国際プロレス旗揚げ…アントニオ猪木争奪戦とヒロ・マツダの野望


1966年4月24日、アメリカへ渡っていた吉原功がヒロ・マツダと帰国し新団体「国際プロレス」を旗揚げすることを発表した。

マツダは1957年に日本プロレスへ入門を果たすが、デビュー戦で急遽道場破りにきた空手家を相手にすることになって勝った際に力道山から「なぜ時間をかけて相手にも見せ場を作らせず、客を楽しめることが試合が出来なかったんだ!」と制裁されたことをきっかけとなって力道山に反発、また力道山が相撲部屋の慣習から持ち込んだ上下関係などの不文律や、日本独自の精神論にも疑問を抱いたこともあって、日本プロレスを飛び出してペルー経由でアメリカへ渡り、カール・ゴッチの指導を受けたマツダはたちまち技巧派のベビー・フェースとして売り出され、NWA世界ヘビー級王者だったルー・テーズにも挑戦するなどトップレスラーとなっていったが、このことは日本プロレスを飛び出した男がアメリカでトップを張っていることに沽券にかかわると考えたのか、力道山によって報道管制が敷かれ、報じられることがあっても軽く触れられる程度で報道されるなど、徹底的にマツダの存在を抹殺し続け、マツダは力道山がいる間は日本には帰ってこれない立場だった。

そのマツダが日本で報じられるようになったのは力道山死去後で、1964年にはダニー・ホッジを破ってNWA世界ジュニアヘビー級王者を奪取し日本人初のNWA世界王座奪取という偉業を達成すると、たちまち日本にも大きく報じられた。1965年12月24日に一時帰国すると羽田空港にはマツダの偉業を知ったファンが駆けつけて歓迎され、社長だった豊登と営業部長だった吉原功の出迎えを受けたマツダは「今後は日本プロレス協会の一員として協力していきたい」と握手を交わして日本プロレスに復帰を宣言、また25日の日本プロレスのリキパレス定期戦でもマツダは挨拶に登場、満員となった館内もNWA王者にもなったマツダを拍手で大歓迎した。

日本プロレスは早速マツダに参戦のオファーをかけ、マツダは1966年5月に同じ日系レスラーであるデューク・ケオムカと共に参戦することになるが、この頃には豊登が社長を辞任しアントニオ猪木を引き抜いて東京プロレスの旗揚げへと動いており、猪木がアメリカでマツダとタッグを組んでいたこともあって、豊登がマツダにもオファーをかけていたことから、日本プロレスが先手を打つ形で、外国人ブッカーのミスター・モトとフロリダで活躍している日系レスラーであるケオムカが母親同士が姉妹であることを大いに利用して、マツダに帰国を要請したのだ。マツダが自分の手の合うエディ・グラハムとサム・スティンボードをシリーズに参戦させていたこともあって、マツダ人気が爆発となって連日超満員となり、アジアタッグ王座も奪取することで、インターナショナルヘビー級王者だったジャイアント馬場を押しのけて主役の座を奪い、凱旋シリーズは大成功を収めるが、そのマツダに吉原功が接近するようになった。

マツダにとって吉原は力道山道場時代から良き先輩で、相談相手でもあり、マツダの帰参も吉原の尽力によるものだった。吉原はレスラーから引退後は営業部長に就任してフロント入りするも、経理担当重役である遠藤幸吉とは常に対立しあっており。そしてリキパレス売却問題では吉原が常設会場を失いたくないことからリキパレスは日本プロレスで買い取るべきだとして資金集めするも、力道山の名前を全て消したがっていた遠藤が「吉原はリキパレスの乗っ取りを企てている」とデマを吹聴してリキパレス買収話を潰したことから、吉原は退社を決意して密かに新団体設立へと動き出そうとしており、マツダ人気に注目して新団体のエースに据えることを考え、吉原から話を持ち掛けられたマツダも応じて新団体に参加するも、マツダに野望を秘めていたことを吉原社長も知る由はなかった。

早速新団体設立へ動き出した吉原は会社登記を済ませ、日本プロレスから退団した草津正武(グレート草津)、杉山恒治を誘って新団体に参加させると二人を連れて10月に渡米、フロリダマットと提携を結ぶことに成功した。この頃のフロリダマットはこれまでプロモーターだったカウボーイ・ルタロールが取り仕切っていたがプロモーターからの引退を決めてグラハムへ移譲し始めており、マツダもケオムカもグラハムの下で役員となっていた。外国人ルートを確保した吉原は草津と杉山を修行させるためにフロリダに残すとマツダと一緒に帰国して24日に記者会見を行い、国際プロレスの設立を発表する。

