‟神様”カール・ゴッチ初来日、なぜ密林王を制裁したのか?


1961年5月1日、日本プロレスの春の祭典「第3回ワールドリーグ戦」が開幕した。

(参加選手)
日本代表=力道山、豊登、吉村道明、遠藤幸吉
覆面代表=ミスターX
ドイツ代表=カール・クラウザー
アメリカ代表=ロニー・エチソン、アイク・アーキンス」
カナダ代表=グレート・アントニオ
スペイン代表=ヘラクラス・ロメロ
日系代表=ハロルド坂田、グレート東郷

先に来日していたミスターXを含めた世界各国の代表12選手がエントリー、ドイツ代表としてカール・クラウザーことカール・ゴッチが初来日を果たしたが、注目を浴びたのは密林王ことグレート・アントニオだった。

ゴッチはドイツ・ハンブルク出身とされているが、実際はベルギー・アントワープ出身とはっきりしていない。1948年のロンドンオリンピックではレスリングのドイツ代表として出場、1950年にプロレスラーとしてヨーロッパ各地を転戦、1951年にはイギリスに渡って蛇の穴とされたビリー・ライレージムでランカシャーレスリングを学び、1960年にカナダを経てアメリカへ渡り、以降アメリカに定着するようになった。

一方のアントニオはクロアチア出身で1945年にクロアチアがユーゴスラビアと合併するとカナダへ移住、怪力自慢のストロングマンとしてスポーツ・エンターテイメントのキャリアを開始し、1952年には433トンの列車を19.8メートル引っ張ったとしてギネス世界記録に載るなど怪力自慢で鳴らした。その後はサーカスやカーニバルで怪力のアトラクションに出演するようになるとプロレスにも進出、カナダやニューヨークに転戦、当時の外国人ブッカーだった東郷に目に留まり初来日を果たした。

リーグ戦が直前の4月27日の夜にクラウザーとアントニオは外国人のエース格だったミスターXと共に初来日を果たし、税関をパスして羽田空港ロビーに現れたアントニオはカメラのフラッシュを焚かれると、突如暴れだし報道陣めがけて長椅子を投げつけ、出迎えに来た力道山に突進、これを見た東郷はミスターXと共にアントニオを制止され、翌日28日にアントニオの怪力を披露するためにデモンストレーションが行われ、満員の子供たちを乗せたバス4台が繋がれ、アントニオが先頭のバスに鎖で結んで引っ張ったことでマスコミだけでなくファンにもアントニオの怪力ぶりを大きく印象付けた。

29日には残りの外国人選手も来日、1日の開幕戦ではアントニオは遠藤と公式戦で対戦、ルールは45分3本勝負で行われたが、アントニオは遠藤を一方的に痛めつけ、フライングボディープレスで圧殺して1本を先取も、2本目は遠藤がKOされたため試合放棄となって2-0でアントニオが勝利、それでも暴れるアントニオを東郷の指示で若手たちが鎖をかけて遠藤から引き離していったが、その若手の中にいたのが後のアントニオ猪木となる猪木寛至がいた。クラウザーは吉村道明と対戦して1本目はゴッチが日本で初公開となるジャーマンスープレックスホールドで3カウントを奪い先取、2本目は吉村の得意とする回転エビ固めで3カウントを奪いタイスコアとなり、そのまま時間切れ引き分けとなったが、ゴッチのジャーマンは原爆攻めと紹介され、ファンに大きなインパクトを与えるだけでなく、クリーンなファイトぶりや、まだ昭和30年代は第二次世界大戦の影響も残っており、日本がドイツと同盟国だったこという親近感もあってたちまちクラウザーもベビーフェースとして人気を呼ぶようになった。

アントニオとクラウザー人気もあって「第3回ワールドリーグ戦」は連日超満員となるも、ある日事件が起きた。5月21日の岡山でクラウザーとアントニオがシングルで対戦した際に場外戦でクラウザーがアントニオの顔面にパンチを浴びせて流血に追い込む、試合は両者リングアウトとなったが、事件は試合後にも起き、控室に戻ったアントニオをクラウザーだけでなくミスターX、アーキンスの3人が袋叩きにして制裁する。

なぜアントニオがクラウザーやミスターXから制裁を受けたのか、アントニオはギャラを前金で受け取っていたが、シリーズが連日大入りが続いたことを受けて、盛り上がっているのは自分のおかげだと錯覚して東郷に対して更なるギャラアップを要求していた。しかし、東郷は「決められたギャラは前金として支払っている」として拒否する。だがアントニオは「東郷が(ギャラ)を抜いているんだろ!」と言い出して譲らない。東郷は高いブッキング料をせしめるとして銭ゲバともいわれたが、ブッキング料に似合ったレベルの高い選手をしっかり日本に送り込み、契約通りにギャラは支払っていた。

