日本プロレス崩壊~全日本プロレスへ合流③ 合流で見た現実


残党となった日本プロレスが合流したのはジャイアント馬場の全日本プロレスだった。全日本プロレスは日本テレビをバックに旗揚げしたものの興行的には苦戦、馬場も離脱時に誰も声をかけなかったことから日本人選手も不足し、ザ・デストロイヤーを日本側に加え、提携していた国際プロレスから選手を借り受けることで日本人選手層の薄さをカバーしていた。高千穂はアメリカに戻るつもりだったが、芳の里の指示で日本に留まり、全日本に合流することになった。 

  記者会見では「日本プロレスの選手たちは、全日本プロレスに合流します」と発表したが、馬場はいい顔はしなかった。確かに日本人選手は欲しかったが、欲しかったのは高千穂以下若い選手で、扱いにくい大木らベテランは受け入れ難がったが、全日本を旗揚げする際に協力した日本テレビや百田家など大物の斡旋とあって馬場も断ることが出来なった。しかし馬場の本音を知らなかった大木は百田家からは「全日本と日プロの合同興行である」と説明を受けていたこともあり、大木は「これはあくまで対等合併である」と信じ込んだまま全日本に参戦した。

  日本プロレス残党は日本テレビと契約、日本テレビからの派遣という形で全日本に参戦したが、マッチメークなどの全権限は馬場に委ねられた。6月30日から「サマーアクションシリーズ」が開幕すると、開幕戦からインタータッグ王者にもなった上田馬之介がカードから外され、アジアタッグ王者にもなり、日プロ末期にはダニー・ホッジの保持するNWA世界ジュニアヘビー級王座にも挑戦した松岡巌鉄は前座扱いとされるなど冷遇を受ける。上田はクーデター事件に関わっためだったが、松岡は実力はあるが若手に対するイジメや先輩への讒言、マスコミに対して横柄な態度をとることから選手間では評判が悪かった。二人は大木に「どうにかして欲しい」と抗議するが、大木は自分はメインからセミと扱われていたので文句はなく直訴もしようとしなかった。残党達は上田には同情するも、人望のなかった松岡には誰も同情しなかった。 

  上田は試合がやっと組まれるが前座扱い、松岡は外国人相手の噛ませ犬と扱われ、上田も合流2シリーズ目から外国人選手との対戦を組まれるが、格下外国人選手の噛ませ犬として扱われ、試合からも干される日もあった。一方の大木と高千穂はメインからセミと大関クラスの扱いを受け、同じく日プロ末期にはアジアタッグ王者にもなり、アメリカでもカンフー・リーとして活躍したグレート小鹿も前座扱いだったが連日のように試合が組まれるなど、上田と松岡との扱いとは違っていた。上田は全日本での扱いを見てアメリカへ旅立つことを決意する。

  自分の全日本での扱いに満足していた大木だったが、アメリカ武者修行に出していた鶴田友美の凱旋が決まり、10・9蔵前のビッグマッチで馬場とのパートナーに抜擢され、ドリー・ファンク・ジュニア、テリー・ファンクの保持するインターナショナルタッグ王座への挑戦が決まると、「全日本代表の馬場、日プロ代表の自分が組んで挑戦するのが筋だろう!」と馬場に抗議するも、馬場は鶴田は将来のエース候補、即戦力ルーキーとして売り出すことを決めていたことから大木の抗議を受け入れなかった。上田と松岡は10・9蔵前を最後に日本プロレスを離脱、大木は鶴田が帰国したことでNo3~No4クラスに降格、中堅外国人相手にお茶を濁すようになり、デビューして間もない鶴田の風下に立たされた大木はプライドを傷つけられ、韓国へ帰国したまま全日本に所属として戻ることはなかったものの、3人の離脱は馬場にとって望んでいたことでもあったことから咎めもしなかった。

  その後、大木は馬場、猪木に挑戦状を叩きつけて、1974年10月10日に新日本プロレスに参戦、猪木と対戦、敗れはしたが名勝負を展開し、大木健在をアピール、猪木との対戦成績が1勝1敗1分となり商品価値が上がったところで、馬場が大木を引き抜き、対戦するも6分49秒で馬場が勝ち、以降は一時国際プロレスに移籍したが、全日本を主戦場にし、1982年に頭突きの影響から来る首の負傷を悪化させ、事実上の引退、1995年4月2日に東京ドームで行われた「夢の架け橋」で引退セレモニーが行われるも、2006年10月に死去した。

上田はフリーとなってアメリカにわたり、金髪に染めてヒールとして活躍、日本に帰国すると国際プロレスを経て猪木を標的に新日本プロレスに参戦、タイガー・ジェット・シンとのコンビで大活躍、シンと共に全日本に移籍。シンとのタッグ解消後は新日本に参戦、メジャーからはずれNOWやIWAジャパンのインディー団体に参戦したが、東京への帰京中、東北自動車道で交通事故に遭遇、事故により頸椎損傷の大怪我を負い、胸下不随となり車椅子での生活を余儀なくされ、2011年12月21日に死去した。 松岡もアメリカに渡るが、1974年に廃業、その後の動向を知るものはなく、現在でも消息を絶っている。

社長だった芳の里は日本プロレスを綺麗に畳んで、その後経営上のライバルであり、プライベートでは盟友だった国際プロレスの吉原功氏の推薦で、東京12chの「国際プロレスアワー」の解説者を務め、昭和51年3月28日 蔵前国技館で行われた鶴田vsラッシャー木村戦では特別レフェリーを務めるなど様々な形でプロレス界に携わった。芳の里は日本プロレスの事務所が閉鎖される日、かつて日本プロレス社員が誇らしげに飾ったバッチが、見捨てられたかのように転がっており、芳の里は全部集めて持ち帰り1998年3月11日、死去するまで大事にしまわれていたという。

晩年芳の里は「プロレススーパースター列伝」で金庫から金を持ち出し豪遊したというレッテルが貼られていたが、カブキによると全部創作で、素顔は世渡り下手で揉め事を嫌う、情に厚い人間だったという。だがカブキが芳の里によってリストラを逃れ、受け取った退職金もカブキが返そうとしても、芳の里が「そのまま受け取っておけ」としたように、昭和のドンブリ勘定体質と芳の里の情の厚さが日本プロレスを窮地に追い込んでいったのも事実だった。芳の里は夫人に「俺に教育があれば、会社を潰すようなことはなかった」と後悔していたという。芳の里は日本プロレスのバッチを全て拾ったとき、何を去来したのだろうか・・・ 

(参考資料 日本プロレス事件史Vol.3 Vol.22 、ザ・グレート・カブキ自伝「東洋の神秘」)

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