全日本プロレス旗揚げ20周年で行われた三沢光晴vs川田利明…ここから四天王プロレス時代が始まった。


1992年10月21日、全日本プロレス日本武道館大会、この日は全日本プロレス旗揚げ20周年として記念して開催されたが、メインのリングに立ったのは総帥であるジャイアント馬場、エースとして君臨していたジャンボ鶴田ではなく、三沢光晴と川田利明の二人だった。

三沢と川田、二人とも足利工業大学附属高等学校のレスリング部では先輩と後輩の間柄で、特に川田は三沢を慕っており、三沢が全日本プロレスに入門すると、三沢の誘いもあって川田も全日本プロレスに入門、三沢も川田を邪険に扱っても川田は終始ニコニコするなど、二人は先輩後輩ではなく、仲がいいのか悪いのかわからない兄弟のような関係だった。超世代軍になってもその関係は変わらず、酒の席では三沢が些細なことで殴れば、川田も殴り返したこともあり、そのケガで二人とも一緒に休んでも”バカだなあ”と思いつつ、川田を可愛がっていた。

川田は1982年にデビューを果たしたが、デビュー以来205連敗を喫し、その間に三沢がメキシコへ武者修行に出ると、しばらくしてタイガーマスクとして凱旋、いきなりスターダムに伸し上がった三沢と前座で燻っていた川田との差は大きく開くも、その中でも川田は三沢の士道館における練習に同行し、館長の添野義二から現在の戦いの軸となる蹴り技・飛び技を習得、1985年から長州力らジャパンプロレスが参戦すると、小林邦昭や保永昇男、また外国人選手ではチャボ・ゲレロと対戦する機会も増え、時には三沢タイガーのパートナーとしてTVマッチに登場するなど、次第に中堅クラスへと押し上げられるようになっていった。

川田は1985年11月にアメリカに武者修行へ出され、テキサス州サンアントニオでは先に遠征していた冬木弘道とタッグを結成してショーン・マイケルズ&ポール・ダイヤモンドと抗争を展開したが、冬木がワーキングビザがないことがバレたため日本へ強制送還されてしまうと、一人になった川田はクビになり、佐藤昭雄の指示でカナダのカルガリーへ転戦してマスクマンも経験したが、川田もワーキングビザのトラブルで日本へ強制送還され、武者修行を打ち切るハメになってしまった。

日本に帰国しても馬場の付き人を務めつつ、前座で燻っていたが、天龍源一郎が阿修羅・原と共に天龍同盟を結成すると、川田も合流して冬木と共にフットルースを結成、先輩である三沢タイガーと敵対する関係となり、原の全日本プロレス離脱後は天龍のパートナーに抜擢されて世界最強タッグ決定リーグ戦にもエントリー、世界タッグ王座にも挑戦するようになっていった。

ところが1990年になると天龍が全日本プロレスを離脱、冬木も天龍に追随して離脱すると、川田も追随するかと思われたが、川田は全日本プロレスに残留を決意、タイガーマスクから脱却した三沢と共に超世代軍を結成し、鶴田率いる鶴田軍や、スタン・ハンセンら外国人選手と戦いを繰り広げ、1991年7月24日の石川大会ではテリー・ゴーディ、スティーブ・ウイリアムスの保持していた世界タッグ王座を奪取、10月24日の横浜文化体育館では鶴田の保持する三冠ヘビー級王座に挑戦するなど、三沢とのタッグだけでなくシングルプレーヤーとしても頭角を現すようになった。

1992年に入るとハンセンが鶴田を破り三冠ヘビー級王座を奪取、世界タッグ王座は再び世界タッグ王者となっていたゴーディ&ウイリアムス組を破った鶴田&田上明組に移動していたが、8月22日に三沢がハンセンを破り念願だった三冠ヘビー級王座を奪取する、そして9月9日の千葉大会で川田と田上の間で三冠王座挑戦決定戦が行われ、川田が新必殺技であるストレッチプラムを披露して田上からギブアップを奪い、旗揚げ20周年記念大会でのメインで三沢に挑むことになった。

