日本に襲来した覆面暗殺団、ジ・アサシンズ!


1965年9月に「覆面暗殺団」を名乗る二人のマスクマンが初来日を果たした。名前はジ・アサシンズA、ジ・アサシンズBで二人は同じ覆面で全身タイツと見分けがつかない、羽田空港へ到着した二人はレンズを向けるカメラマンらをAが威嚇、マスコミらは一目散に退散して存在を大きくアピールした。

アサシンズは1961年12月にジョージア州で誕生、Bの正体であるジョー・ハミルトンはフロリダへ転戦した際にエディ・グラハムの指示でジョージアに向かい、ジョージアでブッカー兼エースを務めていたレイ・ガンケルから黒い覆面を手渡されて覆面レスラーに変身を指示された。それがアサシンズの誕生だった。しばらくはジョーはジ・アサシンとしてシングルで活躍していたが、トム・レネストというレスラーがジョージア入りすると、トムもアサシンAに変身、こうして覆面タッグチーム、ジ・アサシンズが始動した。

アサシンズは同じマスク、全身タイツを良いことにすり替わり戦術を駆使して、またマスクの額の部分に凶器を入れて頭突きを浴びせるなど大暴れし、ジョージア州認定のNWA世界タッグ王者になるなどトップ戦線に食い込み、悪役ながらも名物タッグチームとなって観客も超満員動員するなど、ジョージアエリアにとって欠かせない存在となった。二人が全身タイツにしたのはAは浅黒、Bは白肌の色が違うためで、夏場の間は暑くて毎晩死ぬ思いだったというが、アサシンズは後に誕生するストロング・マシンズやブラックハーツのルーツ的なチームだった。

そこで日本プロレスで外国人ブッカーであるミスター・モトからオファーを受けて日本プロレスに参戦することになった。当時の日本プロレスは豊登エース路線だったが、次第にジャイアント馬場路線への転換を図っており、力道山死去後に封印されたインターナショナルヘビー級王座をNWA認可のベルトとして復活させ、馬場が日本代表としてインターナショナルヘビー級王座を争う資格があるか「インターナショナルヘビー級選手権争覇戦・参加資格獲得試合」が始まっており、既に馬場はザ・デストロイヤーと2戦対戦して1勝1分となっていた。

日本プロレスの「ハリケーンシリーズ」に参戦したアサシンズは9月29日の札幌中島体育センターで豊登&馬場の保持するTB砲の保持するアジアタッグ王座に挑戦して、得意のすり替わり戦術でTB砲を苦しめ、3本勝負の3本目でアサシンズの反則負けとなってTB砲が防衛も、10月17日に行われた千葉での再戦では今度は3本目でTB砲がAのマスクを破いたため反則負けとなりアサシンズが勝利も、反則負けでは王座は移動しないルールに助けられてTB砲が防衛となるなど、TB砲とアジアタッグを巡る抗争を繰り広げ、マスコミもどちらがAかBか区別がつかず困惑させた。
だが「ハリケーンシリーズ」はハプニングの続出で、「インターナショナルヘビー級選手権争覇戦」で馬場と対戦する予定だったザ・ブッチャー(ドン・ジャーデン)がアサシンズと一緒に乗用車で長野県を移動中に運転手がブレーキ操作ミスで横転事故を起こしたため、3人は病院に運ばれ入院する。アサシンズは軽傷だったものの、ブッチャーだけが脊椎を痛め全治2週間の重傷を負って試合出場が出来なくなり途中帰国を余儀なくされた。

この事態に日本プロレスはブッチャーの代わりにアルバート・トーレスを招聘し「インターナショナルヘビー級選手権争覇戦」の馬場の相手を務めて馬場が勝利、事故に巻き込まれたアサシンズはお詫びとしてギャラがアップされ、また11月3日の大阪ではアサシンBが「インターナショナルヘビー級選手権争覇戦」に抜擢されて馬場と対戦、試合は1本目がアサシンBが反則負け、2本目は馬場がアトミックドロップで3カウントを奪って2-0で勝利となり、馬場は晴れて日本代表としてインターナショナル王座決定戦へと進出するも、シリーズ中には馬場がトーレスのフライングヘッドシザースの受け身に失敗して脳震盪を起こし、病院に入院するハプニングもあり、幸い馬場は一晩だけ入院して試合出場は続けたものの、「ハリケーンシリーズ」の名称は悪い意味でハプニングだらけでゲンが悪いとして2度と使用されなくなった。

