世界王者のまま引退!AWAの帝王バーン・ガニア理想の引退像


1981年5月10日、AWAの本拠地ミネアポリスセントポールでAWA世界ヘビー級王者でありAWAの帝王、バーン・ガニアがニック・ボックウインクルの挑戦を受けたが、この日はガニアのデビュー記念日であり、またガニア自身の引退試合でもあった。

ガニアはミネソタ州 コーコランの生まれで学生時代はレスリングとアメリカンフットボールで活躍、大学へ進学すると本格的にレスリングを始め、フリースタイルでロンドンオリンピックの代表になった。1949年にミネアポリスのプロモーターのスカウトを受けてプロレスデビューし、スリーパーホールドを必殺技にして活躍、1950年にはNWA世界ジュニアヘビー級王者を奪取、1960年からはミネアポリスのプロモーターにもなり、レスラー兼プロモーターとしても活躍するようになったが、NWA世界ヘビー級王座への挑戦はなかなか巡ってこなかった。

当時のNWA世界ヘビー級王者はパット・オコーナーだったが、NWAはなぜかガニアを敬遠してミネアポリスにブッキングしようとしなかった。ガニアもNWA会長だったサム・マソニックに抗議するも、マソニックは受け付けなかったため、ガニアはミネソタ地区のプロモーター達と共にNWAを脱退、新団体AWAを設立して初代王者にNWA王者だったオコーナーを勝手に認定し、ガニアとの防衛戦を指定する。オコーナーは正式な試合のオファーがないことからガニアとの試合を断ると、AWAはオコーナーから王座を剥奪してガニアを新王者になった。これは全てガニアの書いた筋書きだったが、こうしてAWAは正式に発足した。

AWAは王者ガニアをエースとしてNWAの独占支配を切り崩して勢力を拡大、自ら世界選手権をかけて戦うことによって「AWAの帝王」というニックネームを不動のものにしていき、日本にも1970年に業務提携を結んだ国際プロレスに初来日、AWA王座をかけてストロング小林やグレート草津の挑戦を受け、また国際プロレスに参戦していたビル・ロビンソンや後にアンドレ・ザ・ジャイアントとなるモンスター・ロシモフのアメリカ進出の足掛かりを作り、1975年に国際プロレスとの業務提携が終わると、1976年にはPWF会長だったロード・ブレアースと親しい関係だったこともあって提携先を全日本プロレスに乗り換え、AWAから選手を送り込むだけでなく、ガニア自身も全日本プロレスに参戦して、ジャンボ鶴田試練の10番勝負の第1戦の相手を務めた。

AWA王座もジン・キニスキー、ミスターM(ビル・ミラー)、クラッシャー・リソワスキーに2度、フリッツ・フォン・エリック、マッドドッグ・バションに2度、ドクターX(ザ・デストロイヤー)、ニックに敗れ明け渡したものの、その度返り咲いて10度戴冠、AWAもプロレスラー養成所「ガニア・キャンプ」を開設して後進を始動、オリンピックに出場したアスリートをスカウトしてデビューさせ、またNWAとも共存共栄を図り、NWAの傘下となっていたWWF(WWE)とも提携して親密な関係を築くなど、組織を盤石なものにしていった。

10度目の戴冠を果たしたガニアは防衛戦のスケジュールも自分の気が向いた時にやるという具合でセーブし始めていた。ガニアも気が付けば54歳となっており、レスラーとしては余力は残していたものの、昔のように60分フルタイム戦い抜ける体力はもうなかった。1981年1月に全日本プロレスに来日してジャイアント馬場のPWFヘビー級王座をかけてのダブルタイトル戦を行った後で帰国すると、前王者のニックが「私の挑戦から逃げているガニアは王者の資格はない、挑戦を受けなければ王座を剥奪すべきだ」と挑発する.。ガニアは「5月10日、セントポールのシビックセンターで挑戦を受ける。5月10日は私のデビュー記念日であり、ニックに完全勝利して、世界王者のまま引退する」と発言し挑戦を受諾した。

そして5月10日、ニックの挑戦を受けたガニアは、ニックの掟破りのスリーパーホールドで苦しめられるも、コーナーに激突させて逃れたガニアはバックドロップで3カウントを奪い王座を防衛、ガニアの希望通りに王者のまま引退し返上となった。

ガニア引退後のAWA王座はガニアの意向で王座決定トーナメントを開催して新王者が決められるはずが、ベルトはAWA会長だったスタンレー・ブラックバーンの判断でニックに渡され新王者となったことで、ガニアは不満を露わにするも、ニックに挑戦する気は全くなく、秋には1試合限定という形でリングに復帰、その後もプロモーター業の合間を縫って試合をするなどスポット的にAWAに参戦、ガニアの復帰には地元のミネアポリスのファンも批判の声はなく、歓迎するなど、AWA内でのガニアの存在を誇示し続けた。

後年テリー・ファンク、大仁田厚が引退や復帰を繰り返すことになるが、前例を作り上げたのはガニアで、テリーもガニアが成功しているから、自分も成功するのではと思っていたのかもしれない。

引退してもガニアはスポット的に参戦してリングに上がり、帝王として存在を誇示することでAWAの全盛はこれからも続くと思われていたが崩壊は突然訪れた。1983年12月、クリスマスのビックマッチで王者のニックにハルク・ホーガンが挑戦するはずだったが、ホーガンは突然キャンセルしWWFへ引き抜かれる事態が起きてしまう。当時のホーガンはAWAと新日本プロレスを主戦場にしており絶対的ベビーフェースとして活躍、またシルベスター・スタローン主演の映画「ロッキー3」に出演して全米的に知名度を上げていたが、ガニアは自身もレスリングエリートであることからレスリングの基礎がしっかりしたレスラーを重用する傾向が強く、ホーガンのような筋肉のあるパワーファイターを軽視しており、なかなか王者に着かせようとしなかった。そのホーガンをビンス・マクマホン・シニアの後を受けてWWFを引き継いだビンス・マクマホンが着目し、新日本プロレスに参戦しているホーガンを日本まで追いかけて口説き、引き抜きに成功していた。

ガニアは提携をしていたWWFの裏切り行為に怒るが、ビンスはAWAから選手やスタッフを引き抜くだけでなく、AWAのエリアにも侵攻を始めたことで、AWAは一気に弱体化し、ガニアもスポット的にリングに上がって凋落に歯止めをかけようとしたものの、WWFの勢いは止めることが出来ず、60歳となった1986年までリングに上がっていたが、1991年にAWAは崩壊、ガニア自身も自己破産し、権利関係全てWWEに売却した。

AWAが崩壊して以降、ガニアは表舞台に立つことはなかったが、2006年のWWE殿堂に迎えられ、久しぶりに公の舞台に立ったが、殿堂入り式典が終わるとまた表舞台に立つことがなかった、そのガニアが突然公の場に立ったのは2009年1月26日、認知症を患ったガニアは高齢者の介護施設に入居していたが、同じ施設の住人である97歳と口論となった際に投げて負傷させ死亡させる事件を起こしていた。ガニアは認知症のため相手に害する意図に必要な精神的能力が不足していたと判断され、ガニアは殺人罪には問われず、刑事告訴されるはなかったが、忘れゆく記憶の中で、レスラーとしての本能だけはしっかり残っていたのかもしれない。

ガニアは事件以降は施設を出て娘夫婦の介護を受けながら余生を過ごしていたが、2015年4月27日に死去、87年に渡る生涯に幕を閉じた。

(参考資料 ベースボールマガジン社 日本プロレス事件史Vol.15『引退の余波』)

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