1981年8月9日、北の果て羅臼に消えた国際プロレス①国際プロレス崩壊を決定づけた3月31日の惨劇


1978年11月の「日本リーグ争覇戦」中に国際プロレスの吉原功社長が新日本プロレスの新間寿営業本部長と接触していることが明るみになり、これに怒った全日本プロレスは国際プロレスとの交流を打ち切って、国際プロレスは交流相手を新日本プロレスに乗り返ることになった。

国際プロレスは1972年に旗揚げした全日本プロレスと業務提携を結んで交流を行ってきたが、最初こそは全日本プロレスは老舗団体となった国際プロレスを立てていたものの、全国ネットの中継網を持つ日本テレビをバックにした全日本プロレスと、TBSからテレビ中継を打ち切られた国際プロレスでは力の差は歴然としており、やっと東京12チャンネルで中継を再開するも、東京を中心としたUHF局である東京12チャンネルをバックとしては力が弱く、対抗戦でも全日本に主導権を握られるなど、美味しいところは全て全日本プロレスに持っていかれる状況が続いていた。

そういう状況で新日本プロレスの新間寿営業本部長が国際プロレスの吉原功社長に接触してきた。新日本プロレスはこれまで国際プロレスのエースだったストロング小林、将来を担う存在だった剛竜馬を引き抜いてきており、エースだったラッシャー木村がアントニオ猪木に対して挑戦状を出しても無視されるなど辛酸を味合わされてきた。国際プロレスは剛の引き抜きは契約違反として新日本プロレスを訴えていたが、その訴訟をきっかけに新間氏と吉原社長が話し合いを持つ機会が多くなっていた。新間氏と吉原社長は日本プロレス時代から旧知の間柄で、新間氏は東京プロレス崩壊後は豊登を通じて国際プロレス入りを願ったものの、外様だった豊登には発言力が弱かったため国際プロレス入りが出来なかった。だが、新間氏は新日本プロレス入りすると手腕を発揮してアントニオ猪木を中心としたビックマッチをプロデュースしたことで、吉原社長も敵ながらも新間氏の手腕を認めざる得なかった。

吉原社長は新間氏を介して極秘裏に新日本プロレスの社長だった猪木とも会談するが、これがマスコミにスクープされ、新日本プロレスと国際プロレスの急接近が噂されるようになり、馬場も国際プロレスを引き留めるために「争覇リーグ戦」にはジャンボ鶴田までも派遣するも、吉原社長は11月30日の国際プロレス蔵前国技館大会にストロング小林と小林邦昭の新日本プロレス勢の参戦が発表されると、事前に相談も受けていなかった馬場が激怒し、吉原社長に抗議するが、吉原社長はここぞとばかり”馬場が大物でも、業界では自分が先輩だ”と先輩風を吹かせて馬場の抗議は受け付けなかったため、日本争覇リーグ戦を持って国際プロレスと全日本プロレスとの協力関係は終わり、新日本プロレスとの提携がスタートしたが、猪木は先輩風を吹かす吉原社長を内心は嫌っており、この提携には乗り気ではないというのが本音だった。

この頃の東京12チャンネルによる国際プロレス中継は田中元和氏がプロデューサーとしてかかわっていたが、自分のアイデアを吉原社長に提案しても「国際プロレスはテレビ局から干渉を受けない団体」と突っぱねられ、また東京12チャンネル側の相談もなく他団体との対抗戦を始めてしまうなど嚙み合っておらず、全日本プロレスとの対抗戦も、全日本プロレス側に美味しいところを持っていかれたことで団体としてのイメージダウンにつながり、それが視聴率にも反映したこともあって田中プロデューサーも苦々しく思っていた。しかし対抗戦でない国際プロレスの独自の試合となると悪くない視聴率を取っていたこともあって、田中プロデューサーも国際プロレスの可能性を信じて放映権料に加えて特別強化資金を捻出しバックアップしてきたが、新日本プロレスとの対抗戦も東京12チャンネルに相談もせず、吉原社長が独断で決めたものだった。