国際プロレスに社長には吉原が、取締役にはマツダが就任したが、問題は外国人ルートは確保で日本人選手でマツダと草津、杉山に加え、マツダの後輩で同じく日本プロレスに入門していた鈴木勝義だけで手薄、吉原は「団体間で潰し合うことはせず、日本プロレス界の発展に尽力したい。プロレスは相撲の社会とは違う。アメリカと同様のスタイルのスマートな団体とする」として、シリーズごとに選手と出場契約を交わし、試合をするリングのみを提供するという、アメリカのプロレス業界と同様のフリーランス・システムを提唱し、日本プロレスに協力を求めいたが、当然ながら拒絶された。フリーランスシステムは最終的に凍結となって小林省三(ストロング小林)、井上末雄(マイティ井上)をスカウトして従来の所属選手システムを取ることになったが、それでも日本人選手層が薄く人材が不足していた。そこで目を付けたのは国際プロレスに先駆けて旗揚げしていた東京プロレスだった。

東京プロレスは10月12日に旗揚げしたが、地方興行では大苦戦を強いられ、資金的にも行き詰まって興行も打てない状況に追いやられており、そんな最中に猪木と豊登の間で金銭トラブルが起きて、猪木派と豊登派に分かれて分裂状態となっていた。マツダはアメリカでタッグを組んでいた関係から猪木にオファーをかけ、猪木も金銭的にも困り、試合もすることが出来ないことから、マツダの誘いに応じて豊登を除いた東京プロレスの選手らと共に国際プロレスに参戦することになった。

そこで社長となった吉原はTBSのプロデューサーだった森忠大にテレビ中継を持ち掛ける。プロレス中継は力道山死去後も高い視聴率を誇っており、必ず数字が取れる貴重なコンテンツで、TBSもKRテレビと名乗っていた時代に力道山の試合を中継したことがあったが1957年に後楽園球場で行われたルー・テーズvs力道山の放映権利を巡って力道山とトラブルになり撤退していた。吉原社長とTBSの森プロデューサーとは高校時代からの長い付き合いで、吉原は旗揚げ前から相談してTV中継を持ち掛けていた。

1967年1月5日、大阪府立体育会館で国際プロレスは東京プロレスと合同興行という形で旗揚げし、旗揚げ戦には猪木を含めた東京プロレス勢だけでなく、マツダのルートで自身の好敵手であるホッジ、そして多忙のグラハムも現役選手として参戦、メインはアメリカでドル箱カードとなっていたホッジvsマツダのNWA世界ジュニアヘビー級選手権が実現、まだ国際プロレスはNWAには未加盟だったものの、NWAの会員となっていたグラハムやマツダの尽力で実現したカードだったが、国際プロレス内でNWAの選手権が実現したのは意味があった。

後年、マツダのブッキングで国際プロレスに来日したサム・スティンボードによると、グラハムがエリア拡大を狙って日本マットを狙っており、日本プロレスがまだNWAの会員になってないことを狙って、国際プロレスをフロリダマットの日本支部にすることを計画を立てていたという。グラハムの計画はNWA会長だったサム・マソニックにも話して承認を得ており、マツダは国際プロレスのエースなれど、フロリダマットから派遣されたにすぎなかった。グラハムに計画は国際プロレスの株主となった上で吉原社長を追い出して国際プロレスを乗っ取り、フロリダマットの日本支部化にするつもりだった。マツダ自身も一枚噛んだ理由は力道山が相撲部屋の慣習から持ち込んだ上下関係などの不文律や、日本独自の精神論にも疑問を抱いたこともあって、NWAやグラハムの力を借りて日本プロレスを潰し、国際プロレスを通じて力道山が作り上げていた日本のプロレス界の在り方そのものを変えたかった。それがマツダなりの力道山への復讐であり、盟友だった吉原社長を裏切ることになるが、マツダはビジネスだと割り切っていた。

18日には森プロデューサーも台東大会を視察し、猪木とマツダに高い評価を出したことで企画書を上層部に提出したが、力道山の一件が原因となって上層部はなかなかGOサインを出さず、旗揚げシリーズが終えた国際プロレスは選手のギャラがかかったせいもあって早くも莫大な借金を抱えてしまい、4月にやっとTBSから中継にGOサインが出されたが、中継が決まった時点で猪木と吉原社長の間で金銭トラブルが起きる。猪木を含めた東京プロレス残党が国際プロレスに参戦するにあたって豊登を含めた全選手を参戦に条件にしてギャラが支払われるはずだったが、豊登と田中忠治の二人が不参加だったため、二人分の差し引いたギャラが支払われることになると、猪木が納得せず予定通りのギャラを支払うことを要求したことで、猪木ら東京プロレス勢は旗揚げシリーズに参戦しただけで国際プロレスとは絶縁してしまう。

