ジャイアント馬場が最も憧れていたレスラー、野生児バディ・ロジャース


5月12~21日まで全日本プロレスの秋山準がWWEのトレーニング施設「パフォーマンスセンター」を訪れ、ゲストコーチとして招かれることになった。

なぜ秋山なのかと思ったが、太陽ケアによると「馬場さんは技やロープワークとかをニューヨークなどで、バディ・ロジャース選手ら一流選手から学び、それを全日本に持ってきた。その全日本の技術をジョニー・エース(ジョン・ロウリネイティスWWE幹部)が持ち帰って教えている」とWWWF初代王者であるバディ・ロジャースの名前を出した。

 和田京平レフェリーは「馬場さんはスポーツとしてのプロレスを見せたかった、殺伐とした試合、ガチガチの試合は嫌いだった、キレイなプロレスをするのが全日本プロレスなんです、倒れて起き上がるにしてもダンスと同じでリズムとステップがあって、それがアメリカンプロレスの基礎であり、全日本の基礎なんですよ」と語ったが、馬場が理想とするプロレスはロジャースを見て学び、全日本の基礎とするものだった。

 ロジャースはNWA世界ヘビー級王者、WWWF初代王者にもなり、アメリカンプロレスにも多大な影響を与え、アメリカ武者修行中のジャイアント馬場も「彼こそアーチストだ」と絶賛するほどだった。

ロジャースは1921年に生まれ、少年時代からレスリングを学び、17歳でデール・ブラザース・サーカスに入団したあとでプロレスデビューを果たした。1945年ごろに頭角を現すと、1946年に金髪の伊達男系ヒールとなって「ネイチュア・ボーイズ(野生児)」の異名を取り、足四の字固めをフィニッシュにしながらも、 ロジャース・ストラートと呼ばれる気取った歩き方や、レフェリーの陰で反則を繰り返す小ずるい動き、ピンチに陥ると「オー・ノー」と許しを乞うなど、ラフを織り交ぜつつ巧みなインサイドワークで、ヒールながらもファンから指示を集めるようになり、全米でも五本の指に入る大物レスラーとなった。

1950年にオハイオ州コロンバスのプロモーターであるアル・ハフトと独占契約を結び、オハイオ州を拠点として各テリトリーに参戦して王座を奪って実績を積み、人気面でも観客動員数No1のレスラーに昇りつめるだけでなく、コロンバスではブッカーとして興行を取り仕切り、1961年5月にシカゴでパット・オコーナーを破り最高峰と言われたNWA世界ヘビー級王者となった。これまでNWA世界ヘビー級戦線は鉄人と言われたルー・テーズの時代だったが、日本遠征を終えたテーズは1957年11月にディック・ハットンに敗れ王座から転落、しかし実力がありながらも地味なハットンでは客が呼べなかったことから、NWAの会員から集客力のあるロジャースにベルトを巻かせるべきだという声が多くなり、1959年にはパット・オコーナーが新王者となったが、それでもNWA会員からのロジャース待望論の声は治まることはなく、その声の屈する形でロジャースが王者となった。

 ロジャースは足四の字固めだけでなく、パイルドライバー、アトミックドロップ、空中胴締め落とし駆使するだけでなく、時には反則裁定では王座は移動しないというルールも利用して防衛を続け、ターティチャンプともいわれたが、(馬場)「 彼はね、バスで移動しているときは、他のレスラーがグーグー寝ていても、一人だけじっと考え込んでいた。『今日の試合はどうしようか? あいつと当たったらここを攻めよう。こいつの場合はこうしよう』といつも考えていた。暇があったら次の試合のことを考える。何も考えていない人間と、毎日考えている人間では、当然差が出るよな」、(キラー・コワルスキー)「相手がどんなに下手くそな新人でも、マジシャンのように長所を引き出して、最後は観客が満足するグットマッチにする」と評価され、馬場もロジャースはアーティストと称え、対戦することでロジャースからプロレスを学んでいった。

しかしロジャースは王者になると我儘な振る舞いが目立つようになった。この頃のNWA会長はテーズを推していたサム・マソニックから、ロジャースを推していたシカゴのプロモーターであるフレッド・コーラーに代わっていたが、ニューヨークのビンス・マクマホン・シニアと共にロジャースを独占すると、シカゴとニューヨークのビックマッチしか出場しなくなったことで、他のテリトリーのプロモーターから顰蹙を買うようになった。