12月16日の新日本プロレスの蔵前大会にアニマル浜口、寺西勇が参戦して長州力&木戸修組と対戦から新日本プロレスvs国際プロレスがスタート、奇しくも後に維新軍で一緒になる長州、浜口、寺西が介したが、試合は30分フルタイムドローと好試合となり、試合後も木村とデビューしたばかりの原進こと阿修羅・原がリングに上がって、新日本との対抗戦をPR、12月26日に後楽園で行われた藤波辰巳を囲むファンの集いでも吉原社長とデビューしたばかりの原進こと阿修羅・原が押しかけると、倍賞鉄夫リングアナから1月21日の国際プロレスの後楽園大会に山本小鉄と星野勘太郎のヤマハブラザーズがグレート草津&アニマル浜口の保持するIWA世界タッグ王座へ挑戦することが発表された。

小鉄&星野のヤマハブラザーズは日本プロレスからの名タッグチームだったが、この頃になると星野は最前線には出ていたものの、小鉄は裏方や若手のコーチなどで試合には出ることが少なくなっていたことから、主力ではなくピークの過ぎた中堅が新日本プロレスから送り込まれた形となったが、吉原社長はヤマハブラザーズを日本プロレス時代に可愛がっていた後輩としてしか見ておらず、トップを張っている草津&浜口なら勝てるだろうと思っていた。

ところがいざ選手権となると日頃の練習不足と実力的にピークを過ぎていた草津がヤマハブラザーズのタッチワークに蹂躙され、やっと浜口に代わるもほとんど出ずっぱりで孤軍奮闘する。それでも1-1のタイスコアに持ち込むが、小鉄が浜口をアルゼンチンバックブリーカーで担ぎ上げたところで、草津がカットに入ろうとしてショルダータックルを狙ったが、避けられてしまって場外へ転落するという醜態を晒してしまい、最後は小鉄のワンハンドバックブリーカーから星野のダイビングニードロップの連係に浜口が捕まって3カウントを奪われ完敗を喫してしまう。

中堅チームであるヤマハブラザースにIWAタッグ王者である草津&浜口が完敗を喫したことは、国際プロレスにとってもイメージダウンとなり、29日の勝田大会では国際プロレスNo.2のマイティ井上と浜口の和製ハイフライヤーズを挑戦者として差し向けたが、1-1の後でヤマハブラザースのダブルラリアットが決まって浜口から3カウントを奪うも、サブレフェリーが二人掛りの攻撃を指摘されたことで、フォールは無効となり、怒った小鉄がレフェリーを殴って反則負けとなって、ルールによって王座は移動せず、奪還に失敗したどころか内容的にもヤマハブラザースに押されてしまっていた。背水の陣となった井上&浜口は敵地である新日本プロレスの2月23日の千葉大会に乗り込んでいった。この大会も本来ならテレビ朝日の「ワールドプロレスリング」の中継が入ったものの、カードはテレビ中継が入る前に組まれ、国際プロレスを中継していた東京12チャンネルの実況班が入り舞台部分に放送席が設けられて、ワープロ班との放送席から隔離され、それでも井上&浜口が1-1のタイスコアの後で、浜口が小鉄から3カウントを奪い王座奪還に成功するが、「ワールドプロレスリング」では一切触れられないなど、すべての面で国際プロレスは冷遇されていた。

しかし東京12チャンネル的には新日本との対抗戦のおかげで国際プロレス中継の視聴率が上がり、そのせいもあって国際プロレスに通常の放映権料に加えて、特別強化資金が出されることになり、新間氏のブッキングでビリー・グラハム、マサ斎藤、上田馬之助など新日本でお馴染みの選手が参戦するようになったが、マサ斎藤は国際プロレス勢を見下しており、上田に至ってはIWA世界ヘビー級王座を持ったまま新日本プロレスへ参戦しようとした”前科”があったことから選手らは歓迎しておらず、新間氏も国際プロレスのチケットを大量に請け負って新日本の営業に売り歩くように命じるなど、営業の手助けをしたが、国際プロレスのチケットは全く売れないとして営業らに迷惑がられていた。

