札幌テロ事件はこうして起き、2月の札幌伝説が生まれた…藤原喜明が弾けた瞬間!


1984年2月3日 新日本プロレス「新春黄金シリーズ」札幌中島体育センター大会でWWFインターナショナルヘビー級選手権が(王者)藤波辰巳vs(挑戦者)長州力行われ、当日は「ワールドプロレスリング」で生中継された。

生中継が開始と共に長州が入場するも、長州が観客にもみくちゃにされているのかと思っていた。実況席から藤原喜明の名前を出しており、何事かと思ったら、維新軍団のアニマル浜口がリングに上がり「なんだ!オラ!何やってんだ!」とマイクで叫ぶと、顔面血だるまにされた長州がリングサイドにやっと現れ、緊急事態に藤波がリングに現れてグロッキーになっている長州に襲い掛かり、ストンピングを浴びせる。そこで解説の桜井康雄氏が藤原が通路で長州を待ち伏せして襲撃したことを明かす。藤原は当日タッグマッチで浜口と対戦しており、血だるまにされて痛めつけられていたことから、その報復として長州を襲ったとされていた。

藤波は長州の額にナックルを浴びせるが、試合を開始する気配はない、維新軍団だけでなく坂口征二や星野勘太郎の正規軍だけでなく、テレビ解説を務めていた審判部長の山本小鉄も駆けつけて、どうにか試合を成立させたい一心で長州に襲い掛かる藤波を制止するも、荒れ狂った長州は味方である維新軍団も殴ってから藤波に襲い掛かり、藤波も谷津を殴るだけでなく小鉄もボディースラムで投げ、怒った小鉄も上着を脱ぎ捨て藤波に襲い掛かろうとするが坂口が止める。浜口が「藤原は藤波に廻し者(ヒットマン)じゃないか」とマイクで叫ぶ中、長州は寺西勇の肩を借りて退場するが、長州も何が怒ったのかわからず錯乱、藤波はWWFインターのベルトを放り投げ、坂口も突き飛ばして退場、試合は行われないままダイナマイト・キッドvsデイビーボーイ・スミスへと入ったため、館内からのファンから金返せコールが巻き起こった。

藤原喜明は1972年11月、23歳で旗揚げしたばかりの新日本プロレスに入門、10日後に藤波相手にデビュー戦を行う、当時の新日本プロレスは主力選手はアントニオ猪木、豊登、山本小鉄だけで選手層が薄い事情もあってのスピードデビューだった。

藤原はカール・ゴッチを師事して関節技を含めたレスリングを学び、1975年には若手の登竜門だった第2回カール・ゴッチ杯に優勝を果たし、以降は若手のコーチ役だけでなく、猪木のスパーリングパートナーにも抜擢され、付き人にもなって海外遠征にも同行、新日本プロレスの道場に道場破りが来ると対応するポリスマンとしても役目を果たしていた。

しかし、カール・ゴッチ杯に優勝したとしても、第1回に優勝した藤波と違って海外修行に出されるわけでなく、セメントで強さを発揮しても華やかさに欠けることでポジションは中堅や前座クラスに留め置かれ、第1回、第2回のMSGシリーズにも出場したが予選落ちに終わり、藤原の試合はテレビでも放送されることはなかった。

そんな藤原がテレビに初登場したのは1982年1月1日の後楽園ホール大会でのゴッチ戦で、試合は藤原が本家ジャーマンスープレックスホールドジャーマンの前に敗れるも、ゴッチの引き立て役を無事果たした。

ゴッチ戦以降は藤原もテレビに出ることもなく、新日本プロレスも初代タイガーマスクの活躍、長州力の台頭もあって、藤原は陽の目に当たらない存在の状態が続いていた。

1983年8月に初代タイガーが突如引退したことを引き金になって、クーデター事件が勃発し、人気絶頂だった新日本プロレスを大いに震撼させる。社長の猪木と副社長だった坂口が降格し、山本小鉄を中心としたトロイカ体制が発足するが、当の藤原は「自分には係わりないこと」とクーデターには我関せずの立場を貫いていた

初代タイガーの引退、クーデター事件で大揺れの中、8月の大宮大会から「ブラディ・ファイトシリーズ」の開幕戦を迎え、猪木は第1回IWGPでハルク・ホーガンにKO負けしたダメージで欠場していた猪木は「ワールドプロレスリング」のゲスト解説のために来場することになっていた。猪木は開始時刻ギリギリで会場すると、藤原はいつも通りに猪木に挨拶したが、『お前もか?』と猪木は突然怒りだし、何にもわからない藤原は「え?」と戸惑うと、そうしたら猪木は『とぼけんじゃねえ』と怒鳴りつけた。猪木はこれからクーデター事件の首謀者である山本小鉄と話し合うことになっており。猪木はクーデター事件の影響で孤立して人間不信に陥っていていたことから、藤原もクーデターの首謀者である山本小鉄と同じクーデター派と見られていたのだ。