日本プロレスでは水面下で猪木に復帰を呼びかけており、猪木も東京プロレスで負債を抱えていたこともあって日本プロレスへの復帰を決意、猪木は自民党副総裁で日本プロレスコミッショナーを務めていた川島正次郎の立会で記者会見を開いて日本プロレスに復帰を発表、猪木は復帰に際しては日本プロレスに東京プロレスの若手達も引き取って欲しいと依頼するが、さすがの日本プロレスも全員とはいかず、猪木が連れていったのは北沢幹之、永源遥、柴田勝久ら数人だけだった。

これを受けてTBSも二枚看板の一つである猪木が抜けたことで国際プロレスの放送開始が保留となり、あてにしていたテレビ中継が先送りになったことで、国際プロレスも次期シリーズ再開の目処が立たなくなる。開催資金をやっと集めた吉原社長は5月30日に国際プロレスは猪木と袂を分かっていた豊登が東京プロレスの残党らと共に参戦を決め、7月27日から新シリーズ開催を発表する。そしてアメリカではグラハムもNWAに国際プロレスを加盟申請するなど、グラハムとマツダの計画通りに国際プロレスのフロリダ支部化にすることも秒読み段階に入ったかに思われた。

8月11日にはTBSがテストとして大分大会を収録、14日には大阪府立体育会館が行われることになったが、50メートル先の大阪球場では日本プロレスがビックマッチを組んで興行戦争を仕掛けてきた、府立体育会館で日程を組んだのは国際プロレスが先で、後になって日本プロレスが大阪球場大会の日程を組んできたのだが、日本プロレスには時のNWA世界ヘビー級王者だったジン・キニスキーが参戦、当時は日本プロレスもNWAに加盟申請しており、そのためにわざわざNWA会長だったマソニックも来日して日本プロレスの試合を視察する。

日本プロレスが馬場vsキニスキーのインターナショナルヘビー級選手権を組んだに対し、国際プロレスはマツダ&サム・スティンボードvsビル・ドロモ&ロジャー・ガービーと通常のタッグマッチで対抗、しかし日本プロレスが20000人を動員したに対し、国際プロレスは大阪球場と比べてキャパが小さかった府立体育会館は4500人と興行戦争は日本プロレスの圧勝で終わった。

翌日の15日ラスベガスでNWA総会が開かれると、日本プロレスの加盟が認められ、シリーズを終えた国際プロレスはまた負債を抱えることになり、その処理を巡って吉原社長とマツダの間で亀裂が生じ、マツダは国際プロレスから撤退した。マツダが負債を抱えなかったことが理由とされているが、グラハムの国際プロレスを乗っ取り=フロリダマット日本支部化はNWAに加盟できなかった時点で計画が失敗し、グラハムはマツダに撤退を命じたが、マツダもグラハムの計画が失敗した時点で国際プロレスにいる意味がないと考えた上での撤退だった。おそらくマソニックはグラハムの計画を認めながらも、一方で日本プロレスに接近したのは、どっちがNWAに加盟することでメリットがあるのか両天秤にかけ、日本テレビとの信頼関係を築いていた日本プロレスを選んだのかもしれない。しかし吉原社長がマツダを計画を知っていたかどうか、二人とも亡くなった以上、今でも定かではない。

その後マツダに追随した鈴木はマツダを慕っていたこともあって国際プロレスを去らざる得なくなり、アメリカに渡ってマティ鈴木として一匹狼となり、マツダもフロリダを主戦場にしながらも、日本プロレスに助っ人として参戦したが、あくまで馬場と猪木の脇役に留まった。猪木&マツダの二枚看板に去られた国際プロレスはTBSがプロレス中継を開始すると発表した手前、今更撤回できず、計画を練り直すことになり。グレート東郷をブッカーに招いて草津正武をグレート草津、杉山恒治をサンダー杉山にリングネームを改めさせ、二人によるエース路線へと転換を図り、1968年1月3日に日大講堂大会でやっと念願だったレギュラーでの中継が開始されるも、これが国際プロレスにとって新たなる苦難の始まりでもあった。

(参考資料=ベースボールマガジン社『日本プロレス70年史』『日本プロレス事件史Vol.12 団体の”誕生、消滅、再生”』辰巳出版『東京プロレス』)

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