全日本プロレスはエースだった鶴田が「92サマーアクションシリーズ」を足首の負傷を理由に全休、1シリーズ休んだだけで「92サマーアクションシリーズⅡ」から復帰したが、足首の負傷は表向きの理由でB型肝炎のキャリアだった鶴田は定期的にインターフェロンを投与しており、肝機能の数値が以上に上がったためシリーズを欠場して検査入院していた。肝機能の数値が正常値に近づいたことで治療を切り上げて退院したが、鶴田がB型肝炎のキャリアだったことは師匠である馬場以外は秘密になっており、タッグの組んでいた田上は気づいていなかったが、鶴田と接する機会が多い渕は鶴田が少し瘦せていたことで異変に薄々気づいており、付き人を務めていた秋山準にも「このところ、ちょっと疲れるんだよな…」とグチをこぼすようになっていた。

開始から三沢がヘッドロックで捕らえると、川田はいきなりバックドロップで投げてからキックを浴びせ、三沢はエルボーを狙ったが、川田は後ろへ下がっていなし、間を取った三沢は頭部を押さえつつダメージを確認する。
川田はリストロックからハンマーロックで捕らえ、ロープへ押し込んで逆水平、脇固めと三沢の左腕を攻めて先手を奪い、三沢は切り返しを狙っても川田はレッグシザースから左腕を捕らえつつサッカーボールキック、スタンディングからショルダアームブリーカーを連発から腕十字と試合をリードする。

三沢はロープエスケープしたが、川田はその隙を突いて三沢の顔面にキックを浴びせ、三沢は思わずダウンするも、立ち上がると三沢は怒りローキックを浴びせる川田にエルボーの連打を放ち、ジャンピングキックから再びエルボーの連打で川田がダウンすると、三沢はストンピングと一転して激しい攻防となる。
三沢はエルボースマッシュからサーフボードストレッチで捕らえ、川田はその体勢から力比べに臨むも、三沢は逃さず、川田はカンガルーキックで逃れると、フィンガーロックの攻防から胴タックルで三沢を倒し背後からスリーパーを狙うも、逃れた三沢はローキックを放っていく川田に逆にローキックを放ち、腰へのエルボーの連打、串刺しバックエルボーからモンキーホイップ、逆エビ固め、シュミット流バックブリーカー、キャメルクラッチと腰攻めで試合の流れを変える。

三沢は川田の背中、腰へとエルボーを放つと首投げから逆片エビ固めで捕らえ、川田はロープエスケープ、三沢はボディースラムからブレーンバスター、再びサーフボードストレッチで捕らえ、川田はロープエスケープすると、ハンマースルーを狙う三沢を切り返して逆にハンマースルーでロープに振り、帰ってきた三沢の顔面へスピンキックを浴びせたが、三沢はこの一撃で意識を飛ばしたという。
川田はサソリ固めで捕らえると、弓矢固めへ移行するが、脱した三沢は場外へ逃れ、戻ってきたところを川田はエルボースタンプ、ボディースラムからセントーン、スリーパー、うつ伏せ鬱になった三沢の後頭部へストンピングを浴びせると、怒った三沢はエルボーの連打からドロップキックを放つが、川田はスピンキックで応戦し、ブレーンバスターをフェイントとして脇固めで再び左腕を捕らえる。

三沢はロープエスケープするが、川田はサッカーボールキックから逆水平の連打を浴びせ、三沢はエルボーの連打で返せば、川田もエルボーの連打で返し、今度は三沢がスピンキックを放つとランニングエルボーを炸裂させる。
三沢はトップコーナーへ上がるとダイビングエルボーアタックを命中させ、タイガードライバーを狙うが、川田はコーナーに押し込んで阻止、しかしセカンドロープを駆け上がってのハイキックは避けられると、三沢はジャンピングキックを連打、ダウンする川田を三沢が起こそうとすると、川田は下からのキックで抵抗して、三沢の後頭部へラリアットを放つ。
川田はステップキックからパワーボムを決めるが、三沢はカウント2でキックアウト、川田は再びパワーボムを狙い、リバースした三沢の側頭部へビックブーツ、ボディースラムからダイビングニードロップ、ストレッチプラムを狙うが、三沢はロープエスケープする。
川田は三沢をリング中央に戻してストレッチプラムを狙うが、三沢は背負い投げで逃れるも、川田はローキックからストレッチプラムでやっと捕獲、グイグイと絞り上げて追い詰めるが、三沢は川田と一緒に場外に落ちることで逃れる。

