新日本プロレスvsK-1③ K-1にケンカを売った男・柴田勝頼の挑戦。

2003年6月29日、さいたまスーパーアリーナ「K-1 JAPAN BEASTⅡ」 で行われた中西学vsTOA戦で中西が敗れ、新日本プロレスの社長だった藤波辰爾や永田裕志など新日本勢が静観する中で、当時魔界倶楽部に属していた柴田勝頼がリングに上がり「K-1のKはケンカのKだろ!誰か自分のケンカを買うヤツはいねえのか!」とK-1に対してケンカを売って宣戦布告を果たした。

 柴田は2002年にメキシコ武者修行に出されていたが、目の負傷で帰国を余儀なくされ、11月に復帰後は星野勘太郎が総裁を務める魔界倶楽部入りを果たし、覆面を被って魔界4号に変身、5号となっていた長井満也と共に破悧魔王’Zでタッグ戦線で活躍していた。
 最初こそは4号の正体はわからず、柴田自身もマスクマンになることには抵抗ないどころか、マスクを被っているほうが動きも良くなっていたことで、気に入っていたが、星野総裁から「マスクを被っているときは出来ても、なんで素顔のときは出来ないんだ!」と指摘を受けたことがきっかけになって、素顔での試合に意欲が出始め、2003年のG1 CLIMAXでは素顔でエントリーした。星野総裁が指摘した理由は、柴田の将来を買っていたこともあって、いつまでもマスクマンにしておくわけにはいかないという考えもあったのかもしれない。

 しかし柴田のG1初挑戦は苦いものとなり、愛知県体育館で行われた安田忠夫との魔界倶楽部同士の対決は、安田から開始早々から大の字となってフォールを取らせるという無気力試合をやらかしてしまい、安田の態度に柴田は怒り、魔界倶楽部の離脱すらほのめかすようになった。この場は星野総裁が宥めて修まったが優勝も天山広吉にさらわれ、新日本に対しても違和感を感じるようになっていった。

 モヤモヤしたものを抱えた柴田が思いついたのは、アントニオ猪木の推進する格闘技路線だった。この頃の新日本は取締役である上井文彦氏とK-1のプロデューサーである谷川貞治氏が密接な関係になっており、藤田和之や安田だけでなく中邑真輔、前回触れた中西学などK-1ファイターとMMA、またK-1ルールで対戦するようになっていた。
 柴田は2002年からMMAではなく、自分が取り組んでいたキックなど打撃の技術が通用するのか、試したくてK-1ルールでの試合を臨み、上井氏に「K-1ルールでやらせてください」と何度も申し入れ、猪木にもPRIDEの会場まで押しかけ、大会後の会見ではマスコミの前で猪木に年末の「INOKI-BOM- BA-YA」で「佐竹雅昭と対戦させて欲しい」と直訴したことがあったが、佐竹が引退試合を控えていたこともあって実現しなかった。

 そして話が戻り、2003年6月29日のさいたまスーパーアリーナ、中西がTOAに敗れたことでチャンスと見た柴田はK-1への挑戦をアピールし、上井氏にも何度も訴え11月3日の横浜アリーナ大会でK-1ルールでの試合が実現となった。対戦相手は天田ヒロミでK-1 JAPAN GPで準優勝するなど、K-1 JAPANが期待をかけていた選手だった。柴田は第1Rでカウンターでのストレートを浴びせて天田からダウンを奪った。最初こそはTVで見ていた自分も場違いなK-1の試合に挑んで大丈夫なのかと思っていたものの、天田がダウンしたことで”これはいける”と感じていた。しかしこれで本気になったのか天田はパンチで2度ダウンを奪い返し、劣勢に柴田は立たされてしまい、第1Rは何とか持ちこたえたものの、2Rに入ると天田が膝蹴りで攻勢をかける、実は柴田は練習中に肋骨2本折れており、病院まで行くと心まで折れると思い、敢えて負傷を隠して試合に臨んでいたのだ。天田の膝蹴りの攻勢の前に柴田は何度も立ち続けたが、3ノックダウンKO負けを喫し、柴田は敗れたものの、柴田の中には達成感や充実感はあった。

 柴田のK-1への挑戦はこれだけでは終わらず、2004年5月3日の東京ドーム大会でK-1の日本人トップファイターである前年度のK-1 GP2003では準優勝となった武蔵と異種格闘技戦で対戦することになった。当時の新日本は3月28日の両国大会ではボブ・サップが佐々木健介を破りIWGPヘビー級王者になるなど、K-1との対抗戦はますます本格化しており、ドーム大会ではサップに中邑が挑戦、K-1絡みでもう1試合組めないかということで、武蔵を担ぎ出すことに成功したのだ。なぜK-1は新日本との交流に積極的だったのか?当時のK-1はGPシリーズを日本テレビ、JAPANシリーズを日本テレビ、軽量級のMAXシリーズをTBSで放送していたが、テレビ朝日だけがK-1を放送していなかったことから、新日本プロレスを中継している「ワールドプロレスリング」を通じてK-1勢を出場させることで、民放制覇を狙っていたという。