会場入りした猪木は山本小鉄と控室で話し合うが、「今日、結論を出さないと、明日からの試合は選手達が出ない」山本小鉄から選手らのボイコットを示唆したことで退陣要求されていた。この件は猪木が後日話し合うということで保留となるも、猪木が周囲から孤立していることを知らされた藤原は、猪木に信じてもらえなかったことに大きく傷ついてしまい、”俺って新日本に必要ないんじゃないか?”と思い悩むようになった。

猪木は8月28日の田園コロシアム大会から復帰し、ラッシャー木村を卍固めで降したが、試合後にマイクを持った猪木が「てめぇらいいか、姑息なマネをするな!片っ端からかかって来い!全部相手してやる!藤波だって、坂口!お前もだ!」と長州ら維新軍団だけでなく、味方である正規軍の坂口や藤波にまで言い放っていったが、今思えば周囲から孤立していた猪木の状況が現われていたものだったのかもしれない。

そんな状況の中で藤原は9月23日のテレビ生中継が入った埼玉・吉川町大会でセミファイナルに抜擢される。藤原も前日まで前座にいた自分がテレビ生中継のセミに起用されたことで戸惑ったが、それでも木村健悟と組んでディック・マードック&エド・レスリーと対戦し、藤原はマードックに敗れたものの、ファンから高評価を受け、次期シリーズである「闘魂シリーズ」からは外国人だけでなく維新軍団との対戦も組まれるようになり、しばらくしてクーデターは失敗し、猪木は社長、坂口は副社長に復権することが出来たが、藤原の憂鬱は晴れたわけではなかった。

話は戻って1989年2月3日 新日本プロレス「新春黄金シリーズ」札幌中島体育センター大会、この大会はクーデター事件の首謀者の一人である大塚直樹氏の「新日本プロレス興業」が主催していた興行だった。大塚氏の「新日本プロレス興行」は新日本プロレスの関連会社で、前年の1983年に起きたクーデター事件に関わったとして大塚氏は新日本を去る決意を固めていたが、社長のアントニオ猪木から「新日本プロレス興行」という会社を譲り受け、新日本プロレスの興行を請け負うことになった。しかし1984年1月14日の設立パーティーには来賓として招かれていたはずの猪木が欠席したことがきっかけになって、大塚氏と猪木の関係に亀裂が生じ、またクーデターの首謀者の一人である大塚氏が新日本プロレスに関わっていることを良く思っていない人間も多かったことから、新日本プロレス本隊と新日本プロレス興業の関係はギクシャクしていた。また新間氏が新団体「UWF」設立に動きおり、シリーズ中には中堅だった剛竜馬が姿を消す事態が起きており、猪木も新間氏から新団体「UWF」に勧誘され移籍の噂さえ取り沙汰されるなど、新日本プロレスの身辺は騒がしい状況となっていた。

大塚氏は坂口副社長に札幌大会で藤波vs長州を組んで欲しいと依頼、この頃の長州は次なる標的は猪木と定めており、藤波戦はひと段落をつけていたが、札幌で組んで欲しいという要望が多かったことで藤波vs長州が組まれることになった。

藤原と長州、二人は決して仲が悪いわけではなく、長州が中堅時代に一緒に酒を飲み、長州の悩みや愚痴を聞くなど関係で、長州は藤原と違ってレスリングエリートとして扱われての新日本プロレスへの入団だったこら、エリートなりに悩みがあることを理解していた。その長州が藤波に噛みついたことで一気にスターダムに伸し上がっていったことで関係が一変し、藤原の中でだんだん長州の存在が面白くないものになっていった。

藤原の暴挙の背景には猪木が関与していると言われているという。猪木も坂口が決めたマッチメークに対して「こうすれば面白くなる」とばかりに選手をけしかけるなどしてカードをいじることが度々あった、藤波vs長州も猪木にしてみれば「何度もやっているカードだしマンネリかな」と感じ、試合を盛り上げるためにアニマル浜口と谷津嘉章ら維新軍団に血祭りにされた藤原をけしかけたとされている。「レスラーに限らず、人生のワンチャンスを掴む掴まないかっていうのは、普段努力しているかどうかなんだよ、努力しているからって、必ず掴めるかわからないけど、努力してないヤツは何十回来たってチャンスは掴めない、またチャンスを掴んだところで、実力がなければすぐボロが出るだろうしね、まあ、オレの場合は、たまたま長州という存在がいて、たまたまそういう機会が巡ってきた、それを掴んだのはオレ自身だけど、長州がいなければ、そのチャンス自体がなかったかもしれない、そういう意味では長州に感謝しないとな」
藤原が後年語っていた通り、猪木に命じたからかもしれない、だが長州のように一気に伸し上がれるチャンスを逃したくない、だから藤原は「下には下がいる!」と言わんばかりに藤波戦を控える長州を襲うという暴挙に出た。

