日米を席巻したnWo①アメリカマットを揺るがせた一大ムーブメントが始まった。


1996年7月7日、WCWのPPVイベント「バッシュ・アット・ザ・ビーチ」でWCW正規軍のスティング、レックス・ルガー、ランディ・サベージvsケビン・ナッシュ、スコット・ホールのジ・アウトサイダーズとXの試合が行われ、アウトサイダーズがXが現われないまま開始となり、試合が混戦となる中で、絶対的ベビーフェースだったハルク・ホーガンが現われる。

ホーガンはリングインするなり味方であるはずのサベージにレッグドロップを連発、ナッシュとホールとハイタッチを交わすと、レフェリーを追い出した後で、KOされたサベージでダメ押し、試合は無効試合となり、館内はホーガンの突然のヒールターンに激怒して物を投げつけるが、ホーガンは構わずマイクを持って「これがニュー・ワールド・オーダー(新世界の秩序)だ。お前たち観客に媚びるのは止めた。お前たちはゴミだ!」とアピール、こうしてニュー・ワールド・オーダーことnWoが誕生した。

1984年にビンス・マクマホンのWWF(WWE)がNWA、AWAの各エリアに侵攻を開始したことで、これまで共存共栄だったテリトリー制が崩壊、NWAの各エリアだけでなく、凌駕を誇っていたAWAまでもWWFが飲み込んでいき、WWFに対抗するのはノースカロライナ州のジム・クロケット・ジュニアだけとなったが、クロケットでもWWFには太刀打ちできず、テレビ王のテッド・ターナーにプロモーションを売却、こうしてWCWが誕生し、1990年に入るとアメリカマット界はWWF(WWE)、WCWの二極時代となり、両団体は興行戦争を繰り広げるも、ビンスを中心とする組織力の差の前にWCWはWWFの後塵を拝していた。

1994年に入るとエリック・ビショフがWCWの副社長に就任する。ビショフは最初はAWAにフロントとして業界入りし、その後インタビュアーを務めるようになってから現場にも出るようになった。AWAが崩壊するとWWF入りを狙ったが採用されず、WCWにはリングアナウンサーとして入り、その後はプロモーター、ブッカーを経てWCWの副社長となった。WCWのオーナーであるテッド・ターナーとの面談で「WWFに勝つにはどうすればいいのか」と聞かれると、ビショフは「WWFからの選手を引き抜くこと」と進言し、ターナーの潤沢な資金を武器に、ホーガンやサベージなどWWFで活躍してきたトップを引き抜きに成功する。ホーガンは1984年から始まるWWF全米侵攻の立役者で、リアルアメリカンとして絶対的ベビーフェースとして君臨していたが、年が経つにつれてビンスとの関係は冷え切ってしまい、1993年をもって俳優への本格転向を理由にWWFとの契約が切れて退団、フリーランスとなっていた。

WCWはホーガンだけでなくサベージやロディ・ハイパーなど引き抜いていったが、この頃のWWEはブレット・ハート、ショーン・マイケルズ、ジ・アンダーテイカーなど次世代の時代となっており、既にホーガンは過去の存在で飽きられていたこともあって、WCWにとっては大きなテコ入れにはならなかった。

そこでターナーにWCWが経営的に芳しくないことを知らされると、ビショフと再び会談する。ターナーは「どうすればWCWはマクマホンのWWFに対抗できるか」をビショフに尋ねると、ビショフは「平日夜のゴールデンタイムでWWFの看板番組のマンデー・ナイト・ロウにぶつけるのが唯一のやりかただ」と意見をした。ビショフにしてみればダメ元で言ったにすぎず、意見が通るわけがないと思っていたが、1995年からは月曜のWWFの中継番組である「Monday Night RAW」の裏番組の枠が用意され、こうして『WCWマンデー・ナイトロ』をスタート、WWFに対して宣戦布告し、以降は長年に渡って視聴率戦争を繰り広げる”マンデー・ナイト・ウォーズ”を勃発させ、両団体は熾烈な視聴率戦争をという仁義なき戦いを長年に渡って繰り広げることになった

