全日本プロレス 旗揚げ前夜②悪戦苦闘する外国人ルート確保…ファンク一家、サンマルチノが全面協力!


日本プロレスを去ったジャイアント馬場は日本テレビの原章氏と共に行動を開始、プロレス中継のプロデューサーだった原章と共に行動を開始、原氏を連れていったのは馬場には強力なバックアップがいることをアピールするためだった。アメリカへ飛んで日本プロレスの外国人ブッカーであるミスター・モトと会談して協力を求める。モトも日本プロレスとの関係も継続しながらも全日本プロレスにも選手を送り込むことを約束、モトにとっても日本テレビをバックにつけた馬場と日本プロレス双方からブッキング料を貰えることから大きなビジネスになるチャンスだったのだが、日本プロレスからの圧力がかかったため、モトは協力を断念する。

モトは馬場に全面協力できない代わりにフレッド・ブラッシーとザ・デストロイヤーの連絡先を馬場に教えた。ブラッシーとデストロイヤーはモトがブッカーを務めていたロスアンゼルスを主戦場にしていたが、契約が切れるとブラッシーはハワイ、デストロイヤーはAWAへと転戦していた。馬場は直ちに二人に連絡を取り、ブラッシーは旗揚げ戦に参加することになり、デストロイヤーはAWAのスケジュールで旗揚げ戦には参戦出来ないが、年内には全日本プロレスに参戦することを約束してくれた。ブラッシーは年齢的にも53歳とレスラーとしてはピークを過ぎていたが、力道山と対戦した知名度はあり、デストロイヤーも日本では馴染み深いことから、全日本プロレスにとっても二人の獲得は大きかった。

またフロリダでブッカーを務めていたデューク・ケオムカも、フロリダマットも日本プロレスと提携していたため表立って協力できなかったが、馬場に情報を提供するなど裏から協力した。馬場はケオムカを通じてテキサス州ダラスをプロモートしているフリッツ・フォン・エリックとも交渉したが、日本プロレスはグレート小鹿を動かしてエリックにストップをかけたため断念し、オーストラリアをプロモートしていたジム・バーネットだけでなく各エリアとも交渉したが日本プロレスの圧力がかかっていたため、快い返事はもらえなかった。各エリアのプロモーター達も、いくら日本テレビという大きなバックを着けていたとしても馬場の新団体が成功するかどうかわからないことから、様子を見ざる得なかったのかもしれない。

外国人ルート確保が手詰まり気味になった馬場にアメリカへ遠征していたマシオ駒と大熊元司から連絡が入る。当時の駒と大熊はNWA世界ヘビー級王者だったドリー・ファンク・ジュニアの主戦場にしているテキサス州アマリロに遠征しており、アマリロはジュニアの父であるドリー・ファンク・シニアがプロモートしていた。二人から「シニアが会いたい」と伝えると、馬場と原氏はすぐアマリロへ飛び、話し合いの末シニアは馬場に全面協力を約束し、旗揚げ戦にはNWA王者だったドリーは参戦出来ないものの、まだ現役としても試合をしていたシニア自身とドリーの弟であるテリー・ファンク、ファンク一家の大番頭であるジェリー・コザックの参戦が決まった。シニアはドリーがNWA王者だったこともあって、NWA内でも発言力が強い実力者でもあることからアマリロマットとの提携は旗揚げ戦を控える全日本プロレスにとっても大きなプラスとなった。馬場はシニアの恩義を馬場は長く忘れず、社長室の机にはシニアの写真が置いてあったという。また駒と大熊も馬場に追随することを決意して全日本プロレスの旗揚げに参加することになった。

次に馬場はニューヨーク州ピッツバークへ向かい、ライバルであり親友であるブルーノ・サンマルチノと会談、サンマルチノも全面協力を約束し、サンマルチノのパートナーであるドミニク・デヌーチ共に旗揚げ戦に参戦することになった。サンマルチノはこの時はWWWFヘビー級王座から転落してからフリーとなってピッツバーク地区をプロモートしつつNWAエリアに遠征するなど精力的に活動していた。

そしてカナダのバンクーバーを拠点にしているジン・キニスキーからは、キニスキー自身は参戦出来ないものの、キニスキーの片腕と言われたダッチ・サページの参戦が決まり、外国人ルートを確保に成功する。

ただ、肝心の日本人選手に関しては、馬場が日本プロレスを去る際には誰も誘わなかったこともあって、全日本プロレスに参加するレスラーはマシオ駒、大熊元司、サムソン・クツワダ、佐藤昭雄と馬場の付き人を務めてきたいわゆる馬場一派だけで選手層が薄く、1970年に引退していた藤井誠之にも声をかけて復帰させたが、それでも日本人選手の駒不足は解消されなかった。そこで馬場は国際プロレスと提携を結び、トップの一角だったサンダー杉山を円満移籍で譲り受けることになった。

杉山はビル・ロビンソンをリングアウトながらも破りIWA世界ヘビー級王者となっていたが、この頃になると事業に専念するために国際プロレスにはスポット参戦扱いとなって、団体にとっても不要な存在になっていた。またマイティ井上など国際プロレスの選手も毎シリーズごと借り受けることになり、日本人の選手層の薄さをカバーすることが出来た。

旗揚げ戦へ向けて陣容を揃えたが、馬場に新たなる難題が待ち受けていた。

(参考資料 辰巳出版 GスピリッツVol.25 『特集・全日本プロレス』日本スポーツ出版社 竹内宏介著「棒業は最大の攻撃なり!!」)

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