アントニオ猪木とIGFの間で告発合戦が繰り広げられ、泥仕合の様相を呈しているが、オールドファンからしてみれば”またか”と思う人が多いのではないだろうか。 一番古い話とすれば、猪木がかつて参加した東京プロレスの内紛劇による泥仕合がある。
1965年年末に日本プロレスの社長だった豊登が社長を辞任した。豊登は力道山死去後にエース兼社長に就任、吉村道明、芳の里、遠藤幸吉との合議制で日本プロレスを運営していたが、生まれつきのギャンブル狂で日本プロレスの金庫から金を持ち出してはギャンブルに流用していたため、遠藤から横領を追及されたことで辞任に追い込まれたが、実は豊登が若手らの小遣い稼ぎのために選手会主催でベンチャーズのコンサートを開催しようとしていたが、遠藤が興行権を横取りして儲けを独り占めにしたため、怒った豊登が選手らに遠藤を制裁を命じて袋叩きにしたという事件があったことから、遠藤の追及は豊登に対する報復も兼ねていたのかもしれない。
日本プロレスを追われた豊登は新団体設立へ動き始めた。だが豊登に追随したのは付き人として常に豊登と行動していた田中忠治と、まだ若手だった木村政雄(ラッシャー木村)、斎藤昌典(マサ斎藤)、北沢幹之だけで、主力は誰も追随しなかった。
選手層の薄さを危惧した豊登は、弟分として可愛がっていたアントニオ猪木の獲得に動き、凱旋帰国に向けてハワイでトレーニングしていた猪木をハワイまで出向いて勧誘し、猪木に対して「日本に戻っても馬場の下として扱われる」「新団体の社長はおまえだ」と口説き、猪木も「人に使われるのは嫌だった」という気持ちもあって豊登の誘いを受け、新団体・東京プロレスに参戦することになった。

しかし帰国していた猪木に待ち受けていたのは現実で、資金はなく豊登自身も既に借金を抱えており、当時資金源とされていたテレビ局もついていなかった。、猪木は同じく豊登から誘われフロントして参加していた新間寿氏とともに旗揚げへと動き始めた。猪木自身は外国人選手を集めるために、日本プロレスの妨害の網をくぐってNWA会長だったサム・マソニック氏に直談判、ジョニー・バレンタインやジョニー・パワーズら6選手のブッキングに成功、日本プロレスもまだNWAには加盟していなかったことで、まさしく盲点を突いた行動だった。

テレビ局は結局つかず、旗揚げ前に崩壊かとも噂されていたが、資金も猪木や新間氏などがどうにかかき集め、10月12日蔵前国技館で旗揚げ戦を行い、11000人を集め大成功を収め、猪木はバレンタイン相手に激闘を繰り広げ評判を高めた。

ところが肝心の売り上げのほとんどが豊登に持っていかれてしまい、ギャンブルに使われたことでほとんど残らなかった。
旗揚げ戦は成功したものの、フロントやプロモーターも素人だったこともあって不手際を連続、大会の中止が相次ぎ、TV中継もなかったこともあって、開催できたとしても不入りの状態が続き、来日した外国人選手もギャラが支払われるのか心配になって、病気を理由にもらえる分だけもらって帰国するなど悪戦苦闘、豊登は大阪球場でのビックマッチを開催して猪木がバレンタインを降してUSヘビー級王座を奪取するも、観客動員は8000人(実数は3000人)と大惨敗に終わった。

11月21日に決定的な事件を起こしてしまう。板橋区都電板橋駅前大会を開催しようとしていたが、予定時間より1時間も経っても開催されないどころか、中止になったことで、野外で寒空の中で長々と待たされた観客が激怒してリングを破壊して放火したため機動隊まで出動する事態にまで発展してしまった、。開催されなかった理由は選手たちは宿舎となっていた温泉旅館に待機していたものの、主催者となっている「オリエント・プロモーション」に豊登がギャンブル資金欲しさに多額の前借りをしており、猪木らの選手らのギャラは豊登の前借分返済にあてられてしまっていたことから、これに怒った猪木は選手らにドタキャンを命じて引き上げてしまったのだ。不祥事は一般紙の社会面にも掲載されたことで、東京プロレスは社会的信用を失墜したが、それでも豊登は僅かな売り上げを持ち出し、プロモーターにも借金をしてまでギャンブル通いを続け、猪木の元にも借金取りが来るようになり、5000万も借金を背負うハメになった。

シリーズが終了後にさすがの猪木も堪忍袋の尾が切れて、豊登の子分だった田中を除く選手らを引き連れ、東京プロレスとは別の「東京プロレスリング株式会社」を設立、豊登の行状に飽きれていた新間氏も猪木派に加わろうとしたがプロモーターから売上金を回収できなかったとして、豊登一派の一人とされ、猪木は豊登と新間氏を業務上背任横領で告訴し、豊登と新間氏も「横領の事実はない」として、「猪木の生活費や当時の夫人が買い物をしたものを会社の経費で落としている」と逆告訴、この泥仕合による東京プロレスの分裂が決定的となった。
猪木は旗揚げしたばかりの国際プロレスに斎藤や木村ら所属選手らと参戦、国際プロレスもTBSでのテレビ中継実現へ向けて交渉中だったことで、猪木を所属として獲得しようとしたが、猪木と社長だった吉原功氏との間でギャラを巡ってトラブルが起きたところで、日本プロレスから復帰を持ち掛けられ、猪木は負債を返済するために北沢幹之、永源遥、柴田勝久と共に新日本へ復帰することを決意する。斎藤は元々海外志向が強かったためアメリカへ行くことを選択、木村ら残った選手は国際プロレスに引き取られた。猪木は日本プロレスには全員引き取って欲しいと交渉していたが、木村は豊登に近いとされていたこともあって、全員とはいかず、猪木は素質を買っていた寺西勇をせめて一緒にと交渉していたが、連れていくことは出来なかった。
豊登は負債返済から逃れるため、子分の田中と共に山籠もりするが、金が続かずにギブアップ、吉原社長の誘いを受けて国際プロレスに合流した。新間氏は共に東京プロレスに携わっていた父親から勘当を言い渡され、小来川鉱山鉱夫として4年間に渡って極寒の僻地で労働に従事、豊登が引退するとセールスマンに転身していた新間氏が面倒を見ることになり、新間氏が猪木と和解して旗揚げしたばかりの新日本プロレスに参加すると、新間氏の仲介で豊登も新日本に参戦、TV中継がつくと豊登は現役を引退して静かに新日本を去っていった。
1989年2月22日、新日本プロレスの『スペシャルファイト・イン国技館』で行なわれたユセフ・トルコ引退セレモニーに来賓として登場、元気な姿を見せたが、1998年7月1日に急性心不全で死去、享年67歳だった。
しかし東京プロレスで起きた泥仕合も、よく見ればIGFに起きている泥仕合に似ているのではないだろうか?。昨年で東京プロレスが旗揚げして50周年となったが、50年経ってからもまた同じことが起きているとは・・・
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(参考資料=GスピリッツVil.41 特集・東京プロレス)
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