6月28日のWWE日本公演初日でレガシー部門でWWE殿堂入りを果たした新間寿氏の記念セレモニーが実施されることが発表された。新間氏のWWE殿堂入りは、これまで新日本とWWFの提携を実現させ、WWF会長にも就任した功績を称えられたものだったが、新間氏と熱意と”おもてなし”で築きあげたものだった。

1972年にアントニオ猪木が新日本プロレスは旗揚げし、猪木の誘いを受けて新間氏も参加したが、旗揚げしたばかりの新日本はまだテレビ中継もなく、猪木がまだジャイアント馬場ほど海外では大物ではなかったこともあり、外国人ルートも弱く、カール・ゴッチ以外は大物選手は呼べることは出来なかった。新間氏も後発に旗揚げした全日本プロレスがブルーノ・サンマルチノ、テリー・ファンクなど大物を来日させたのに対し、新間氏もゴッチに「サンマルチノやディック・ザ・ブルーザーなど大物を呼んでほしい」とクレームを入れたことで、ゴッチから睨まれることもあった。
1973年4月にテレビ朝日が新日本プロレスを中継する「ワールドプロレスリング」が始まったことをきっかけに、マイク・ラベールがプロモートするロスサンゼルスの「NWAハリウッドレスリング」との提携が始まり、ゴッチ以外の外国人ルートを確保することが出来た。ラベールはNWAの会員だったが、元々猪木を高く評価しており、また日本プロレスの外国人ブッカーで、また馬場寄りとされていたミスター・モトが日本プロレス崩壊と共に外国人ブッカー業も廃業したため、ラベールも猪木との提携を選択したのだ。
ラベールの縁でジョニー・パワーズのNWFとの提携も開始し、これで外国人不足は解消されたものの、トップ外国人選手はパワーズや独自で発掘したタイガー・ジェット・シンだけではまだ不足していた。そこで新間氏が目をつけたのは当時団体名がWWFとなっていたWWEだった。
この頃のWWFはNWAの会員のなってNWAグループの傘下になっており、王者だったブルーノ・サンマルチノが全日本プロレスに参戦して、馬場もWWFの本拠地だったマジソン・スクエア・ガーデンに上がっていたこともあった全日本寄りと言われてきた。新間氏はラベールの紹介でWWFのボスだったビンス・マクマホン・シニアと会談、新間氏は「ニュージャパンにもテレビ局が付いたから、ぜひウチのレスラーに試合をさせて欲しいと希望を持ってます、しかし、まずはそれをお願いするよりも、貴方の推薦するレスラーを新日本で定期的に呼ばせてもらいます」と話し、ビンス・シニアは「ミスター・新間、一番呼びたいのは誰だ?」と聞き返すと、新間氏は「アンドレ・ザ・ジャイアントをお願いしたい」と返答した。
アンドレは1970年に国際プロレスでモンスター・ロシモフのリングネームでヨーロッパから初来日した際に、同じ時期に来日していたAWAの帝王バーン・ガニアに薦められてアメリカに進出、リングネームもアンドレ・ザ・ジャイアントと改め、マクマホンと独占契約を結び、全米を代表するトップレスラーとなりつつあった。 ビンス・シニアはしばらく考えてから「いいよ」と返事を出した。アンドレはNWAやAWAにもレンタルされていたこともあり、WWFもNWAの一員だったこともあって全日本に参戦が濃厚視されていたが、新間氏の直談判でまさかの新日本参戦が実現となった。

なぜビンス・シニアがアンドレを新日本に貸し出すことを決めたのか、WWFはNWAの一員なれどNWAとは選手の貸し借りだけの関係に過ぎず、独自でやっていける力は充分にあり、NWA内でも発言力は強かった。
王座に関してもWWFの干渉も受けず、独自で管理運営していたが、王者のサンマルチノは親友である馬場への友誼で全日本参戦を独断で決めてしまっており、ビンス・シニアも大スターであるサンマルチノには頭が上がらず、WWFもサンマルチノのルートで全日本との提携を優先せざる得なかった。それを考えると新日本との提携を選んだのは、WWF内で発言力を強めるサンマルチノに対する牽制の意味合いもあったのかもしれない。
1974年2月にアンドレが新日本に初参戦を果たし、新間氏もアンドレ参戦のバーターとして元国際プロレスでフリーとなっていたストロング小林をブッキング、1975年8月には猪木自身もMSGのリングに上がり、1978年1月には藤波辰巳が登場してカルロス・ホセ・エストラーダを破りWWFジュニアヘビー級王座を奪取させるなど、密接な関係築き上げた。その際にビンス・シニアは新間氏をWWF会長に推薦、推薦を受けた新間氏は会長に就任する。WWF王者もサンマルチノからビリー・グラハムに代わったことをきっかけに、WWFも提携先を新日本一本に絞った。

