろう。」

和田「誰でしょう。」

天龍「犯人はグレート小鹿(現大日本プロレス会長)しかいないな…。」

和田「間違いなく小鹿さんでしょうね。」

と語ったが、グレート小鹿本人によると「その記事は読んだが、事実は違うな。オイラは犯人じゃないぞ、フフフ…」「当時ジャンボは完全に馬場さんに囲われてしまい『かごの中の鳥』になっていた。ストレスが爆発寸前になっているところへクツワダが新団体のおいしい話を持っていった。当然、ジャンボは彼に一直線で引かれる。誰の目にも異変は分かったんだ。馬場さんが自ら感づいたというのが本当のところだと思うよ」「ジャンボは体育会系出身でしょ。上下関係への気遣いは人一倍だった。オイラたち他の選手とも食事したり遊びたかったと思う。でも馬場さんがそれを許さなかった。ある意味かわいそうな部分もあったね」と全面否定していた。

全日本プロレスのクーデター事件はザ・グレート・カブキがGスピリッツで明かすまで公にされておらず、馬場自身も身内のスキャンダルを公にすることは避けていたことから明かすことはなかった。果たしてクーデター事件とはいったい何だったのか…

 全日本プロレスは1972年10月に旗揚げし、旗揚げから日本テレビが放送するなど、表向きは順調なスタートを切ったかに見えたが、日本テレビとの契約で大量の外国人選手を招かざる得ず、また後発にテレビ中継をスタートした新日本プロレスの勢いもあって、興行も苦戦しており、常に赤字の状態が続いているのが現状だった。そのため外国人選手に高額のギャラは支払ってはいたが、日本人選手のギャラまでは上げる余裕はなく、そのことで不満を持つ日本人選手も少なくなかった。

 その馬場が現場で常に相談していたのはマシオ駒だった。駒は馬場の最初の付き人で、馬場と同じ野球出身だったこともあり、真面目で細かいところまで気を利くことで馬場は気に入って可愛がっており、馬場が全日本プロレスを旗揚げすると、2代目の付き人だった大熊元司と共に全日本に参加を決め、その時ファンク一家のテリトリーであるアマリロに遠征に出ていたこともあって、ファンク一家との提携を橋渡したことで、馬場の片腕的存在となり、また道場でも鬼軍曹的な役割を果たして若手を指導、新日本プロレスの山本小鉄ともウマが合って、団体が分かれても度々連絡を取り合っており、特にプロレス界をよく知らないジャンボ鶴田には兄貴分として厳しく接し、選手会長的な立場となって選手らを取りまとめ、馬場と共に対戦カードを決め、ブッカー的な役割をして選手たちに指示、また選手らの動向に厳しく目を光らされるなど、現役選手だけでなく裏方としても幅広く活躍していた。

 大熊、グレート草津を経て4代目の付き人になったのはクツワダで、1967年に大相撲を廃業して金が儲かるという理由で日本プロレスに入門したが、廃業した理由は大関相手にバクチを巡ってのトラブルなったことで自ら髷を切って廃業したからだった。クツワダは3代目の付き人だった草津が逃げ出すように日本プロレスを退団した後で、馬場の付き人となったが、駒と正反対で不器用で細かいところに気が利かず、ガチンコでも強いと大口を叩き、常識外れな行動をするため、馬場からよく注意されていたものの、大相撲出身で190㎝、120kgと体格の良さとパワーを大いに買っていたため、馬場はボディーガードとして側に置いていた。だが、周囲は不器用で大ボラを吹き、常識外れのクツワダがなぜ馬場の側にいるのか疑問に思う人間もおり、日本プロレス内で馬場派とアントニオ猪木派と派閥が出来たときは、猪木派だった北沢幹之との試合で、クツワダはガチンコは強いと大口を叩いて殴り掛かって仕掛けるが、ガチンコに長けている北沢に逆に殴り返され、試合にも敗れた後は大熊から勝手に仕掛けたことで叱られてしまい、北沢に詫びを入れたことがあった。

 全日本を旗揚げすると、クツワダも馬場に追随して全日本に移籍したが、クツワダの非常識ぶりは変わらず、カブキが高千穂明久時代にクツワダと一緒にオーストラリア遠征に出ても、クツワダは日本軍人キャラで使用するために使っていた模造刀を国内便の機内に持ち込もうとしてスチュワーデスに尋ねられると「ハイジャック!」とジョークのつもりで得意気に答える。オーストラリアも基本的に拳銃所持が認められている国だったこともあって、カブキも「外国で何やってんだ!」とクツワダを一喝してその場を納めたが、カブキもクツワダの常識外れぶりには呆れるしかなかった。それでも日本へ帰国後はジェリー・オーツ&テッド・オーツからアジアタッグ王座奪取するなど、中堅クラスとして活躍、また相撲時代からタニマチにも顔への広く、北海道出身だったこともあって北海道を中心としたプロモーターとしても活動し興行を仕切ることがあり、また政財界だけでなく”その筋”にも顔が広かったことから、この時代における永源遥的な役割を果たしていた。