川田は三沢をリングに戻すとラリアットを放ち、顔面へフロントキックを狙うとキャッチした三沢はエルボーを放つも、追撃できない隙を突いた川田はフロントキックで蹴り倒し、読み合いから突進すると避けた三沢はジャーマンスープレックスホールド、タイガードライバーと決めるが、川田はカウント2でキックアウトする。
三沢はフェースロックで捕らえ、川田は慌ててロープエスケープするも、三沢は首投げでリングに戻すと再びフェースロックで捕らえ、一旦解いてからカバーし、再びフェースロックで捕らえると、川田はロープエスケープする。
だが、三沢の攻勢は止まらず、ボディースラムからフロッグスプラッシュを命中させ、川田は場外へ逃れても、三沢はエルボースイシーダで追撃、リングに戻ると三沢はランニングエルボー、しかし2発目は川田がジャンピングハイキックで迎撃する。

川田はローキックから水面蹴り、後頭部ラリアットからジャーマンスープレックスホールド、ドラゴンスープレックスホールドと決めるが、三沢はカウント2でキックアウト、そしてフェースロックで捕らえてから胴絞めスリーパーへ移行するが、三沢はロープエスケープする。
川田はステップキックに対し、三沢はエルボーの連打で返してスピンキックは川田はキャッチすると、三沢は川田の顔面めがけてジャンピングキックを炸裂させ、後頭部へランニングエルボー、タイガードライバー、そしてタイガースープレックスホールドを決め、カウント2でキックアウトする川田は下からのキック、アリキックで抵抗するが、三沢はランニングエルボーからタイガースープレックスホールドを決め3カウントを奪い王座を防衛した。

この日のセミファイナルでは鶴田が全日本プロレス旗揚げ20周年記念試合としてアンドレ・ザ・ジャイアント、ゴーディと組んで馬場&ハンセン&ドリー・ファンク・ジュニア組と対戦、試合はスピニングトーホールドを仕掛けてきたドリーを鶴田が丸め込んで3カウントを奪い勝利を収めたが、最前線に立つのはこれが最後で、シリーズ終了後に三沢だけでなく川田、小橋、田上の4人を馬場が呼び出し、鶴田が長期欠場することを明かすと「これからはお前達が全日本プロレスを支えて欲しい」と告げ、こうして全日本プロレスは三沢と中心とした四天王プロレス時代へと突入していった。

1992年の世界最強タッグ決定リーグ戦が開幕すると、三沢&川田が念願の初優勝を果たすが、三沢と川田は目標を達したことで二人は別々の道を模索し始め、1993年1月30日の千葉大会でゴーディ&ウイリアムス組に敗れ世界タッグ王座を明け渡すと、「チャンピオンカーニバル」が終わった後で川田は超世代軍を離脱して三沢とのタッグを解消する。

川田はパートナー不在となった田上と組んで聖鬼軍を結成、再び三沢と向かい合う立場となり、二人は三冠戦だけでなくチャンピオンカーニバルの公式戦でも、二人は対戦すれば破壊的な攻撃の応酬を繰り広げ、1993年の三冠戦では投げ放しジャーマン3連発するが、ただの投げ放しジャーマンでなく空中に飛んで行って首からグシャっと落ちる投げ方で投げ、1995年のチャンピオンカーニバル公式戦では川田のジャンピングハイキックを食らった三沢は左眼窩を骨折、1994年6月3日の三冠戦では三沢が長らく使用していなかったタイガードライバー91を使用、97年の三冠戦では三沢が場外でのタイガードライバーを敢行するなど、2人の戦いは死闘の連続だったが、先輩後輩、いや兄弟のような関係だからこそ互いの感情をぶつけ合っていた。

死闘を繰り広げても川田は三沢という厚い壁をなかなか破ることが出来なかったが、1995年6月9日の日本武道館大会でタッグながらも川田は三沢から初フォールを奪い、1997年4月19日のチャンピオンカーニバル優勝決定戦では小橋を交えた巴戦で優勝を争うことになり、小橋と30分フルタイムドローをやり終えたばかりの三沢に川田がパワーボムで3カウントを奪い、巴戦ながらもシングル初勝利を収める。

三沢と川田の差は肉薄し、1998年5月1日、全日本プロレス初の東京ドーム大会で川田は三沢の保持する三冠王座に挑戦し、川田がパワーボムで3カウント奪ったことで念願だった三沢越えを達成するが、三沢もチャンピオンカーニバル中に左足膝蓋骨を骨折するなど満足なコンディションで臨んでおらず、立っているだけでもやっとの状態で、また長年にわたるのダメージが蓄積され始めていたことから、これまでのような死闘を繰り広げるのが難しくなっていた。

