創立50周年記念…日本のプロレス界に革命を起こしたタイガーマスクはこうして誕生した。


1981年4月23日、「81WWFビックファイトシリーズ」最終戦である蔵前国技館のリングに、ある覆面レスラーが颯爽とトップロープに飛び乗り参上した。名前はタイガーマスク、まだプロレスファンでなかった自分は新聞のテレビ欄にタイガーマスクの名前が出ていることに気づくと、子供心ながら「タイガーマスクって本当にいたんだ」と思った。

タイガーマスクが誕生するきっかけになったのは、テレビ朝日のアニメで「タイガーマスクⅡ世」がスタートさせることを受けて、原作者でありタイガーマスクの生みの親である梶原一騎が”新日本プロレスでタイガーマスクⅡ世を作れないものかな”と「ワールドプロレスリング」を放送しているテレ朝サイドに持ちかけたことが全てのきっかけだった。そこでテレ朝のスポーツ局が乗り気となって新日本プロレスに話が持ち込まれ、新間氏と梶原が話し合った。猪木vsウイリー・ウイリアムスの一件では新日本側と梶原とは険悪になりかけていたが、それがきっかけとなって新日本と梶原は密接な関係になりつつあった。

梶原からタイガーマスクを新日本でデビューさせたいと持ち込まれると、新間氏は乗り気となって話は成立、選手の選考は新日本に一任となるも「出来るのなら、劇画の主人公以上に動いてもらいたい」とリクエストを受けていたが、新間氏の中ではタイガーに相応しい人物は既に浮かび上がっていた。事務所に戻った新間氏は社長のアントニオ猪木に相談、「社長、誰にしますか」と聴くと、猪木も「オマエは誰がいいと思う」と返した。新間氏は紙にある男の名前を書いて伏せると、「じゃあ社長は誰だと思っていますか?」と問うと、猪木は「佐山だよ」と返して、新間氏も伏せていた紙を開いて佐山聡の名前を出した。

 佐山は1975年に入門、佐山は16歳のときに新日本に入門することを直訴したが、新間氏は体が小さいながらも山口県でアマレスのキャリアがあることで興味を抱き「170cm、70キロを超えたら連絡しなさい」とその場は帰すと、佐山は「170cm、70キロを超えました」と連絡を入れ、新間氏は佐山の努力を認めて新日本入門を認めたが、身体が小柄だったことで猪木やコーチ役の山本小鉄は入門には乗り気でなく、猪木からも「何で小っこいのを入れるんだよ」と苦言を呈されたが、新間氏が入門を認めたことで、猪木が仕方なく入門を認めた。猪木や小鉄が入門を認めた理由は若手だった藤波辰巳や木戸修などの若手らが海外武者修行出てしまい、若手不足だったこともあって雑用係が必要だったという事情も絡んでいた。

 猪木や小鉄も雑用をこなしつつ練習を熱心にこなす佐山を認め始め、1976年5月26日に魁勝司(北沢幹之)戦でデビューを果たし、この頃から猪木の付き人を務めるようになった。また内緒でキックなど格闘技の練習をしていたことがわかると、1977年11月14日、日本武道館で開催された「格闘技大戦争」で全米プロ空手ミドル級1位のマーク・コステロと異種格闘技戦で対戦することになり、ルールもボクシンググローブ、寝技なしの不利なルールで、何度もダウンするも、2分6ラウンド戦い抜き判定負けを喫した。

 1978年5月に猪木の提案でメキシコへ武者修行へ出されると、EMLL(CMLL)のリングでNWA世界ミドル級王座を奪取するなど活躍、メキシコ遠征に来た猪木は佐山の活躍を見て、本格的なレスリングを学ばせたいという意向を受けてイギリスへ行くことを指示、フロリダのカール・ゴッチで指導を受けた後でイギリスへ転戦していた。

 1981年に入ってからの佐山はイギリスではサミー・リーのリングネームで大活躍しており、後にブラック・タイガーとなるマーク・ロコと抗争中で、6月18日に世界ヘビーミドル王座決定戦として再びロコと対戦することが決まっていたが、新間氏から連絡が入り「日本で凄い覆面レスラーを誕生させるから、日本に戻ってきてくれ」すぐ帰国するように命じられる。