 試合に向けての会見では柴田が武蔵と顔を合わせるなり「K-1のKは腰抜けのK!」と挑発すると、これに怒った武蔵は柴田に襲い掛かり乱闘なるなど、決戦に向けて自ら鼓舞するかのように大いに盛り上げた。ルールは直前まで揉め、3R無制限ラウンドで完全決着ルールとなったが、寝技20秒までいうルールとなってしまう。ルール的にも柴田不利のルールだったが、柴田自身はK-1のトップファイターと対戦するだけでも充分でルールでもどうでも良かったのだ。

 中邑vs武蔵は新日本vsK-1の対抗戦の一つとして行われ、吉江豊vsヤン・ザ”ジャイアント”ノルキヤ、棚橋弘至vsショーン・オヘアー、IWGPヘビー級選手権(王者)ボブ・サップvs(挑戦者)中邑真輔が対抗戦が組まれ、柴田vs武蔵はセミに組まれた。
 試合は1R目で武蔵が後ろ廻し蹴りを狙った際に、柴田が入り込み、マウントを奪ってパンチを浴びせ、腕十字で捕らえてあわや勝利かと思われたが、20秒となって技を解かざるえなくなる。それでも柴田はアキレス腱固めを仕掛けて武蔵を追い詰めるが、またしても20秒ルールの前に逃げられ、スタンディングとなって武蔵は膝蹴りを浴びせて柴田がダウンする。
 2Rも最初のダウンでダメージを負った柴田に、武蔵はミドルキックと膝蹴りと猛ラッシュをかけ、最後は武蔵のハイキックの前に柴田はダウンして無念のKO負けを喫した。

試合の模様はスカパーのPPVで生放送され、自分も見ていたが、明らかに寝技20秒ルールがなければ柴田が勝てていた試合だった。試合後に柴田は「オレは死んでねえ!何度でもやってやる!」と叫んでリングを後にしたものの、この模様は猪木が見ており「キャリアさえあればなあ」といった以外は絶賛しており、新日本の役員に「柴田にボーナスを与えてやってくれ」と進言したという。対抗戦は吉江がノルキア、棚橋がオヘアーを降すも、中邑がサップに敗れ、武蔵vs柴田戦を含めて2勝2敗も、重要なメインとセミが新日本勢が勝てなかったこともあって、K-1との対抗戦は新日本にとっては負けに等しい引き分けとなった。
 だが武蔵戦がきっかけになったのか、しばらくして猪木からブラジルで開催された「ジャングルファイト2」にオファーが舞い込み、アイスマンという格闘家とMMAルールに挑戦して勝利を収め、またサップの返上で棚橋を王座決定戦で破りIWGPヘビー級王者となっていた藤田和之に挑戦するなど、柴田はたちまち新日本の将来を担うトップ選手の一角にまで登り詰めた。

 しかし柴田を後押ししてくれた上井氏が新日本を退社すると、柴田の身辺にも大きな変化が起きた。11月の大阪ドーム大会で天龍源一郎との試合に破れて、顎を骨折し長期欠場に追いやられると、年俸更改の席で藤波辰爾に代わり新社長に就任した草間政一氏が「今年は永田、天山、中西の第3世代があなたたち新闘魂三銃士の踏み台になってもらいますからね、期待してますよ」というと、永田ら先輩たちを平気で踏み台にすると言い放った草間氏に怒り、契約更改を保留、最終的に契約を更新せず2005年に新日本を退団してしまう。

 柴田は同じ魔界倶楽部の一員だった村上一成(村上和成)と一緒に上井氏に合流「ビックマウス」「ビックマウスラウド」を旗揚げして、自主興行を開催しつつ、NOAHにも参戦しソウルメイトになるKENTAと意気投合するが、村上と上井氏が金銭面の問題で亀裂が生じ、上井氏はビックマウスラウドから去り、柴田も上井氏の下から去って、FEGのMMAイベント「DREAM」に参戦、MMA中心の活動となったが、これがきっかけに桜庭和志と知り合い、DREAM&IGFの合同興行「FIGHT FOR JAPAN ~元気ですか!!大晦日2011!!」では桜庭と組んで鈴川真一&澤田敦士とプロレスで対戦したことをきっかけに、プロレスに回帰することを決意、2012年8月の両国で桜庭と一緒に新日本のリングに上がり「ケンカ、売りに来ました」と宣戦布告、フリーながらも古巣に戻り、2016年には所属となった。

 しかし2017年4月にオカダ・カズチカの保持するIWGPヘビー級王座に挑戦して敗れた際に急性硬膜下血腫となって、開頭手術を受け、それ以降欠場を続けるも、現在は新日本が新しく立ち上げたロスサンゼルス道場のコーチとなり、後進の指導にあたっている。

(参考資料 辰巳出版 後藤洋央紀 柴田勝頼「同級生~魂のプロレス青春録~」ベースボールマガジン社 Vol.9 「ザ・抗争」)

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