新日本との交流は一旦小休止となったが、翌年の1980年3月31日に国際プロレスの後楽園大会に新間氏が登場して新日本から選手が挑戦者を出すことを発表される。東京12チャンネルがまずまずの視聴率を残している国際プロレスのために特番枠を組むことになり、国際プロレスが並大抵の事では視聴率が取れないと考えて新日本プロレスに選手を派遣して欲しいと要請したことで実現したが、新日本プロレスから派遣されたのは木村健吾、永源遥、ジョニー・パワーズ、元国際プロレスの剛だった。

木村健吾は海外武者修行から帰国して、これから藤波辰巳のライバルとして売り出されようとしていたが、永源はテレビ中継に出るか出ないか中堅、剛は国際プロレスからフリーとして新日本に参戦し、藤波とのライバルとして売り出されていたが、ライバルストーリーが終わると新日本プロレスに正式入団し、中堅へと埋没しようとしており、パワーズに至ってはかつての新日本プロレスのトップ外国人選手の一角を担っていたものの、アンドレやスタン・ハンセンが新日本に参戦するようになるとランクダウンし、実力的にも完全にピークが過ぎていたばかりではなく、アメリカでは事業に専念していて日本だけしか試合をしていなかった。国際プロレスからトップ勢を新日本プロレスに送り込んでも、新日本プロレスから派遣されるのは中堅やロートルばかりと国際プロレスからしてみれば屈辱だった。

対戦カードもIWA世界タッグ選手権(王者)井上&浜口vs(挑戦者)木村健吾&永源遥、WWU世界ジュニアヘビー級選手権(王者)阿修羅・原vs(挑戦者)剛竜馬、AWA世界ヘビー級選手権(王者)ニック・ボックウインクルvs(挑戦者)大木金太郎、IWA世界ヘビー級選手権(王者)ラッシャー木村vs(挑戦者)ジョニー・パワーズと4大タイトルマッチとなった。
この頃の国際プロレスは原をジュニアヘビーとして売り出しており、4月3日の新日本プロレス蔵前国技館で藤波の保持するWWFジュニアヘビー級王座への挑戦も間近になっていたことから、剛との防衛戦は藤波戦へ向けての布石の意味も込められていた。31日の後楽園大会は生中継となり、当時東京12チャンネルで放送していたアクションドラマ「ザ・スーパーガール」に出演していた女優がゲストとして招くなど、田中プロデューサーだけでなく、東京12チャンネルも国際プロレスの特番に大きな期待をかけていた

本来ならホームである国際プロレスがアウウェイから乗り込んできた新日本プロレスを迎え撃ち撃退するのが理想的だったが、IWAタッグ選手権では木村健吾が場外の浜口にプランチャを放った際に、剥き出しの床に後頭部を強打して失神してしまう。木村健吾も全く立ち上がれない浜口を無理やりリングに上げて攻撃も、レフェリーが浜口が動けないと判断して試合を止め木村健吾組の反則負けとしたが、木村健吾と永源は「レフェリーストップで自分らの勝利だろ!」と納得いかず、失神している浜口を蹴りつけ、井上とも乱闘を繰り広げる、浜口が畳の上に乗せられて退場する姿を見て、館内は暗い雰囲気が立ち込め、浜口自身も右脚骨折と脳震盪で長期欠場を余儀なくされてしまう。

