日本プロレス崩壊~全日本プロレスへ合流①猪木、坂口が合体!新団体設立目前も…

 プロレスとは関係のない話になるが、民進党が新党である希望の党に合流となった、民進党の代表だった前原誠司氏はおそらく対等な関係と思って合流したと思う。しかしいざ合流となると新党・希望の党に主導権を奪われており、これに納得しなかった枝野幸男氏が新党・立憲民主党を設立、プロレスファンで元総理大臣だった野田佳彦氏は無所属での出馬と、一時政権与党だった民進党は三つに分裂した。政党のあり方はプロレス団体に似ているような感じもするが、思い出したのは昭和48年の日本プロレス崩壊~全日本プロレスへの吸収合併だった。 

  日本プロレスは昭和38年に力道山死去後も、ジャイアント馬場とアントニオ猪木の2大スターを要して日本テレビだけでなくNET(テレビ朝日)との二局放送もあって絶大なる人気を誇っており、競合団体だった国際プロレスに対して圧倒的な差を見せつけていた。だがその時代もいつまでも続くわけがなく、昭和46年12月にクーデター事件が起き、2大スターの一人である猪木は日本プロレスから追放されたのを契機に陰りが見え始め、翌年には日本プロレスが日本テレビとの取り決めを破り、馬場の試合をNETで放送したことで放送を打ち切り、その報復として馬場を独立させて全日本プロレスが旗揚げした。  

 馬場と猪木という2大スターを失った日本プロレスは一気に傾きだすも幹部達は「馬場や猪木が抜けても、坂口征二や大木金太郎がいる!」と強気な態度を取り続けていたが、これまで圧倒的な差をつけていた国際プロレスとの興行戦争に惨敗、NETの中継は継続されてはいたものの、視聴率は低迷、観客動員も落ち込み、観客よりもTV中継スタッフの方が多かった興行もこともあったという。日本プロレスは絶大なる力を失いつつ状況の中でアメリカ武者修行に出ていた高千穂明久、後のザ・グレート・カブキは芳の里の命令で凱旋帰国した。  

高千穂は昭和39年に入門、体が小さかったこともあって入門僅か3ヶ月でリストラされそうになり、退職金も当時の大卒初任給の2ヶ月分を受け取ったが、芳の里から残れと言われ、退職金も返還しようとしたが、芳の里は「そのまま受け取っとけ」と言われてそのまま受け取った。高千穂明久のリングネームを与えたのも芳の里だった。デビューを果たした高千穂は芳の里ら幹部らの付き人になり、芳の里をオヤジと慕うようになった。昭和45年に念願だったアメリカ武者修行に旅立ち、各地を転戦、トップとはいかないまでも稼げるレスラーとなりアメリカ定着も考えた矢先での帰国命令だった。  

 日本プロレスは大木、坂口、高千穂、大ベテランの吉村道明が中心になるも、視聴率どころか観客動員も好転せず、経営も苦しくなった日本プロレスは人減らしのために中堅・若手を5~6人海外遠征に出し、事務所&合宿所&道場&倉庫のあったビルを移転、所有していた2つのビルのうち1つを売却するなど資金難に陥り始めるも、選手のギャラはNETの放映権料から辛うじて支払われていた。  

そこでNETはテコ入れのために猪木に戻ってきてもらうことを決断、水面下で猪木側である新日本プロレスに接触した。日本プロレスを追われた猪木は新日本プロレスを旗揚げするも、TV中継もなく、外国人招聘ルートも弱かったこともあって旗揚げから苦戦し、巨額の赤字を抱えていたていたことから、NETからの話は猪木だけでなく新日本にとっても渡りに舟であった。NETは日本プロレスの現状に危機感を抱いていた芳の里にも声をかけ、坂口に”お前は猪木とやれ”と接触を命じた。二人はNETの仲介で極秘会談を何度も重ね、新日本と日本プロレスを発展的解消させ、日本プロレスは全選手が独立、双方が対等な形で合体して新団体「日本プロレス」を設立、猪木が持ち株60%を持つ社長、坂口が持ち株を40%を持つ副社長に就任、新団体は4月からNETで放送することで合意に達した。なぜ芳の里が猪木と坂口を引き合わせたのか?、芳の里は逼迫する日本プロレスの経営に疲れており、日本プロレスを綺麗に畳んで退陣することを決め、残った選手の面倒を猪木、坂口に見てもらおうと考えていた。  早速新日本との合体案は選手会の合意を取りつけ了承を得ると、昭和48年2月に猪木と坂口が会見を開き、4月から両団体は合流することを発表した。しかしこの計画をひっくり返した者がいた、それは韓国に帰国していたため選手会の会合に参加していなかった大木金太郎だった。(続く) 

(参考資料 GスピリッツVol.28、ザ・グレート・カブキ自伝「東洋の神秘」

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