アントニオは東郷に契約延長とボーナスを要求するなどワガママがひどくなるだけでなく、自分ひとりで観客を集めるような言動を取るようになる。ギャラアップを口にすることは業界の掟に反する。だからこそアントニオをクラウザー達が制裁したのか、この制裁事件がクラウザーをカール・ゴッチとして神格化させる要因の一つとなった。

6月2日の蔵前国技館で力道山がアントニオとインターナショナルヘビー級王座をかけて対戦、試合は3本勝負として行われ、試合もレスリングのキャリアもないアントニオは怪力だけということが露呈されてしまい、2-0で力道山の圧勝、これでアントニオの賞味期限は一気に終わってしまう。

売り物でなくなったアントニオは7日に猪木を含めた若手5人と対戦するが、5人掛りで逆エビ固めを決められてギブアップとなり、9日の高松ではミスターXと対戦したが、ミスターXはこれまでの我慢してきた鬱憤を晴らすかのようにアントニオの顔面にナックルを浴びせ、また頭突きを浴びせるなど徹底的に痛めつけ、取材していた桜井康雄氏も「背筋が寒くなるような試合、というよりか公開リンチだった」と言わしめるほどだった。

アントニオはこの試合を最後に日本を去った、表向きは日本からの追放とされたが、実は契約切れだった。力道山にしてもアントニオはリーグ戦の参加選手ではなく、インターナショナル王座の防衛戦の相手であり、それが終われば用がない、アントニオの制裁は力道山公認でもあったのだ。

リーグ戦は力道山とミスターXが優勝決定戦に進出、6月30日の大阪で優勝決定戦が行われ、ミスターXの頭突きに力道山がフォール負けとなったが、ミスターXの額から凶器が発見されたため一転して力道山が優勝という不透明な形で「第3回ワールドリーグ戦」が幕となるも、7月21日の田園コロシアムで力道山がインター王座をかけて対戦して完勝、試合後に力道山が覆面をはがして正体はゴッチと同様シューターとしてならしていたビル・ミラーだったことを明かした。

クラウザーは話は遡って5月26日の福井で力道山とも対戦して1-1のタイスコアの後で両者リングアウトとなったが、シングルでの対戦はこれ1度だけとなり、7月22日の山梨でクラウザーは吉村と対戦し、クラウザーは吉村にピンフォール負けを喫したが、敗れたのは吉村戦のみで、クラウザーも吉村を「日本にアメリカンスタイルの、あれだけ巧い選手がいたことに驚いた」と評していたことから、力道山よりも吉村を高く評価していたのかもしれない。

契約を終えたクラウザーとミラーはアメリカへ帰国するが、帰国して1年後の8月31日、オハイオ州コロンバスで二人はNWA世界ヘビー級王者だったバディ・ロジャースを控室で襲う事件を起こす。1966年7月にはカール・ゴッチ名義で日本プロレスに来日を果たし、ジャイアント馬場の保持するインターナショナルヘビー級王座への挑戦が決定していたが、蜂窩織炎で入院してしまい挑戦を断念、1968年1月には日本に滞在し猪木を含め若手・中堅を厳しく鍛え、国際プロレスや新日本プロレスにも参戦して「プロレスの神様」の名を恣しいままにした。

アントニオは日本から帰国後はアメリカを転戦したが1971年にプロレスから身を引いて消息を絶っていた。ところが1977年、新日本プロレスに突如現れて、かつて鎖を引いていた若手の一人だった猪木に対戦を要求、12月6日の蔵前国技館で対戦したが、アントニオの傲慢な態度と試合中に失笑が起きたことが原因となったのか、猪木は顔面蹴りの連打を浴びせて血祭りにあげてKO、これを最後に日本に来日することはなく2003年9月、晩年過ごしたカナダ・モントリオールで死去した。地元では愛されていた人物であり、死後に彼を顕彰する壁画やベンチなどが市民により作られていたという。もしアントニオがプロレスの世界に飛び込まなければ穏やかな生涯を過ごしていたのではないだろうか、アントニオの悲劇はプロレスという世界に飛び込んだことなのかもしれない。

(参考資料 GスピリッツVol.46 特集カール・ゴッチ)

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