王道vs神様、ジャイアント馬場vsカール・ゴッチが幻に終わった理由


1961年5月に開催された日本プロレスの「第3回ワールドリーグ戦」でドイツ人ながらもベビーフェースとして扱われ好評を得たカール・クラウザーは、今度は1966年7月、カール・ゴッチとして日本プロレスに再来日を果たし、「第3回ワールドリーグ戦」ではミスターX(ビル・ミラー)が外国人エース格だったものの、今回は外国人エース格として来日だった。

1961年の来日以降、アメリカでのゴッチはミラーと一緒にNWA世界ヘビー級王者だったバディ・ロジャース襲撃事件を引き起こしたものの、ドン・レオ・ジョナサンを破りオハイオ版AWA世界ヘビー級王座を奪取、NWA世界ヘビー級王者に返り咲いたルー・テーズに9度挑むなど、シングルプレイヤーとして十分な実績を積んでいた。

シリーズの最終戦は8月12日の台東体育館、日本テレビの生中継も入ることでジャイアント馬場の保持するインターナショナルヘビー級王座にゴッチが挑戦するのではと思われたが、日本プロレスはなぜか馬場vsゴッチのインター選手権を正式決定しようとしなかった。

7月14日に羽田空港に到着したゴッチを待ち構えていたのはヒロ・マツダだったが、日本プロレス側はマツダが来ることを知らされていなかった。ゴッチとマツダはこの時点ではまだ師弟関係であり、ゴッチをブッキングしたのは日本プロレスの外国人ブッカーだったミスター・モトではなくマツダだった。

マツダは7月5日まで開催されていた「ゴールデンシリーズ」までの参戦だったが、実家で骨休みと称して日本での滞在を引き延ばしていた。この頃の日本プロレス内部では営業部長の吉原功と経理担当重役の遠藤幸吉の間で対立が生じており、内部闘争に敗れた吉原氏が日本プロレスを退社、マツダと組んで新団体設立へと密かに動き始めていた。マツダがゴッチに会ったのはトレーニングをつけてもらった礼とされていたが、本当の目的は新団体にゴッチをオファーすることが目的だった。

そして「サマーシリーズ」が開幕し、ゴッチはミツ・ヒライと対戦して手四っつの態勢から相手の股を両腕に差し込んで宙に回転させるパッケージホールドで降すと、社長だった芳の里はマツダとトレーニングした実績を買ってシリーズ前半は日程がスカスカだったこともあって臨時コーチを依頼、山本小鉄や、マティ鈴木、来日中のゴッチの世話をしていた杉山恒治(サンダー杉山)、松岡巌鉄、グレート小鹿など参加したが、この場にはアントニオ猪木はいなかった。この頃の猪木は豊登と一緒に東京プロレス旗揚げに奔走しており、まだゴッチと接点を持っていなかった。

ゴッチは22日には山本小鉄を破り、25日の新潟では6人タッグで馬場と対戦、29日にはゴッチが最も評価していた吉村道明と引き分けるなど馬場戦実現へ向けて猛アピール。そして日本プロレスもやっと最終戦で馬場vsゴッチが行われることが発表されるも、この時点ではインターヘビー王座はまだかけられなかった。

インター王座がかけられない理由は、吉原氏は7月末日をもって日本プロレスに辞表を提出し、マツダはその翌日に日本から離れる。さすがの日本プロレス社長だった芳の里もマツダのゴッチへのアポなしで訪問、吉原氏の辞表提出、マツダが日本から離れたことは全て繋がっていると察知して、マツダの域がかかっているゴッチのインターヘビー王座挑戦を見送ることにしたのだ。

その間にシリーズは進行し、8月5日の一宮でゴッチがタッグの3本勝負ながら回転エビ固めで馬場からフォールを奪い、ゴッチのインター王座挑戦が一気に高まってくる。ところがこの時点でゴッチに異変が起きていた。

8月7日、掛川大会直前にゴッチが体調不良を訴え、外国人係だったジョー樋口がゴッチの額に手をやると高熱を発しており、ゴッチは「足から来た熱だろう」と答えると、ゴッチの右膝が真っ赤に腫れ上がっており、小さな細長い切り傷を中心に変色して化膿していた。

