アントニオ猪木


元プロレスラーで新日本プロレスの創始者であるアントニオ猪木、本名=猪木寛至さんが死去した。享年79歳、猪木は8月28日の日本テレビ「24時間テレビ 愛は地球を救う」に出演したのが最後の姿だったが、出演直前で容態が悪化、万が一のためにストレッチャーまで用意されていたが、本人は出演を希望してステージに立っていた。

昨日9月30日はデビュー記念日で馬場正平ことジャイアント馬場と共にデビューを果たし、力道山のしごきに耐えながらも付き人を務めた。1964年に力道山死去後にアメリカ武者修行へ出発、帰国直前のハワイで豊登に誘われ1966年に東京プロレスを旗揚げしたが、経営不振と内部分裂で崩壊してしまい、猪木は日本プロレスへ復帰、既に日本プロレスのエースとなっていた馬場と共にBI砲を結成、日本プロレスで一時代を築いた。

1971年に猪木は念願だったシングルのタイトルUNヘビー級王座、女優である倍賞美津子と結婚で順風満帆に見えたが、日本プロレスのクーデター事件で日本プロレスを追われた猪木は新日本プロレスを旗揚げ、旗揚げ当初はバックアップしてくれるテレビ局もなかったことで大苦戦を強いられたが、2年目で坂口征二が合流したことでNET(テレビ朝日)が中継を開始、新日本プロレスは大躍進を始め、猪木はNWFヘビー級王座を奪取、タイガー・ジェット・シン、アンドレ・ザ・ジャイアント、スタン・ハンセンと激闘を繰り広げ、また異種格闘技にも挑戦し、ウイリアム・ルスカやモハメド・アリ、ウイリー・ウイリアムスとも対戦した。

1980年に世界最強を決めるIWGP構想をスタートさせるも、1982年から糖尿病からくる体調不良に見舞われ、1983年のIWGP優勝決定戦ではハルク・ホーガンにKO負けを喫し、レスラーとしてはピークが過ぎてしまったがメインイベンターとしてリングに立ち続け、1987年には倍賞美津子さんと離婚、また巌流島でマサ斉藤と対戦し激闘を繰り広げた。

1990年代に入ると猪木は参議院議員選挙に出馬して当選をしたことを契機に一線を退き、議員時代にはイラクとの湾岸戦争で日本人人質解放に尽力するなど活躍したが、自身の金銭スキャンダルが原因となって1995年の選挙では落選した。

落選後の猪木はUFOを立ち上げるなどして新日本プロレスに関わり、1998年には現役を引退すると、格闘技プロレスを推進する猪木と純プロレス路線を継続を望む新日本プロレスとズレが生じ、新日本プロレスの路線や経営に干渉、経営悪化の一因を作ってしまい、猪木はユークスに新日本プロレスを売却、しかし売却後も新日本プロレスに干渉をし続けたため、猪木と新日本プロレスの関係が悪化、猪木はIGFを設立するために新日本プロレスを飛び出していった。

IGFでも猪木は格闘プロレス路線を推進させつつ、2013年に参議院選挙に再出馬して当選したことでIGとの距離が生まれてしまい、金銭問題でトラブルになったことがきっかけとなってIGFとも決別した(のちに和解)。2019年に政界を引退すると心アミロイドーシの難病に患っていたことを公表して闘病生活を送っていた。近年は引退する獣神サンダーライガーにビデオメッセージを送り、オカダ・カズチカとの対談が実現するなど、疎遠だった新日本プロレスとの距離が縮まり、オカダからも来場を呼び掛けられていた。

自分も猪木と新日本プロレスが和解してほしい一人だった、結局それも果たせぬまま猪木はなくなってしまった。最後に新日本プロレスや選手たちに、猪木の遺した財産である新日本プロレスの看板を守り通してくれたことを褒めてほしかった。

燃える闘魂 アントニオ猪木よ永遠あれ!

ご冥福をお祈りいたします

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