1976年3月に駒が腎不全で急逝する。片腕である駒の死は馬場が「なぜなんだ!」と言うほど衝撃を受け、全日本の今後にも大きな影響を与えたが、小鹿が後に「言っては悪いが、駒がいなくなってから会社の雰囲気が明るくなった」とコメントしていた通り、全日本内を厳しく押さえていた駒がいなくなったことでタガが緩み始めていたのかもしれない。
駒がいなくなったことでクツワダが役目を引き継ぐことになり、鶴田の面倒を見るようになった。ところが他の選手からの相談もクツワダが請け負うようになると、ギャラを低く押さえられていることに不満を持っていることを聞かされるようになる。生前の駒も外国人選手には高額のギャラは払っても、日本人選手のギャラが低く押さえられていたことには不満は抱えていたが、馬場から信頼が厚かったため敢えて自分自身だけでなく周囲の不満を抑えていた。だが、クツワダは選手らの不満を真剣に聞き入れてしまい、クツワダも興行を請け負っていたことで全日本内の金も流れも知っているとしていたことから、”馬場は日本人選手のギャラを低く押さえて私服を肥やしているのでは?”と思い込むようになっていった。

そこでクツワダはタニマチの一人である岩田弘という人物から「笹川良一から資金を出してもらって新団体設立を設立してみたらどうだ」と話を持ち掛けられた。岩田氏は国際プロレスをTBSで放映させた人物で、一時は国際プロレスの実権を握っていたことのあり、笹川良一氏にも通じていた人物だった。笹川良一は日本に競艇を根付かせ、奉仕活動では「一日一善」をモットーにCMにも出ていたが、その一方で政界のフィクサー的な存在でもあった。潤沢な資金を約束してもらったことで、クツワダは早速新団体を設立することを計画する。クツワダは日本プロレス界は馬場と猪木が対立しているからダメになったと考え、マット界を統一するために弊害となっている馬場と猪木に多額の功労金を支払わせて引退させ、笹川氏を会長に、鶴田と新日本プロレスの藤波辰巳を中心とした新団体を設立し、大相撲にハワイ力士であり笹川氏がタニマチとなっていた高見山をスカウトしてプロレスへ転向させ、利益も不満が出ないように選手にきちんと支払うという構想を練り上げる。またクツワダは馬場と猪木が引退に応じなければガチンコを仕掛けて叩き潰すつもりだったという。

 クツワダは鶴田に話を持っていき、また馬場以外の所属選手に新団体へ極秘裏に勧誘、カブキも勧誘された一人だった。クツワダによると選手らも「参加する」と返事をもらっていたという。1977年1月に新団体計画が馬場に露見すると、クツワダは鶴田と一緒に馬場に呼び出され、馬場が追及したところで、クツワダは「馬場、ふざけんなよ!」とこれまで慕ってきた馬場を呼び捨てにして辞表を叩きつける。おそらくクツワダは行動を起こすことで、鶴田を始め、馬場以外の選手らは自分に着いてくると思っていたばずだった。ところが誰一人クツワダに追随せず、鶴田も「何も知らずにクツワダに従っていただけだ」として許されたことで、クーデターはクツワダの一人相撲という結果となって幕を引き、クツワダは「素行不良」として解雇されたが表向きは体調不良にて引退とされ、新日本や国際プロレスにも馬場が「クツワダを使わないように」と通達したため、クツワダは事実上マット界から追放された。

 クツワダは後に「自分に人望がなかった」「みんなに裏切られた」としているが、誘われたほとんどの選手は「参加する」と言っていたものの「どうせいつもの大ボラだろう」と本気にしておらず、クツワダが共犯と思っていた鶴田本人も「クツワダさんの話はいつもアレだから」と本気にしていなかったという。
 クツワダのクーデターは馬場へ露見した理由は、誰かからの密告であることを、カブキが後年明らかにしているが、若手だった渕正信でさえ声をかけられていたことから、クツワダの企ては全て馬場に筒抜けの状態だった。小鹿の「誰の目にも異変は分かったんだ。馬場さんが自ら感づいたというのが本当のところだと思うよ」と証言していたが、実は鶴田自身もクツワダから持ち込まれた話を馬場に全て報告していたことから、おそらく馬場もこの時点ではクツワダの話はいつもの大ボラでだろうと受け止めていたのかもしれない。ところがクツワダが辞表を叩きつけたことで、馬場はクツワダが本気だったことがわかり解雇した。これを見ていた鶴田も「自分はどんでもないことに巻き込まれたのでは」と政治的な部分に恐れを抱いてしまった。そう考えるとクーデターが失敗した本当の理由はクツワダ自身が”自分はみんなから慕われている”と勘違いしていたのが原因だった。

