「どうしても確執の大きな問題となるのは、会長であるアントニオ猪木になります。でもこれはあくまで一個人の問題。どっちが正しいどっちが悪いというものじゃなく、どうしても、自分としては、どっかで許せないものがあって、ドンドンドンそういうものが大きくなってきなんだろうと思います」「あの人の弟子とかいない、神輿を担ぐ人間はいたかもわかんないけど、オレが入門して30年近く、あの人が唱えたもので、出ていくものは大きいけど帰ってきたものは何もないですからね」「オレは常にアントニオ猪木に脅えてる人間だと思いますよ、中傷でもなんでもないですよ、これはじかに彼というかアントニオ猪木と話して、この人はね、最終的にボクから見ればコンプレックスはありますよ、ボクが見る限りですよ、違うかもしれないけど、この人は何かしたコンプレックスを持ってますよ、ジャイアント馬場が最後まで信用しなかったというのは、何となく分かる気がしますよね、信用しない理由はわかんないけど、最後まであの人を信用しなかった」「オレの中ではもうあの人には感謝すらないですね」
2002年5月31日、新日本プロレス道場にて長州力が会見を開き、新日本プロレスを退団したことを発表した際に、新日本プロレスのオーナーであるアントニオ猪木を痛烈に批判した。
1989年に猪木が政界進出すると、坂口征二が社長に就任、長州は新日本プロレスの現場監督に就任、役員だった永島勝司氏と共に新日本を取り仕切り90年代の新日本プロレスを支えてきた、猪木が1994年に落選すると、再びオーナーとして新日本に係わり始め、現場に介入することで、これまで現場を仕切っていた長州と対立が生じていたが。2002年1月に武藤敬司が新日本プロレスの有力なスタッフを引き抜いて全日本プロレスに移籍する事態が起きたことで、全日本との交流を推進していた長州は全責任を取らされ現場監督から解任、猪木の命で蝶野正洋が就任するも、長州は試合会場から姿を見せなくなり、新日本には辞表を提出したことで、5・2東京ドーム大会のカードからはずされ、先に退社していた永島氏に合流するのではと噂されていた。
長州の猪木に対して公然と批判した理由は、興行が頭打ちにもなっているのに係わらず、猪木がロスサンゼルスに新日本道場を設立したことで不透明な金が流れていたことに対する不満もあるが、一番の理由は自身が現場監督として築き上げたことを猪木が潰してきたことだった
長州の言う猪木のコンプレックスは様々な意味があると思う。確かに猪木の留守の間に長州が現場を仕切ったことで、自身が出馬前より新日本は潤っていったが、猪木にしてみれば新日本はあくまで自分の会社で、政界に進出している間は坂口と長州に預けていたに過ぎない、だが坂口と長州の存在が大きくなるにつれ、やがて自身の存在を脅かすのではという懸念、これは猪木のかつての側近で過激な仕掛け人と言われた新間寿氏にもいえたが、新間氏も最初こそは猪木を立てて、猪木自身もあくまで自分の部下として扱ってはいたが、次第に新間氏の存在が大きくなるにつれ、猪木にとって新間氏は煙たい存在になっていった。そう考えると猪木は長州が新間氏と同じ、自分以上の存在になることに怖れを抱いていたのではないだろうか…
よく考えれば長州が公然と猪木を批判したことはあまりない、いやこれが最初だったと思う。長州にしてみれば 、長州からしてみれば猪木の最も嫌う他団体との対抗戦や大仁田厚の起用など、猪木の意に反することもしてきたのも事実だったが、成功を収めたことで猪木には文句は言わせず、長州もその都度猪木に気遣ってきたはずだったという自負があった。だが猪木は認めようとしないどころか、自分を現場監督から引きずりおろして、退社するまでに追い詰めた。長州の猪木批判は今思えば、長州は新間寿氏と同じ思いを抱え、”誰のおかげで新日本や猪木があるんだ”と本音が出た瞬間だったと思う。
長州は自分が正しいことを示すためにWJプロレスを永島氏と共に旗揚げしたが、自身のプロデュースしてきた新日本プロレスと同じようにはいかず、様々な問題を抱えて団体内の欠陥を露呈してしまい、1年で活動休止となってしまうが、このときも猪木は長州に”これで長州も誰のおかげでここまで来たのか思い知るだろう”と考えたと思ったのではないだろうか…
そこでサイモン・ケリー氏が猪木に長州に戻ってきてもらうことを進言、猪木も賛成して長州は現場監督として新日本に戻ったが、ところが猪木はユークスに新日本プロレスを売却、単なる金ヅルとしか考えていなかったユークスが経営改善を図ったため、反発した猪木はサイモン氏と共にIGF旗揚げへと動き、長州もいつしか現場監督を辞して新日本から離れていった。
IGFが旗揚げして10年目で今度は猪木がサイモン氏を始めとするIGFに対して整理を通告したことで内紛が起きた、サイモン氏も”誰のおかげでIGFや猪木があるんだ”と言わんばかりに「ボクは猪木さんより上のような気がする」と専門誌でコメントし、猪木と分かれて東方英雄伝をスタートさせるも、サイモン氏が退社、英雄伝も活動を休止していた。今思えば新間氏と長州と同じようなことが、サイモン氏に対しても起きていたことになる。まあサイモン氏も長州と新間氏ほど猪木に対して愛憎があったのかどうかわからないが…
長州が引退の日に長州はバックステージコメントで「アントニオ猪木に近づくことはとても大変なんだな」と答えていた、猪木がリング内だけでなくリング内でも24時間アントニオ猪木というものを貫いてきたとおり、長州も24時間長州力であり続けようとしたが、長州の中にある猪木へのコンプレックスは「猪木になれない、なれなかった」ということなのだろうか、6月26日に長州が現役を引退したと同じ日に、猪木も政界から去っていった。そして平成の一時代に幕を閉じた。
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