日本プロレス崩壊~全日本プロレスへ合流②新日本への合流は白紙に・・・遂に崩壊へ

 韓国に帰国し選手会に出席していなかった選手会長の大木金太郎が「合併話など全く聴いていない。これは会社乗っ取りを企んだ猪木を認めることに他ならない、絶対反対だ!」と会見を開いたことで両団体の合流に暗雲立ち込めた。大木は馬場と猪木とは1年先輩だったが、二人に追い越されてNo3の座に留め置かれ、また「自分こそが力道山の後継者である」ことを自負していた。また大木も馬場、猪木がいなくなったことでせっかくエースとなるも、団体の主導権を握った猪木、坂口にエースの座を取られるという危機感もあった。  

 大木を交えた上で再度選手会が行われるが、坂口は「大木に合流話はNETの意向である」と説明するも、合流に賛成していた選手たちは一転して反対に周り、結局合流は白紙とされてしまう。選手会は坂口、大木の2派に分裂、大木は坂口を裏切り者として非難するだけでなく、先輩である芳の里に対しても呼び捨てにして「オマエがしっかりしないから、こんなことになったんだ!」と非難する。2派とは中立に立場を貫き、芳の里をオヤジと慕い、また合流は芳の里の意向であると知っていた高千穂は激怒して日本刀を持ち出し、以前から大木に対して面白くない感情も爆発して、大木を追い掛け回す一幕もあった。 

 孤立した坂口は小沢正志(キラー・カーン)木村聖裔(木村健悟)大城勤、レフェリーの田中米太郎と共に日本プロレスを離脱して新日本プロレスに合流、保持していたタイトルも譲り渡すかのように明け渡し。大木に反抗した高千穂は坂口には追随せず、日本プロレスと共にする決意を固めた芳の里に追随するために日本プロレスに留まり、大ベテランの吉村道明も体力の限界で引退してしまった。 

   実質上日本プロレスの主導権を握った大木はマスコミの前でも「力道山先生伝統の日本プロレスをNETが見捨てるわけがない」と答え、坂口がいなくなっても放送は継続されると考えていたが、NETは『坂口を切るだけでなく、合流案を無視した日プロには用はない』と判断、NETも3月9日の佐賀県佐野大会の収録をもって日本プロレスの放送を打ち切り、新日本プロレスの放送を開始すると発表、坂口の離脱は日本プロレス崩壊に拍車をかける結果となったが、それでも大木は「4月以降もNETは自分達を見捨てることはない、新日本を放送しても隔週ぐらいの頻度で、ウチを放送してくれると思う」とマスコミに答え、「力道山伝統の日本プロレスをNETが見捨てるわけがない」をタカをくくっていた。しかしメインレフェリーだった沖識名も退団、芳の里も「テレビのバックアップがない以上、興行を続けていくことは無理」と撤退を表明し、営業も含めたフロントも全員辞表を提出するなど、日本プロレスの崩壊は決定的となった。 

  それでも大木ら選手会は選手の貯金をかき集め、最後に支払われたNETの放映権料を使って、僅か6戦の「アイアンクローシリーズ」を開催することを決意、全日本プロレスが招こうとしたフリッツ・フォン・エリックを横取りに成功し、1973年4月13日に大阪府立体育館で大木vsエリックのインターナショナルヘビー級選手権をメインにして選手会主催のビックマッチを開催するも、営業力を失い、TVも失った日本プロレスを観に来る観客は少なく4000人(実数は1000人ぐらい)と惨敗、さすがの選手会も現実に気づき存続にギブアップ、翌日に東京に戻った選手たちは解散会見を開き、力道山本家である百田家に預けられることになった。百田家に斡旋したのは芳の里で、撤退はしても残された選手たちの面倒は最後まで見るつもりだった。日本プロレスは4月20日群馬県吉井町(現在は高崎市と合併)大会を最後に活動を停止した。(続く)
(参考資料 日本プロレス事件史Vol.2 GスピリッツVol.28、ザ・グレート・カブキ自伝「東洋の神秘」)

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