そこでビショフはWWFからWWF王者だったディーゼルことケビン・ナッシュ、レザー・ラモンとして人気を博していたスコット・ホールの引き抜きに成功する。ホールは1987年に新日本プロレスに初来日し「第5回IWGP」にエントリーしたが、6月12日に行われた最終戦で長州力が世代闘争を宣言、11月19日の前田日明の長州への顔面蹴撃事件など目撃することでプロレスにおけるリアルやスキャンダルリズムを本格的に学び、ディック・マードックからもレクチャーを受けることでプロレスというものを学んでいたことから、そういった意味ではホールは新日本プロレスで育ったレスラーだった。1991年にWCWでダイヤモンド・スタッドと名乗ってWCWに参戦するが、タイトル戦に絡むことのないままWCWを離脱してWWFに移り、レザー・ラモンをリングネームに改めると、リック・マーテルを降してインターコンチネンタル王座を奪取、ショーン・マイケルズとラダーマッチで名勝負を繰り広げるなど、大ブレイクを果たした。

一方のナッシュはWCWからプロレスのキャリアが始まるも、リングネームを何度も改めるなどキャラが一定せず、オズの魔法使いの魔法使いのキャラであるグレート・OZとなって新日本プロレスに初来日を果たすが、これも結局長続きせず、前座から抜け出せないまま、WCWを退団してWWFへ移り、リングネームをディーゼルに改めると、ラモンとなったホールと対戦してインターコンチネンタル王座を奪取、ボブ・バックランドを破りWWF世界ヘビー級王座を奪取するなどブレイクを果たし、ナッシュとも同じWCWからのブレイク組だったこともあって意気投合し、マイケルズやHHHなどとも組んでWWF内でクリックという一大派閥を築くようになってなって影響力を強めた

しかしナッシュとホールは契約などに関する不満を公然と口にし始めると、WCWは二人に接触して引き抜きに成功する。ビショフは交渉の際に二人から、以前のWCWではチャンスが与えられず解雇され、WCWを見返してやりたいという気持ちを強く持っていることを聞かされると、その話を聞いたビショフはこれをリングに生かそうと考えた。それがすべての始まりとなった。

ナッシュとホールはビショフによってジ・アウトサイダーズと名付けられ、WWFから送り込まれた刺客としてWCWに登場、WWFのトップだったアウトサイダーズのWCW登場は館内のファンだけでなく、スティングなどWCWのトップレスラーらも詰め寄っていったが、WCWに乱入するシーンは長州力を参考にしたという。二人は従来のベビーフェースvsヒールという図式を超え、団体そのものを乗っ取るというリアルさがファンの共感を呼んだことで、WCWで台風の目となった。

そのアウトサイダーズに注目したのはホーガンだった。当時のホーガンはWCWへ移ったものの、当初イメージしていたほどの人気を得られていていないことに焦りを感じていた。そこでホーガンはビショフに連絡を入れと、3人目のアウトサイダーズ入りを志願する。ちょうどビショフは3人目のアウトサイダーズの構想を練っており、当初はスティングを予定していたが、ホーガンと話をしているうちに、ホーガンが新しいインパクトを求めているとわかると、絶対的ベビーフェースだったホーガンがアウトサイダーズ入りすれば大きなインパクトが与えることができると考えて、3人目をスティングからホーガンに変えることにした。

こうしてnWoは誕生したが、nWoは聖書に記されている言葉で、1991年の湾岸戦争時にブッシュ大統領が演説でも使われたように「New World Order」はアメリカ人にとって新しい秩序や世界を作るという意味で一般に知らされた言葉だった。アウトサイダーズの二人を見たビショフは、二人のノンフィクションを見て新しい何かが予感し、nWoの言葉を思い浮かべたという。

チームカラーを黒と白を基調としたnWoはヒールユニットながらも、ホーガンのヒールターンのインパクトもあって大人気を博し、メンバーに係わる試合には必ず乱入して相手をKOしてから黒スプレーでnWoと書く暴挙を働き、眼を付けた選手に対してはメンバーTシャツを渡して勧誘すると、サベージやザ・ジャイアント(ビックショー)、副社長であるビショフまでもnWo入りを果たし、NBAのトップスターであるデニス・ロッドマンまでnWo入りしてプロレスの試合を行うなど、一大ムーブメントを巻き起こし、視聴率戦争でも原動力となってWWFを圧倒した。

そのnWoに日本で注目する人間が一人いた(続く)

(参考資料 福留崇広著イーストプレス「さよならムーンサルトプレス 武藤敬司35年の全記録」、ベースボールマガジン社「日本プロレス事件史Vol.19『軍団抗争』

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