事実上プロレス界から追放されたクツワダは事業家に転身としているが、その筋に身を置いていたという。クツワダは1982年に全日本プロレスの会場に現れ、馬場に現役復帰を訴えたが、馬場も一度弓を弾いた人間を戻すことは、他の選手に示しがつかないと断り、それでも全日本プロレスに未練があったのか1990年代になってからも全日本プロレスの会場に観客として顔を見せるようになったが、馬場も目ざとく客席のクツワダを見つけては笑っていた。そのクツワダが2003年10月26日に全日本のリングに上がって挨拶する。これはクツワダと唯一交流していた渕正信による配慮で、この頃にはクツワダも体を悪くしており、渕は見舞いに行ってはクツワダは馬場の話になると「オレは馬場さんのことが大好きだったんだ…」と明かしていたが、大好きだった馬場を裏切ってしまったことで後悔していたのかもしれない、クツワダも2004年10月12日に急性骨髄性白血病で死去した、享年57歳。

許された鶴田は全日本の関連会社のB&Jの社長に据えられ、また当時の全日本の道場と合宿所も鶴田の所有だったこともあって家賃を鶴田に支払うことで鶴田の待遇を改善させたが、その代わり鶴田は他の選手から隔離されるだけでなく、馬場と常に行動を共にさせられ、社長といっても名ばかりで業務のほとんどは元子夫人が代行するなど発言力はなく、鶴田自身もクーデター事件きっかけとなって政治的なことに係わることをますます避けるようになった。

 昭和56年になると経営が苦しくなった全日本プロレスをテコ入れするために、資金を出していた日本テレビから役員が送りこまれ、新社長に就任した松根光雄氏は馬場を現役だけでなく経営からも退かせて鶴田に全面委任させようとする。鶴田もクーデター事件のことがあって社長になることを拒み、一時は引退することも考えるようになっていたが、鶴田の相談に乗った佐藤昭雄がブッカーに就任することで丸く納まり、全日本も馬場をよく知る佐藤の手腕で馬場時代から鶴田、天龍を中心とした鶴龍時代へと静かにシフトを変えていった。

1990年に天龍が全日本を退団した際に、馬場が全日本の社長の座を譲るとして天龍を引き留めようとしていた。その時に天龍は「ジャンボの立場はどうなるんですか?」と反論して断った。また1992年に鶴田自身がB型肝炎を患って一線を退いた際にも馬場は鶴田に社長就任を打診せず、後継は三沢と考えていた。全日本にスポット参戦しながら鶴田は筑波大学へと進学したが、馬場もクーデター事件のことがあって鶴田をどうしても社長に据えることは出来ず、鶴田も煩わしさを避けるために経営に回る気はなかったが、馬場が死去すると元子夫人は鶴田を社長に据えようとして打診する。元子夫人はおそらく鶴田には他のレスラーにない金銭感覚や常識を持っていることから、経営者になれる器であることを見抜いていたのかもしれない。だが、この頃は三沢と元子夫人の対立が起きており、そのことも鶴田自身にも伝わっていたことから、煩わしさを避けるためか鶴田は固辞していたという。

もし鶴田が社長になっていたら、どうなっていたか、鶴田は初代三冠王者になったころに週刊ゴングのインタビューで「プロレスラーっていうのは一生できないでしょ?だから現役のうちに人生設計を立てて次の人生に困らないように、プロレス界に迷惑をかけないうように、一般社会に通用するものを築かなければならないと思いますね。昔のサムライとか、豪傑ではスポーツマンとして認められなくなりますよ。世間の見方が変わってきているでしょ?昔は桂春団治の「芸のためなら女房を泣かす」で通用したけど、今ではそれでは見る側が許さない。仕事が終わったら、一般社会で通用する人間でいなければいけないし、家庭を大切にするからこそ人生設計をするし、そのために一生懸命仕事をする。それをなんだかんだ言う人がいたら、それは間違い、オレの方が正しいと思いますね」と今でいうコンプライアンスがプロレス界に用いられることを見越していた。五輪コンビとして組んでいた谷津嘉章には「プロレスラーは先が短いからお金があるうちに使うんではなく貯金しておこう」と忠告するなど、また当時のレスラーでは珍しくしっかりとした金銭感覚を持っており、鶴田自身が引退後を見据えて大学の講師に転身を図ってセカンドキャリアのことを考えるなど、マット界の将来をしっかり見据えていた、だが当時のマット界は常識が非常識とされ、非常識が常識とされていた時代、鶴田の常識的な考えは、まだ受け入れ難く、面白味がないものだったのかもしれないが、社長となっていたら、現場は渕か三沢に任せて、鶴田は経営に専念し、世間的な常識や将来的なことを含めて選手らに徹底させて、また経営の合理化を図って企業化への転換を図っていたのかもしれない。

(参考資料 エンターブレイン社「吉田豪のセメント‼スーパースター列伝Part1」GスピリッツVol.10 小佐野景浩著「永遠の最強王者 ジャンボ鶴田」 )

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