アブドーラ・ザ・ブッチャーの引き抜きから始まった、外国人引き抜き戦争という仁義なき戦い


1981年5月8日、新日本プロレス川崎市体育館大会で全日本プロレスの外国人選手であるアブドーラ・ザ・ブッチャーが登場し、新日本プロレスが提唱するIWGPに参戦を表明した。ブッチャーは全日本プロレスの「81インタ―チャンピオンシリーズ」に参戦しており、最終戦である30日の松戸大会を終えると、一旦アメリカへ戻った後でトンボ帰りして新日本プロレス川崎大会に現れたのだ。

ブッチャーは全日本プロレス旗揚げから常連外国人選手となり、ジャイアント馬場だけでなくドリー・ファンク・ジュニア、テリー・ファンクと抗争を繰り広げることでトップ外国人選手となった。ブッチャーの新日本プロレス移籍には梶原一騎の側近で元新日本プロレスのレフェリーだったユセフ・トルコが大きくかかわっており、トルコを通じて新間寿氏に売り込みがかかったのだ。

ブッチャーが新日本プロレスに移籍した理由は、全日本プロレス側にギャラアップを求めたところ応じてもらえなったことから、トルコを通じて新日本プロレス側に売り込みをかけ、新日本プロレスも全日本プロレスでトップを張ったレスラーならということで全日本プロレスより破格の条件を提示、ブッチャーは移籍する前に新日本プロレス側にギャラの額も含めて契約内容を馬場に明かしたが、ジャイアント馬場は「行ってもいいよ」と了承を得ていたという。

ブッチャーは全日本プロレスの外国人選手となってからは、絶大な権力を握るほどになっており、馬場だけでなく外国人ブッカーだったファンクスにもアイデアを出して恩恵を受けるなど、馬場だけでなく全日本プロレスに大きく貢献していた。当時の全日本プロレスは観客動員も含めて新日本プロレスに大きく開けられたことにより経営危機が噂されると、日本テレビからテコ入れとして役員が送り込まれて、社長だったジャイアント馬場も会長に棚上げされ、日本テレビから派遣された松根光雄氏が社長として就任していた。それを聴きつけた新間氏が全日本プロレスを潰す最大のチャンスとして全日本プロレス潰しの第1弾としてブッチャーを引き抜きにかかった。ブッチャーにしてみれば後年「プロは金だ。自分をより高く買ってくれる所に行くのは当然」と語っていた通り、FAで移籍するような感覚で移籍したに過ぎなかった。

ブッチャーの引き抜きに際しては新間氏は社長であるアントニオ猪木に相談したが、猪木は「ブッチャーは必要か?」と関心を示さなかった。しかし、新間氏はIWGPを世界規模の大会にしたいという願望もあってアフリカ代表も必要と考え、「IWGPにブッチャーが参加するだけでも凄いじゃないですか」と返事すると、猪木は「おう、わかった」とGOサインを出した。そして川崎大会で登場したブッチャーに実況席で解説として座っていた猪木もリングに上がってブッチャーと対面、猪木とブッチャーも日本プロレス時代に何度も対戦したこともあって両者の対決に期待が高まったが、猪木と再会したブッチャーは「IWGPのチャンピオンベルトを取るためにやってきた、必ず猪木を叩きのめしてベストを取る」と挑発すると、猪木は「私は今までブッチャーのファイトなど認めていなかった。でもこうして戦いの場に出てきた勇気と行動力は称えます」と歓迎しながらも「ただ彼が今までと同じようなファイトをしている限り、私には絶対勝つことは出来ない」とやり返したが、それは今思えば猪木のアピールはブッチャー獲得に乗り気でなかった現れだったのかもしれない。

新日本プロレスはブッチャーだけでなくタイガー戸口の引き抜きにも成功していた、戸口は全日本プロレスでは日本人選手No.3の座にいたが、体制が変わったことで当時住んでいたアメリカとの飛行機代が出してもらえなくなり、このまま全日本に留まったとしてもジャンボ鶴田の上へ行けるわけではないとして、「81インタ―チャンピオンシリーズ」終了後にフリー宣言していた。おそらく新日本プロレスもIWGPアジア予選を開催するにあたって韓国代表という名目で戸口が欲しかったのかもしれない。