そして国際プロレスにとって期待をかけていた原vs剛は、剛が国際プロレスを去った理由の一つが原の入団にあったため、その恨みがあったのか剛は原の顔面にビンタを浴びせると、原は意識を飛ばしてしまったことで剛が一方的に痛めつけ、場外戦になると剛はテーブルめがけてアトミックドロップを敢行するも、レフェリーだった小鉄がこれでは試合にならないと判断して試合終了のゴングを鳴らして剛の反則負けと裁定を降し、納得いかない剛は小鉄レフェリーに詰め寄るも、小鉄は「ふざけるな!」と剛にビンタを食らわせ、原を引き立たせずに一方的に叩きのめした剛に怒り、バックステージでもブッカーの草津が国際プロレスから逃げ出した剛に一方的に痛めつけられた原に「あんなビンタでビビりやがって!」とビンタで制裁して、精彩を欠いた原を恫喝していたが、剛にしてみれば原を可愛がっていた草津の眼前で原を一方的に痛めつけたのは溜飲の下がる思いだったのかもしれない。

ニックvs大木のAWA世界ヘビー級選手権はベテラン同士の試合でもあり、ニックが現役の世界王者でもあったことからピークの過ぎていた大木相手に上手く引き立たせ、1-1の後で両者リングアウトとなってニックが防衛したが、肝心のメインの木村vsパワーズは特別レフェリーとしてルー・テーズが裁くも、パワーズ足攻めに木村が大苦戦を強いられ、必殺のパワーズロック(8の字固め)の前に追い詰められてしまう。木村はパワーズロックをかけられたまま場外へ転落して脱出したが、パワーズの鉄柱攻撃を受けた木村は流血、それでも木村は場外でのパイルドライバーを敢行して場外カウントギリギリでリングに滑り込んでリングアウト勝ちとなるも、館内は完全にピークを過ぎていたパワーズに木村が苦戦したことで失望の声が浴びせられた。

肝心の視聴率もゴールデンタイムで特番を組まれたのにも関わらず8.5%と微妙な数字に終わったことで、東京12チャンネル側の期待を大きく裏切ってしまい、これまで出されてきた特別強化費も打ち切られてしまう。3月31日の惨劇の余波は続き、4月3日の新日本プロレス蔵前国技館大会で原が藤波の保持するWWFジュニアヘビー級王座に挑戦したが、藤波の三角絞めの前にギブアップを喫し、原のジュニアヘビー級路線も頓挫してしまい、格落ちした新日本の選手に大苦戦を強いられ、頼みの綱だった原も藤波に完敗を喫したことで、国際プロレス全体としても大ダメージを負ってしまった。

しかし、新日本プロレスとの対抗戦は辞めるわけにはいかず、浜口が負傷欠場したことを受けて、IWAタッグ王座は返上され、国際プロレスと新日本プロレスの間で王座決定戦が行われ、国際プロレス側は井上のパートナーにはベテランの寺西が起用されるも、新日本プロレスが差し向けたのはストロング小林と永源で、井上とストロング小林は同期で仲が良かったが、ストロング小林が国際プロレスを退団して新日本プロレスに参戦したことで、井上は「あれは人間として、絶対に許されない!」として公言していたことから関係は険悪となっていた。王座決定戦は6月29日の後楽園で行われ、1-1の3本目でジプシー・ジョーが乱入して4選手を無差別に襲撃、そのドサクサに紛れてストロング小林がリングに戻ってリングアウト勝ちを収めて王座を奪取、7月15日の静岡では浜口が復帰して井上との和製ハイフライヤーズとして挑戦し、1-1の後の3本目でストロング小林のイス攻撃がレフェリーの小鉄に直撃したことで、ストロング小林組が反則負けとなり王座は奪還に成功、井上とストロング小林は互いに試合に徹したことでケンカマッチにはならなかったが、反則絡みの裁定だったこともあって国際プロレスにとってもスッキリとして勝ち方ではなく、後味の悪さが残ってしまった。

1980年10月から国際プロレス中継も土曜日夜8時の枠へ移行することになった。土曜日夜8時はTBSで放送されていた「8時だヨ!全員集合」の圧倒的な視聴率の前に日本テレビの「全日本プロレス中継」が撤退を余儀なくされていた枠だった。(続く)

(参考資料 辰巳出版 流智美著『東京12チャンネル時代の国際プロレス』ベースボールマガジン社『日本プロレス事件史Vol.11 対抗戦・天国と地獄』)

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