それは川田も同じだった。三沢が体のオーバーホールのため欠場となり、川田時代到来かと思われたが、初防衛戦で小橋に敗れ王座から転落、試合後に小橋が「新時代宣言」を宣言したことで、川田の時代は短いものに終わってしまった。1999年1月22日の大阪では三冠王者に返り咲いた三沢に川田が挑んだが、川田が裏拳を放った際に右腕を骨折、それでも川田が三沢を垂直落下式パワーボムで叩きつけてから垂直落下式ブレーンバスターで3カウントを奪い王座に返り咲くも、試合後に病院へ搬送されて次期シリーズは欠場し、せっかく奪取した三冠王座は返上、三沢も川田も自身の身体が限界であることがわかりながらも、これまで以上の戦いをしようとした結果が川田の負傷になって出てしまった。それを考えると川田の三沢越えは遅すぎたものだったのかもしれない。

そしてジャイアント馬場が死去すると、三沢が社長、川田が副社長とする新体制が発足するが、全日本プロレスを自分のやり方に変えたいと考える三沢と、オーナーである馬場の未亡人である元子夫人との対立が生じると、川田は”元子さんを立てるべきだ”と元子夫人側に立ったことで、リングの中だけでなく政治でも敵対関係になってしまう。川田が聖鬼軍になってからは二人は馴れ合うことはなく距離を取っていたが、互いに立場が出来たことで二人の間に亀裂が生じてしまった。

2000年になると三沢は所属選手、スタッフをと共に全日本プロレスを離脱してNOAH旗揚げへと動いたが、川田は三沢に追随せず全日本プロレスに残り、三沢も川田を誘おうとしなかった。こうして三沢と川田の物語はこうして終わりかと思われていた。

ところが2005年4月24日のNOAH日本武道館大会に川田が現われ、「7月18日、その日は空けておきます」とNOAH東京ドーム大会に参戦を表明、この頃の川田は”無所属”と実質上フリーなって全日本プロレスだけでなくハッスルや、新日本プロレスにも参戦するようになっていた。
ドーム大会のメインで三沢vs川田が5年ぶりに実現し、三沢はランニングエルボーで3カウント奪い勝利を収めたが、試合後に「三沢さん、あえて握手はしません。ずるい話かもしれないけど、今日打つはずだった終止符が打てなくなりました。三沢光晴はいつまでも、オレの1つ上の先輩の力を持っていてください」とNOAHに継続参戦、三沢との再戦を訴えたことで、三沢だけでなく渉外担当の仲田龍氏が怒り、仲田氏が「川田をNOAHのマットに二度と上げることはない」と断言する。
なぜ三沢だけでなく仲田氏は川田を拒絶したのか、この試合が実現するにあたり、三沢が川田が全日本プロレスを離れた門出として川田との試合を実現させ、ファイトマネーでフリーとなった川田を援助しようと考えたからだったが、三沢が川田に対して出した条件は「この1回だけだ」だった。三沢自身もこれまでのダメージが蓄積されていただけでなく、レスラーとしてもピークが過ぎており、社長業も重なってますます満足なコンディション作りが難しくなっていたことから、東京ドームで川田との試合を最後にしようと考えて条件を出した。しかし、川田が再戦を望んだことで、三沢は約束破りと判断し、仲田氏もリングアナとして三沢vs川田を長年に渡って見ていたこともあって、三沢の意志を尊重して川田戦は封印を決意、二人の対決はこれで最後になった。

2009年6月13日に三沢は死去、それを受けて川田は三沢の追悼大会に参戦し、それ以降も川田は合間を縫ってNOAHへ参戦し続けたが、2010年に入ると川田は居酒屋経営に専念することになって長期休業に入りセミリタイア状態となった。セミリタイアした理由は川田も三沢との激闘の影響もあって満足なコンディション試合に臨めなくなっており、年齢的なタイミングもあったが、プロレスラーであり続ける為の最大のモチベーションである三沢さんがいなくなった事が一番の要因だった。

三沢、川田、小橋、田上の四天王は三沢が中心で3人は三沢を越えるために挑んできたが、川田にとって三沢は憧れの存在でそれは小橋以上なものだったのではないだろうか、だからこそ自分の感情を込めて挑んでいったのではないだろうか…

(参考資料=小佐野景浩著=「至高の三冠王者 三沢光晴」

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