1978年春にはこれまでシングルの総当たり戦として開催されてきた「ワールド・リーグ戦」を「MSGシリーズ」に改めた。改めた理由は「ワールド・リーグ戦」は第4回まで開催してきたが、第3回と4回と2年連続で猪木が異種格闘技戦の調整やNWFの防衛戦を理由に参戦しなかったため、盛り上がりに欠けてしまい、リーグ戦を充実させるために一流選手を揃えるリーグ戦にリニューアルしようと考えたのだが、新日本はNWAの会員でありながらも、会員のほとんどは馬場の全日本寄りだったため、新日本に協力する会員はロスのラベールとWWFのビンス・シニアしかいなかった。
NWAは頼りに出来ないと判断した新間氏はビンス・シニアと会談、シリーズのタイトルにMSGの名前を入れるだけでなく、WWFのトップ選手の派遣を依頼する。MSGシリーズは全日本が1度使用し、WWFからはペドロ・モラレスが派遣されたが、モラレスの参戦はサンマルチノのブッキングによるもので、それ以降はモラレスも新日本に参戦し、MSGシリーズの名前も全日本は2度と使わなかった。
新間氏は「全日本プロレスがMSGシリーズをやっている。おかしいじゃないですか、MSGの名称の使用は新日本が相応しい。いや、全日本以上にMSGの名前を華やかなものにしてみせる!」と訴えると、ビンス・シニアは使用を許可するだけでなく、新しいトロフィーまで用意してくれた。
これで4月21日に第1回MSGシリーズが開幕し、ビンスは約束通りにアンドレを筆頭に元タッグ王者のチーフ・ジェイ・ストロンボー、トニー・ガレア、ニコリ・ボルコフなど、WWFのトップスター選手を派遣、またシリーズ途中からはグラハムを破りWWF王者になったばかりのボブ・バックランドも途中から参戦するなど華やかなシリーズとなった。
MSGシリーズが開催されるにあたってビンス・シニアは夫人を伴って来日し、京王プラザホテルで宿泊することになったが、新間が部屋を訪ねると、新日本が用意したのは普通のツインルームだったことに怒り、すぐ最上級のスペシャルルームにチェンジさせ、またビンス夫妻のかかる費用も新日本持ちとした。新間氏の機敏な対応とおもてなしにビンス・シニアは感銘を受け、新間氏と家族ぐるみでの付き合いに発展するまで信頼関係を深めていった。

それからの新日本はビンス・シニアの紹介でNWA屈指の黄金マーケットだったフロリダのエディ・グラハムとの提携に成功し、ダスティ・ローデスが新日本に来日するなど、新日本の外国人選手も全日本に負けないほどの陣容を整え、IWGP構想にはビンス・シニアも実行委員に名を連ねて協力するなど新日本とWWFの関係は深まったが、1983年に念願の第1回IWGPが開催され、ビンス・シニアは実行委員として来日して前夜祭にスピーチを行うも、この頃には既に膵臓ガンを患っており、IWGP開幕を見届けた後で旅行先の香港で死去、69歳の生涯を終えたが、ビンス・シニアが死去してまもなく、新間氏も1983年に新日本内におけるクーデター事件で失脚して新日本から去り、1984年にUWFを設立して新日本からWWFとの提携を横取りすることを画策したが、WWFは2年前から息子のビンス・マクマホンに代替わりしており、ビンスは新日本との関係を優先したため、UWFとの提携は実現しなかったものの、ビンスは新日本との関係も見直し、莫大なブッキング料を要求してきたため、しばらくして新日本とWWFの提携は解消され、11年8ヶ月に渡る関係に終止符を打った。

新間氏はビンス・シニアの葬儀にはIWGP開催中だったことで、参列できなかったが、しばらくして墓参りを行い、新間氏はお経で亡き故人を読み上げて弔い、日本流の弔いにビンス・シニア夫人から感謝を受け、ビンスからもWWFへ誘いを受けたが丁重に固辞した。その後も新間氏とマクマホン一家の家族ぐるみの関係は続いたが、WWEが新間氏を称えたのは功績だけでなく、熱意だったのかもしれない。