 ロジャースはハフトからのオファーを受けて地元のコロンバスで防衛戦を行うことになった。ロジャースはNWA世界王者となってからはコロンバスでは試合をすることはなくなり、そのせいかコロンバスでのプロレス興行は廃れ始めていたところで、ジョニー・ドイルとジム・バーネット派から興行戦争を仕掛けられた。ハフトは興行戦争を勝つためには地元出身の大スターであるロジャースにNWA王者として凱旋してもらうしかないと考えてオファーをかけた。

しかし、大スターとなったロジャースとハフトの間には亀裂が生じ始めていた。ロジャースはハフトの興行会社の株も取得して経営に介入するようになり、収益の分担を巡って対立していただけでなく、ロジャースをプッシュしていたNWA会長のコーラーとも折り合いが悪かった。またハフトは元々レスラー上がりのプロモーターでシューターとしてならしていたため、ガチガチのシューターを好みとしており、そのためかゴッチとミラーを重宝していたが、見せるプロレスを重視するロジャースとは根本的に考えが合わず、ゴッチとミラーを「客の呼べないデスラー」と評価して冷遇し、ロジャースが凱旋しても対戦相手や取り組みもロジャースが決定権を握っていたことから、ゴッチとミラーは締め出されてしまい、敵対勢力であるドイル&バーネット派に出場せざる得なくなった。

8月31日、馬場との防衛戦を控えるロジャースの控室にゴッチとミラーが現れた。二人が来場したのはハフトの意向で、ハフトが二人に入場券を送って呼び寄せたものだった。ゴッチとミラーは興行から干したことでロジャースに抗議したが、ロジャースは相手にせず、控室から出ようとする。そこでミラーは横っ面にビンタを浴びせると、ゴッチがドアを蹴飛ばし、ロジャースがドアに左腕を挟まれてしまった。これでロジャースは負傷、馬場との防衛戦はドタキャンとなり、ハフトにしてみれば少し懲らしめるぐらいにして欲しかったつもりが、ロジャースを負傷させてしまい、目玉カードを失ったハフトは観客から払い戻しに応じざる得なくなった。ロジャースはただちにゴッチとミラーに対して賠償請求訴訟を起こしたが、おそらくだが二人の黒幕はハフトであることを察知したと思う。ロジャースはコロンバスを引き払ってハフトと絶縁したが、この事件がロジャース自身の凋落の始まりでもあった。

 1962年のNWA総会にロジャースを推していたコーラーが失脚して、サム・マソニックが会長として復権を果たすと、ロジャース降ろしが画策され、ロジャースをNWA王者から引きずり下ろすために、長い王者生活から解放されていたテーズを次期挑戦者として呼び戻したが、ロジャースはコーラーからの命令だったのか理由をつけてテーズの挑戦は避けていた。そこでマソニックがNWAに預けていたボンド金(当時25000ドル=日本円で7200万円)を没収すると通告する。このシステムは王者がボンド金を預ける代わりに、提示されたスケジュールはしっかりこなさなければならないというルールで、テーズからの挑戦を避け続けたことで、マソニックが強権を発動してボンド金システムを盾にして、ロジャースにテーズの挑戦を受けるように迫ったのだ。それでもロジャースは理由をつけてテーズとの防衛戦を避けようとするも、1963年1月4日、カナダのトロントで当初はロジャースは別の挑戦者相手に防衛戦を行う予定だったが、その相手が負傷で欠場することを発表されると、代役としてテーズが登場する。完全に不意打ちを食らったロジャースはテーズに敗れ王座を明け渡した。

その後ハフトはAWA王者としてゴッチをコロンバス地区のエースにしたが、ロジャース事件でコロンバスのファンは離れてしまい、コロンバスのマーケットはますます廃れ、1964年9月にNWA王者だったテーズが遠征しゴッチが挑戦するも敗れ、ゴッチの敗戦を契機にハフトは自身が78歳と高齢になっていたこともあってプロモーターから引退、コロンバスからプロレスの灯が消えたが、この時のAWA王座が実力世界一のベルトとして新日本プロレスに持ち込まれ、アントニオ猪木とベルトをかけて対戦したのは後のことだった。