しかし佐山はロンドンで大スターとなっており帰国する意志がないことから断っていた。諦めきれない新間氏はロンドンで佐山を世話していたウェイン・ブリッジを説得、また佐山にも「1試合だけでいいから、アントニオ猪木の顔を潰さないで欲しい」と説得して、佐山も渋々帰国することを決意。ところがロンドンから出発直前で佐山は税金を払っていないことから出国できない事態が発生、新間氏はただちに猪木と懇意にしていた政治家で元総理大臣の福田赳夫に相談、外務大臣も務めたこともある福田氏のルートで外務省を通じてイギリスの日本大使館が何もかもクリアしたことで、やっと佐山はイギリスから出国できるも、帰国すると佐山はロコとの対戦を優先したいことから「1試合を終えたらイギリスへ戻して欲しい」と約束させた。

 タイガーマスクを唐突に誕生させることから、何もかも準備不足どころか宣伝期間もなく、何もかも行き当たりばったりで準備することになり、タイガー用のマスクも発注し忘れたとして、営業部長だった大塚直樹氏にマスクとマントを大至急作るように命じたが、試合当日には間に合わず、営業は苦し紛れに白いマスクにポスターカラーで色づけした貧相なマスクを完成させ、マントもテレビ局が使っていた使い回しのマントを使用することになった。会場に来てからマスクやマントを見た佐山も「え・・・」と絶句するしかなく、大塚氏も「すまない」と頭を下げるしかなかった。

 タイガーの相手には猪木の提案でヨーロッパスタイルのレスリングが出来るとしてダイナマイト・キッドが抜擢された。タイガーがアニメのように颯爽にトップロープに飛び乗り登場するが、観客は微妙な反応だった。
 開始となるとタイガーはステップからスピンキックで牽制、キッドの足を掴んでキックで足を払うと、足を掴んでくるキッドにスピンキック、リストロックを狙うキッドを華麗な動きで切り返し、キッドのアームホイップも切り返して逆に投げるなど館内を沸かせる。
 リストロックの切り返し合いからキッドが逆水平、スリーパーで反撃すると、首投げに逃れたタイガーは頭部にエルボーを落とし、エルボースマッシュを放つキッドにローリングソバットで応戦、タイガーレッグシザースで捕らえて足を攻める。

 自分のペースにならないことに焦れたはキッドは頭突きを浴びせつつマスクに手をかけるが、タイガーはローリングソバットで反撃、キッドはタイガーの足を関節技で捕らえつつ、再びマスクに手をかけ、逃れたタイガーを担ごうとするが、キッドが滑らせて失敗すると、タイガーはエルボースマッシュからサマーソルトキック、ローリングソバット、ショルダースルーと攻勢をかける。
 キッドは場外戦に持ち込んで反撃し、アバランシュホールドからダイビングヘッドバットで勝負に出るが自爆、そこでタイガーはドロップキックで場外へ落としてからミドルキックの連打を浴びせれば、キッドも延髄斬りで応戦、先にキッドがリングに戻るとロープ越しのブレーンバスターを狙うが、キッドの背後に着地したタイガーはジャーマンスープレックスホールドで3カウントを奪い、デビュー戦を勝利で飾った。

 試合を生で観戦していた梶原と佐山を控室で引き合わせた。そして2日後に梶原から今後、新日本にタイガーを上げるにあたって「本来はウチに全部権利があるんだけど、あんないい選手がだから、権利料7~8割よこせばいい、フィフティフィフティでいい」と折半で使用権利で話し合いがついたが、ところが佐山は「約束どおりロンドンへ帰る」と譲らない、新間氏は泣き落としで説得し、佐山はイギリス側との契約が切れるまで、日本とイギリスを往復することになり、タイガーマスクとしては新日本にはスポット参戦扱いになるも、それでタイガーマスクの価値がvsプロモーターという意味で興行的にプレミア価値が上がり、またTV的にもタイガーマスクが出るとなると視聴率がうなぎのぼりとなった。

 タイガーマスクの誕生は新日本に様々な効果をもたらし、また日本プロレス全体に革命を起こしたが、これは永遠に続くものではなかった。
(参考資料 Gスピリッツ ARCHIVESVol.1 「初代タイガーマスク Vol.16」 「続・蒙虎伝説の最深部を探る」 新日本プロレスワールド タイガーマスクデビュー戦は新日本プロレスワールドにて視聴できます)

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