ブッチャーだけでなく戸口も引き抜かれたことで全日本プロレスも負けじと新日本プロレスのトップ外国人選手の一角だったタイガー・ジェット・シンの引き抜きに成功する。ブッチャーを引き抜かれたことで馬場も早速動き、シンの住んでいたカナダのトロントでシン本人と直接交渉する。新日本プロレスも新間寿氏はシンに黙ってブッチャーを引き抜いたことでシンにはしっかり釈明はして納得してもらえたと思い込んでいたが、自分のライバルであるブッチャーを自分に相談もなく新日本プロレスが引き抜いたことはシン自身もやはり面白くなく、馬場が直接交渉に来たことで全日本プロレスに移籍を決意、新間氏も「ブッチャーを引き抜いて有頂天になっていた」と語っていた通り、新日本プロレスの隙を突いて形で全日本プロレスもしっかり反撃してきたが、この後で馬場も引き抜き戦争に勝つ決定的な切り札とこれから交渉することをまだ周囲に隠していた。

全日本プロレスはそのあとファンクスのルートでNWAインターナショナルジュニアヘビー級王者だったチャボ・ゲレロの獲得に成功、チャボは新日本プロレスと提携していたロスサンゼルスを主戦場にしていたが、プロモーターのマイク・ラベールの間でギャラのトラブルが発生してからロスサンゼルスマットを離脱しており、ファンク一家とゲレロ一家は家族ぐるみで親しかった。そしてシンのたっての希望でパートナーだった上田馬之助も全日本プロレスに移籍する。新日本プロレスもディック・マードックの引き抜きに成功、マードックはファンクスの後を受けてアマリロマットを取り仕切っていたが、閉鎖してからは全日本プロレスとの関係も切れていた。マードックは新日本プロレスへの移籍にあたって、馬場に連絡を入れて了承を得たことから、実質上は円満移籍だった。

そして12月13日、全日本プロレス「世界最強タッグ決定リーグ戦」最終戦の蔵前国技館大会で引き抜き戦争に有利に立つ決定的な切り札を出してきた。シンと同じ新日本プロレスのトップ外国人選手だったスタン・ハンセンが現れ、テリーをウエスタンラリアットでKOしたことでブルーザー・ブロディ&ジミー・スヌーカー組の優勝をアシストし、試合後に馬場と乱闘を繰り広げることで全日本プロレス参戦の既成事実を作り上げてしまう。馬場はシンと交渉した後でファンクスの仲介でハンセンとテキサス・ダラスで交渉しており、新日本プロレスとの契約は年内までだったころから、移籍へ向けて合意に達していたものの、ハンセンが無事移籍するまでシークレットとされていたのだ。新日本プロレスも全日本プロレスからの引き抜きを魔の手から守るためにハンセンとは残留交渉はしていたものの、ハンセンが上手くはぐらかせて契約を先送りにして、新日本プロレスもハンセンなら残ってくれるだろうと考えてノーガードだった。

ハンセンは後年「川崎にアブドーラが現れた時はショックだった。彼のことを馬場はトップガイと思っていたからね、そこに不安があったわけではないが、今後アブドーラが参入することによって、自分のポジションはどうなるのかと考えたのは事実だよ」と明かしていた。新間氏もブッチャーの移籍に関して「ブッチャーは太りすぎだから長持ちしないよ」とハンセンに釈明したが、ハンセンは「自分のことも他のレスラーには同様に悪く言っているのではないか?」と新間氏に疑念を抱いていたという、新間氏は表向きはプロレスラーをリスペクトしても、裏ではレスラーを見下す発言をしていたことから、新間氏はシンにも同じことを話していたと見ていいだろう、二人は新間氏の裏表の激しさを見てしまったことで、全日本移籍への要因を作ってしまったのかもしれない。