樋口も試合をするのは無理と判断して医師を手配、医師も試合どころの状態ではないということでゴッチに即入院を勧め、ゴッチもエース外国人の立場や馬場戦のチャンス、異国での入院などの不安もあって拒否するも、樋口が必死で入院を説得する。そしてゴッチは「せめて欠場の挨拶をしたい」と妥協案を出したことで、掛川のファンに欠場の挨拶した後入院、緊急手術を受けおびただしい量の膿が切り出され、診断の結果「蜂窩織炎(皮膚の細菌感染症の中では、伝染性膿痂疹、丹毒などと並び比較的頻度の高い病気。 はじめに患部の皮膚に赤み、腫れ、熱感、痛みが出現し、急速に広がる)」と診断され、最悪の場合は右脚の切断することになりかねなかった。ゴッチはその後も入院し15日の台東区大会にも出場できなかったため、こうして馬場vsゴッチは幻に終わった。

仮に馬場vsゴッチが実現していたらどうなっていたか、デビュー時の馬場はガチンコに弱いという認識が強かったが、ガチンコに対応できるようになったのはアメリカへ武者修行してからで、師匠だったフレッド・アトキンスやビル・ミラーからガチンコを叩きこまれており、相手がガチンコ的なものを仕掛けて来たら、対処する”護身用”として使っていたことから、仮に仕掛けられたとしても対処できる術は出来ていた。それを考えると馬場はゴッチの思うような試合をさせなかった、その例が後年実現した馬場vsビル・ロビンソンで、猪木vsロビンソンがキャッチ・アズ・キャッチ・キャンの攻防に終始したように、馬場は一切付き合わず、ロビンソンのペースを狂わせた。

シリーズが終わってもゴッチの入院は続き、基本的に外国人レスラーが日本で入院した場合は、全額外国人レスラーが負担しなかければならなかったが、全費用は日本プロレスが負担し、シリーズを途中欠場したにもかかわらず、ギャラも天引きされなかった。ドイツ人は受けた恩を絶対忘れない民族であることから、ゴッチも日本プロレスに恩義を感じ、翌年から日本プロレスのコーチに就任、コーチ業で手術を含めたかかった全費用を返済したが、結果的にゴッチの国際プロレス参戦を阻んだ…最初からそれが狙いでゴッチの全費用を日本プロレスが負担したのかもしれない。

その後、東京プロレスが活動停止になると猪木が日本プロレスに復帰、コーチとなっていたゴッチと接点を持ったことで二人による師弟関係が生まれる。そしてゴッチの国際プロレス参戦が実現したのは1971年3月で、日本プロレスとの契約を終えたゴッチはハワイへ移りセミリタイアとなっていたが、ゴッチを輩出したビリー・ライレージムの後輩だったロビンソンがハワイへ遠征した際にゴッチと再会、吉原社長に「このまま埋もれさせるにはもったいない」と参戦を進言し、吉原社長はゴッチにオファーをかけ「第3回IWAワールド・シリーズ」に来日が実現したが、マツダは旗揚げ時の金銭トラブルで国際プロレスを去っていた。ゴッチvsロビンソンはリーグ戦で5度実現し時間切れ引き分けに終わるも後年語り継がれる名勝負を繰り広げ、優勝はモンスター・ロシモフ(アンドレ・ザ・ジャイアント)に奪われたものの、ゴッチは健在ぶりを充分にアピールした。

その後ゴッチはフロリダに定着したが、マツダはフロリダの大プロモーターだったエディ・グラハムの片腕的存在となっており、グラハムがゴッチを嫌っていたことから、マツダもゴッチとは疎遠となって師弟関係も破綻した。仮にゴッチの国際プロレス参戦の参戦が実現したとしても、グラハムを巡ってゴッチとマツダの間で亀裂が生じるのは必至なことから、長くは定着出来なかったのではないだろうか…

1982年になると、全日本プロレスからフロリダへ遠征に来たジャンボ鶴田と渕正信がゴッチを訪れ、ゴッチは全日本プロレスに参戦を訴えた。ゴッチは1971年から猪木の新日本プロレスに参加したが、年が経つにつれて新日本プロレスとの関係が悪化し、外国人のブッキングを巡って新間寿氏とトラブルとなっていた。馬場もロビンソンとのタッグで世界最強タッグ決定リーグ戦に参加させることも考えたが、新日本プロレスとの引き抜き防止協定が結ばれたことで実現しなかった。仮にゴッチが全日本プロレスに参戦したら、16年越しに馬場vsゴッチは実現していたのかもしれない。

(参考資料 ベースボールマガジン社「日本プロレス事件史 Vol.21 『英雄、無惨』」)

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