藤原の暴挙は思わぬ形で波紋を呼ぶことになった。藤波vs長州が行われなかったことを受けて観客は激怒し、大会が終わっても納得しないファン数十人が居残り大塚氏らに抗議したのだ。大塚氏と藤原は折り合いが悪く、猪木と藤原が二人だけで話し合ってくる時に大塚氏が割って入ったことで藤原が怒ったことがきっかけになって最悪の関係となっており、大塚氏もクーデター成功したら、華のない藤原を解雇するという話も出ていたという。大塚氏も”猪木が自分と折り合いが悪い藤原を使って藤波vs長州を壊し、新日本プロレス興業の信用を貶めた”と勘ぐり、また藤波も猪木に不信感を抱き、猪木と師弟タッグを組むことを拒否して距離を置く。

札幌テロ事件で藤原は謹慎処分を受けたが、注目の的となった藤原を新日本プロレスを放っておくわけがなく、7日の蔵前国技館大会から復帰し浜口と対戦、浜口相手に一本頭突きを連打するなど大暴れして反則勝ちを収め、また最終戦である9日の大阪府立体育会館大会では猪木と前田明(前田日明)と組んで、長州&浜口&谷津と対戦し奮戦するも、大流血に追い込まれた挙句に維新軍団に袋叩きにされるなど徹底的に痛めつられてしまう。

フィリピン遠征を経て新日本プロレスは「ビックファイトシリーズ」が3月2日の神奈川県綾瀬から開幕するが、今度は前田、ラッシャー木村が失踪する事態が起きてしまう。そんな最中に藤原は長州とシングルで対戦し、セコンドに猪木が付く中で藤原は長州のサソリ固めを封じるなど奮戦、長州は藤原にリキラリアットを炸裂させて場外まで吹きとばすが、レンチを持ち出した藤原が長州を殴打し、維新軍団が駆けつけて袋叩きにされたことで試合は無効試合となるも、前田の失踪というハプニングもあって、藤原は正規軍の鉄砲玉として一角を担うようになり、長州に対する”テロリスト”として存在感を発揮、9日の古河でも藤原は猪木とタッグを組み、長州のサソリ固めに捕まる猪木に藤原が一本足頭突きを浴びせる好アシストを見せた。

長州vs藤原は3月21日、新日本プロレスが初進出した大阪城ホール大会でも組まれ、藤原が開始前から長州めがけてパウダーを投げつけて開始となり、視界を奪われた長州をロープで首を絞め、パイルドライバーで突き刺す。しかし長州はバックドロップで反撃すると、リキラリアットの連発で藤原を降し、試合タイムは4分22秒だったものの、テロリストぶりを大いに発揮する。

「ビックファイトシリーズ第2弾」の最終戦である蔵前国技館大会で行われた新日本プロレス正規軍vs維新軍団の5vs5の勝ち抜き戦では藤原は副将に抜擢され、同じく副将だった浜口と両者リングアウトに持ち込むなど活躍。勝ち抜き戦は猪木が長州を卍固めでレフェリーストップ勝ちを収めて正規軍が勝利を収め、藤原も正規軍の勝利に大きく貢献した。

ところが「第2回IWGP」が終わり、6月29日から「サマーファイトシリーズ」が開幕すると、今度は藤原自身が髙田伸彦(高田延彦)と一緒に新日本プロレスを離脱する事態が起きてしまう。藤原は「ビックファイトシリーズ第2弾」中に、失踪していた前田が参加していた第1次UWFの蔵前国技館大会に新日本プロレスからの鉄砲玉として殴り込み参戦して前田と対戦、試合は両者フェンスアウトの後での延長戦となり両者KOとなるが、前田の理想とするスタイルに藤原が感銘を受け、前田だけでなく浦田昇社長からも熱心に誘われていた。

UWFは猪木の勧誘に失敗しただけでなく、新日本プロレスとの提携を目論んでいた新間氏が退陣したばかりで、新間氏の側近だった浦田昇が社長に就任し、新体制でスタートしようとていた。
さすがの藤原も猪木に前もって相談しておこうと考えて告白したが、猪木の返事は慰留ではなく「え、お前と誰が行くんだ?」だった。正規軍vs維新軍の勝ち抜き戦で軍団抗争はひと段落を着け、「第2回IWGP」が始まると、注目されるのが猪木、藤波、長州だけでなくホーガンやアンドレ・ザ・ジャイアントなど大型外国選手なることから、藤原の再び出番はなくなって日の当たらない場所へと戻ってしまうう、猪木の返事も「オレはもう新日本プロレスに必要とされてない」と受け止めてしまったことで、藤原は自分を必要とされるリングとしてUWFを選んだ。

新日本プロレスにおける藤原はこうして一旦幕を閉じたが、UWFへ移っても存在感を発揮、新日本プロレスとの提携期、第2次UWF、藤原組でも存在感を発揮したのは言うまでもないが、そのきっかけになったのは、間違いなく札幌テロ事件で、新日本プロレスでも2月の札幌は何かが起きるという伝説が生まれた。

(参考資料 ベースボールマガジン社「日本プロレス事件史Vol.29 襲撃・乱入」宝島社「猪木伝説の真相~天才レスラーの生涯~」「証言・長州力『革命戦士』の虚と実」GスピリッツVol,53『特集・山本小鉄と昭和・新日本』新日本プロレスワールド)

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