 ロジャースが不意打ちという形で王座から引きずり降ろされたことを受けて、コーラーとビンス・シニアはテーズの王座奪取は認めないとして抗議するも、他のテリトリーにロジャースを派遣せず、コーラーとビンス・シニアが独占し続けたことで、会長だったマソニックを始め、他のプロモーターも二人の抗議を受け付けず、コーラーとビンス・シニアはNWAから脱退、コーラーはIWA、ビンス・シニアはWWWFを設立するが、コーラーのIWAは初代王者に地元シカゴ出身のムース・ショーラックを据えたものの、観客を呼べず大失敗してしまい、しばらくしてIWAも崩壊する。ビンス・シニアはNWA世界ヘビー級王座から転落しても絶大な人気を誇っていたロジャースを初代王者として据えたが、初代王者となって3ヵ月後の4月の試合後に心臓発作で倒れてしまう。ロジャースは10代後半からデビューしたこともあって、それまでの蓄積されたダメージが心臓疾患という形で現れ始めていた。ロジャースは王者だったこともあって欠場は簡単に許されず、数日欠場するだけで復帰したが、心臓に不安を抱えたこともあって長時間試合することは出来ず、短時間での試合を組み立てることを余儀なくされていった。

 5月17日のマジソンスクエアガーデンでブルーノ・サンマルチノの挑戦を受け、開始から速攻勝負を仕掛けたサンマルチノはカナディアンバックブリーカーを決めて僅か48秒でロジャースからギブアップを奪い王座を奪取、ロジャースも体調は最悪だったこともあってほとんど試合放棄に近い形だった。

 ロジャースはスポット参戦しながらも療養に努め、体調が戻ったところでビンス・シニアにサンマルチノとの再戦を要求し、10月4日のルーズベルトスタジアムでの再戦が決定となったが、再戦間近でロジャースはビンス・シニアと口論となって、そのままWWWFから去っていった。ビンス・シニアはサンマルチノを挑戦者に据えた時点で、ロジャースは過去の存在として見切りをつけていた。

 WWWFを離脱したロジャースは1969年ごろまで現役を続け引退、プロレスとのかかわりを一切絶ってきたが、1979年にフロリダのプロモーターだったエディ・グラハムの要請を受けてカンバック、当時売り出し中だったリック・フレアーと対戦して、フレアーに自身が培ったプロレスを叩きこみ、また武者修行中だった天龍源一郎とも対戦した。

 1982年にビンス・シニアの後を受けたビンス・マクマホンは最も憧れていたということでロジャースをWWF(WWE)に招き、WWF(WWE)に復帰したロジャースはジミー・スヌーカーのマネージャーとなり、トークコーナーのホスト役も担当した。1983年にWWFとの契約を終えたロジャースは悠々自適な余生を過ごしたが、プロレスとは完全に縁を切ったわけでなく、1989年に「カリフラワー・アレイ・クラブ」の会合に参加、折り合いと悪いといわれたテーズとも再会して握手を交わしたが、1992年6月21日、スーパーマーケットで買い物中に床に落ちていたクリームチーズに足を滑らせ、頭部を強打して死去、71年の生涯をあっけない形で終えた。

 その後WWEは1994年にロジャースを殿堂入りさせたが、秋山がWWEに必要とされたのは、ロジャースからプロレスを叩きこまれた馬場の技術を、馬場から直接教えを乞うた秋山からこれからWWEで活躍する選手に教えて欲しいというものなのか?もしそうだったらロジャースのプロレスがまだWWEに残っていることなのかもしれない。

 だだ馬場はゴッチと一緒に加担したとしたミラーからシュート技術を叩きこまれたこともあって、全日本プロレスを旗揚げしてからはミラーを招いていた。馬場にしてみれば”ミラーはビンタをしただけで、決定打を与えたのはゴッチだから”というのもあったと思う。そう考えると一番損したのはゴッチだったということか…
(参考資料 ベースボールマガジン社Vol.29「襲撃・乱入」徳間書店 秋山準「巨星を継ぐもの」)

 

 

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