新日本プロレスに参戦したブッチャーは子分としてバットニュース・アレンを従えて黒人レスラーを中心とした「黒い軍団」を結成、戸口は新日本軍の一員として扱われたが、9月23日の田園コロシアムで猪木との一騎打ちが組まれていたにもかかわらず、アンドレ・ザ・ジャイアントやハンセンの咬ませ犬として扱われ、猪木との一騎打ちでも試合前にラッシャー木村ら元国際プロレス勢が参戦を表明したことで対戦相手としての戸口の存在は薄れ、試合でも猪木の卍固めで完敗を喫し、ブッチャーは1982年1月28日に猪木との一騎打ちが組まれるも、猪木とは全く手が合わないままアレンの乱入ということで反則負けとなり期待外れの凡戦となり、以降はブッチャーが猪木との対戦をアピールしても、猪木は相手にせず坂口征二が主にブッチャーの相手を務めるなど不遇の扱いを受ける。

全日本プロレスへ移籍したハンセンは2月4日、猪木vsブッチャーが行われた東京体育館で馬場と対戦し、猪木vsブッチャーとは好対照で、この年の年間ベストバウトを受賞するなど名勝負を繰り広げ、以降はハンセンは全日本プロレスのトップ外国人として引退するまで全日本プロレスに定着した。

話は戻って1982年の年明けに新間氏がゴング編集長だった竹内宏介氏に「馬場さんと会って話をしたいんだが…」と仲介を依頼する。竹内氏は馬場のマスコミ側のブレーンでもあったが、新間氏からも絶大な信頼があり、外国人引き抜き戦争も事前にハンセン、ブッチャー、シンが移籍するとわかっていても敢えて双方に通報せず仁義を守ったことから、仲介役にはうってつけの人物だった。

ハンセン全日本登場第1戦が行われた1月15日の木更津大会に竹内氏は新間氏からのメッセージを馬場に伝えると、馬場vsハンセンが終えた3日後のホテルニューオータニで馬場‐新間会談が実現することになったが、新間氏の提案で猪木も出席することになり、馬場と猪木による首脳会談も実現、馬場と猪木が会談した後で、竹内氏と新間氏が加わって話し合いになり、新日本プロレスが休戦を申し入れたことで、引き抜き防止協定が結ばれ、8カ月に及ぶ仁義なき戦いは一応終止符を打たれた。双方とも共存共栄が保たれたが、1983年に新日本プロレスでクーデター事件が起きると新間氏は失脚、1984年にUWFやジャパンプロレスが設立され新日本プロレスから選手が大量に選手が離脱したことで、新日本プロレスと全日本プロレスは再び仁義なき戦いを繰り広げることになる。

その後ブッチャーは参戦をアピールしていたIWGPからも外れ、新日本プロレスも長州力ら維新軍団の台頭によって日本人対決中心へと変わったことで、ブッチャーの存在価値も薄れてしまい、それはシンも同じで全日本プロレスは鶴田、天龍源一郎とハンセン、ブロディが中心になったことで存在価値も薄れてしまう。ハンセンは全日本プロレスへの移籍時は30代前半と脂の乗り切った時期だったが、ブッチャーとシンは年齢的にもピークが過ぎつつあって衰えが目立ってきていたのも要因だった。

ブッチャーは1985年1月25日の山口県徳山でやっと猪木の2度目の対決が実現したが、猪木の延髄斬りからのブレーンバスターの前に完敗を喫し、シンも2月5日の東京体育館で馬場と対戦したもののジャイアントコブラツイストの前にギブアップとなって完敗を喫した。ブッチャーは新日本からフェードアウトすると1987年に全日本プロレスに復帰、1988年にはシンとのタッグも結成したが、主役を奪うまでには至らず、シンは1989年に全日本プロレスからフェードアウトし、新日本プロレスへと戻っていった。

現在のマット界では引き抜きという言葉が使われても、選手の個人的な意思を尊重しての移籍というケースが主になってきた。昔のような仁義なき戦いというものは既に死語になっているのかもしれない。

(参考資料=ベースボールマガジン社「日本プロレス事件史Vol.8『移籍・引き抜き・興行戦争』辰巳出版 GスピリッツVol.52 「全日本プロレススーパーレジェンド列伝」、アントニオ猪木vsアブドーラ・ザ・ブッチャー戦は新日本プロレスワールドで視聴できます)

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