チャンピオンカーニバルヒストリー① 各王者を揃えるトーナメントから始まったチャンピオンカーニバル


<1973年度の出場選手>ジャイアント馬場、サンダー杉山、サムソン・クツワダ、ヒロ・マツダ、マティ鈴木、マシオ駒、大熊元司、ザ・デストロイヤー、マーク・ルーイン、キング・イヤウケヤ、カリプス・ハリケーン、バロン・シクルナ、アントニオ・プグリシー、ムース・モロウスキー、マッド・ラシアン 

 <1974年度の出場選手>馬場、ジャンボ鶴田、杉山、クツワダ、高千穂、駒、鈴木、デストロイヤー、ルーイン、ミスター・レスリング、アブドーラ・ザ・ブッチャー、イヤウケヤ、ルーファス・ジョーンズ、ジョー・ソト、セーラー・ホワイト 

 <1975年度の出場選手>馬場、鶴田、デストロイヤー、小鹿、大熊、高千穂、クツワダ、ジン・キニスキー、キラー・コワルスキー、ルーイン、レスリング、ボブ・オートン・ジュニアスティーブ・カーン、マイク・ジョージ  

 全日本プロレスの春の本場所「チャンピオン・カーニバル」は旗揚げして5ヶ月後の1973年3月17日、世田谷区民体育館で開幕した。「チャンピオン・カーニバル」と名づけたのは、本来なら力道山本流のプロレスを受け継いでいるとして「ワールド・リーグ戦」の名称を使いたかったが、崩壊寸前ながらもまだ日本プロレスが存続していたため、考えたついた名称が「チャンピオン・カーニバル」だった。この頃の全日本はNWAに加盟したばかりでNWA世界ヘビー級王者も呼べる状況であったことから、「チャンピオン・カーニバル」のタイトルに相応しく、当時のNWA世界王者のドリー・ファンク・ジュニアを始め、各地域の王者を揃えようとしていた。

 参戦したのはPWF王者の馬場、この頃には日本陣営に加わっていたUS王者のザ・デストロイヤー、南半球ヘビー級王者のマーク・ルーイン、太平洋岸ヘビー級王者のキング・イヤウケア、中南米ヘビー級王者のカリプス・ハリケーンに加え、ムース・モロウスキー、バロン・シクルナ、マッド・ラシアン、アントニオ・ブグリシー、全日本側からは助っ人として参戦しいたヒロ・マツダ、マティ鈴木、所属からはサンダー杉山、マシオ駒、サムソン・クツワダ、大熊元司の15選手がエントリーも、南半球、太平洋岸、中南米の3王座は全日本が用意した王座でベルトも粗末なものだったが、シリーズ終盤ではNWA王者のドリーも参戦して防衛戦が行われることになっていたため、ドリーさえ参戦すれば「チャンピオン・カーニバル」に箔がつくという計算もあった。

  第1回の「チャンピオン・カーニバル」は総当りリーグではなくトーナメントとして開催された。トーナメントにしたのはリーグ戦は時には番狂わせが起きる、保持者が格下選手に敗れた場合、王座の権威が損なわれるという懸念があったからだった。トーナメント決勝には4月21日の福井市体育館で行われ、決勝には馬場とルーインが進出して馬場が優勝したが、番狂わせがないという”ハプニング”が起きなかったことで盛り上がりが欠け、「王座の権威が損なわれる」という配慮が裏目に出る結果となった。それでもドリーさえ来れば大丈夫と思っていたが、ドリーは自宅牧場でトラクターを運転中に転落事故を起こして全治2ヶ月の重傷を負ったため来日が中止となり、代役としてザ・シークが来日してPWF王座に挑戦したが、第1回の「チャンピオン・カーニバル」は苦心の連続で終わった。なおドリーは復帰してしばらくしてからハーリー・レイスに敗れ王座から転落、NWA王者として来日することになかった。  

 第2回もトーナメントとして開催され、全日本の常連となったブッチャー、前年度準優勝のルーイン、イヤウケアも参戦したが、全日本が用意した各ベルトは封印、この年からジャンボ鶴田もエントリーされ、準決勝でミスター・レスリングに破れ脱落、デストロイヤーとブッチャーの抗争も話題を呼んだが、無効試合で両者失格となり、決勝で馬場がレスリングを破って2連覇を達成、第3回は元NWA王者で馬場とも何度も激闘繰り広げたジン・キニスキー、コワルスキーがエントリーし、A~D4ブロックに分かれてトーナメントを行い、トーナメント1位の選手が総当りリーグを行う新方式を採用、馬場がキニスキーを破り3連覇を達成したが、この頃には新日本プロレスも総当りリーグ戦「ワール・リーグ戦」をスタートさせ、第2回では日本人対決を中心にしたことで話題を大きく呼び、さすがの馬場も意識せざる得ない状況となった。

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