アサシンズは1970年6月にも日本プロレスに来日、エース外国人選手はキラー・カール・コックスのため、馬場の保持していたインターナショナルヘビー級や、馬場&アントニオ猪木のB・I砲のインターナショナルタッグ王座には挑戦できなかったが、猪木&吉村道明組が保持していたアジアタッグ王座に挑戦、3本目でアサシンAが猪木のジャーマンスープレックスホールドで3カウントを奪われ王座を奪取出来なかった。

その後もジョージアでもアサシンズは名物タッグとして活躍したが、1972年8月1日にレイ・ガンケルがオックス・ベーカーとの試合後にシャワールームで倒れ心臓発作で死去すると、ジョージア州のプロモートの主導権を巡って内紛が起き、レイの後を受けてジョージア州を仕切ろうとした未亡人であるアン・ガンケルと、アンに持ち株を売却させてジョージア州の利益を独占を目論むグラハムが対立、NWAはグラハムを支持したことから、アンは後にWCWのオーナーとなるテッド・ターナーの支援を受けて新団体を設立、ジョージア州のレスラーほとんどがアンに追随し、アサシンズもアンを信頼していたことからアン側についた。手薄となったNWA側も各エリアからスター選手を招聘して対抗したが、アン側の牙城を崩すまでには至らず、泥仕合の状況が続いていた。

そんな状況の中、アサシンBは素顔のジョーとして兄であるロッキー・ハミルトンと組んで日本プロレスの「第3回NWAタッグリーグ戦」に参加するためジョージアをいったん離れてしまうと、アサシンAであるトムがテレビスタジオマッチでマスクを取って正体を明かす行動に出てしまう。アサシンAがマスクを取った理由がNWA側がテレビ番組で正体を暴露しようとしたため、アサシンAはNWA側に暴露されるぐらいなら、自分から正体を明かした方がいいと考えた上での行動だったが、こうしてタッグチームとしてのアサシンズはアメリカ史上に残るマット界の政争に巻き込まれた形で唐突に解散となった。

日本から戻ったジョーはアサシンBとして裏切ったとしてトムと抗争を繰り広げたが、最悪の形での解散となって空しさだけが残ったという。その後ジョージアマットをめぐる内紛は2年余り続いたが、長期化することでNWA側も内部から選手をジョージアに送ることを渋り出し、またアンも疲れが見え始めたところで、オーストラリアで大成功を収めていたジム・バーネットが双方から株を買い上げることで政争は終結、ジョーは引き続きアサシンとして活躍したが、1988年に背骨を傷めて引退、WCWに招かれ「パワープラント」のコーチとしてゴールドバーグやビックショーの育成に携わり、WCWがWWEに吸収されても、新人育成のためにWWEでもコーチを続け、2008年にコーチを引退するまでマット界に携わった。
トムはロスサンゼルスでフロントとして携わりつつ、息子をレスラーとして育成したが大成せず、新日本プロレスにもティム・トール・トゥリーのリングネームとして送り込んだが、素人のような動きで館内から失笑を買ってしまい途中帰国という憂き目にあった。ロスサンゼルスマットが閉鎖後はトムも業界を去り、2000年4月に膵臓ガンで死去した。享年72歳。

そして今年の2021年8月4日にハミルトンさんも死去したことがWWEから発表された。享年82歳、ご冥福ををお祈りします

(参考資料 日本プロレス事件史Vol.3『年末年始の大波乱』Vol.13『マスクマンの栄光と悲劇』)

読み込み中…

エラーが発生しました。ページを再読み込みして、もう一度お試しください。

コメントは受け付けていません。

WordPress.com でサイトを作成

ページ先頭へ ↑