右脚骨折…ラッシャー木村運命の金網デスマッチ


1970年10月8日、国際プロレス大阪府立体育館にてラッシャー木村vsドクター・デス(ムース・​モロウスキー)による日本初の金網デスマッチが行われた。国際プロレスは未来日の外国人をオファーするファン投票「あなたがプロモーター」を実施し、投票で1位となったスパイロス・アリオンを招聘してサンダー杉山の保持するIWA世界ヘビー級王座へ挑戦させるはずだったが、ライバル団体の日本プロレスの妨害でアリオンは来日せず、代替カードとして用意されたのは木村vsデスの遺恨決着戦で、木村の希望で日本初の金網デスマッチとして行われ、木村が勝利を収めた。しかし試合は当時中継されていたTBSで放送されたものの「残酷だ」と抗議が殺到し、以降はTBSでは金網デスマッチの放送はなされなくなってしまったが、吉原社長は「金網デスマッチは生でしかみられない」と逆転の発想を思いついて、木村を金網デスマッチの鬼として売り出すことにする。当時の国際プロレスは豊登は引退しており、ストロング小林が提携していたAWAに長期遠征中で不在のため、日本勢は杉山とグレート草津だけと手薄だった。そこで8月に海外遠征から帰国したばかりの木村をトップの一角して売り出すために金網デスマッチを代名詞にして売り出そうとしていた。

12月12日に東京・台東体育館で金網デスマッチ第2弾の開催を決め、木村の相手としてオックス・ベーカーを招聘した。ベーカーはミズーリ州セダリアの出身で1964年5月に30歳でデビュー、最初こそは善良な農夫キャラとして売り出されたが、193㎝と130kgの巨漢を見込まれてWWWF(WWE)へ転出してからヒールとなり、1969年にカナダ・カルガリーからのブッキングで国際プロレスに初来日、まずまずの戦績を残すと、アメリカへ帰国後はスキンヘッドにして眉毛や髭を伸ばし鬼面にモデルチェンジを果たしてカンザスではトップヒールとして大活躍していた。

12月12日当日は東京体育館では日本プロレスがインターナショナルタッグ選手権として(王者)ジャイアント馬場、アントニオ猪木のB・I砲vs(挑戦者)ジン・キニスキー、ジョニー・バレンタインというビックカードが組まれており、B・I砲の防衛戦に対抗するのは金網デスマッチしかないということで、木村vsベーカーの金網戦をラインナップしてきたのだ。当日は東京体育館で開催されていた日本プロレスは9000人満員を動員したのに対し、台東体育館はキャパが小さかったものの吉原社長の狙い通りに金網デスマッチを見たさに5000人超満員札止めを記録、過去国際プロレスは都内で興行を開催しても、超満員札止めにはなったことがなく、また後楽園ホールを含めてなかったことから、最初で最後の超満員札止めとなった。

ところが試合となるとベーカーが木村を金網に打ち付けて流血させ、ベーカーのセコンドであるボブ・ウインダム(ブラック・ジャック・マリガン)がイスをリングに投げ入れる。イスを手にしたベーカーは制止に入るレフェリーをも噛みついて流血させたうえでイスで一撃を加えてKOしてしまうと木村にも一撃を加え、ベーカーは横殴りで木村の右足にフルスイングしたうえで何度も殴打して、木村は激痛に顔をゆがませる。

木村の右足に大ダメージを与えたベーカーは逆片エビ固めで追い詰めにかかったが、何とか脱した木村は十字チョップ、パイルドライバーと畳みかけてからスリーパーで絞め落とし、失神KOで辛くも勝利を収めたものの、歩けなくなった木村は試合後に救急車で病院に搬送され、右脛を3か所完全骨折するという重傷を負ってしまい、即入院で右膝から右足首まで分厚いでギブスで固められてしまった。

木村はクリスマスまで寝たきりだったが、クリスマスが過ぎるとリハビリを開始、たまに見舞いに来たアニマル浜口を誘い、病院を抜け出して小料理屋で酒を飲むなど息抜きをしていたが、そこで働いていたのが初枝さんで、これが縁となって浜口が初枝さんに一目ぼれして交際を開始した。

一方、木村不在の国際プロレスは杉山、草津でどうにか穴埋め出来たものの、まだ小林が帰国していなかったこともあって、日本陣営は手薄という状況のままで3月2日東京体育館でビックマッチを開催することになったが、日本プロレスも3日に開催することになっていた蔵前国技館大会を急遽1日前倒し2日に変更して興行戦争を仕掛け、カードも馬場&猪木vsアリオン&マスカラスのインターナショナルタッグ選手権を用意する。これまで国際プロレスは日本プロレスから何度も興行戦争を仕掛けられてきたが、今回は日本プロレスに横取りされたアリオンが出場していたこともあって国際プロレスにとって絶対負けられない大会となるも、発表されたカードはAWAから参戦したマッドドック・バション&ブッチャー・バションが保持するAWA世界タッグ王座に草津&杉山が挑戦することが決まっていただけで日本プロレスに対抗するにはカード的に弱かった。

そこで木村は肝心な時に欠場してしまった責任を痛感しただけでなく、東京プロレス崩壊後、行き場を失っていた自分を拾い、何度も励ましてくれた吉原社長の恩義に報いるために、まだ右足の完治もままならない状況で「社長、3月2日の東京体育館は死んでも出ます!金網デスマッチをやらせてください」と直訴、吉原社長も木村の意志を汲んで3度目の金網デスマッチを組むことになったが、吉原社長にしても日本プロレスに対抗するには金網デスマッチに頼らざる得ない状況でまさしく苦渋の決断だった。しかし右足を骨折した木村がどこまでやれるか未知数だったことから、吉原社長は急遽パリへ飛び、修行中だったマイティ井上に一時帰国してビル・ミラーと対戦することを命じ、井上自身も一時帰国だけでなく、大物ビル・ミラーとの対戦を命じられたこともあって驚きの連続だった。

木村の相手は黒覆面のザ・クエッションとなったが、木村はシリーズには参戦せず金網デスマッチのみの参戦だったこともあってクエッションとの絡みはないことから、金網デスマッチへの遺恨ドラマが全然出来ておらず、木村が骨折が十分に完治していないまま右足を固めたままリングに上がることを疑問に思う者も少なくなかった。試合は木村もブルドッキングヘッドロック、パイルドライバーや十字チョップが使うことが出来ないため苦戦を強いられ、金網に叩きつけられて流血するも、クエッションをスリーパーで絞め落としてKO勝ちを収めて勝利、試合後にはクエッションのマスクを剥がして正体はランディ・サベージの父であるアンジェロ・ポッフォであることを明かした。

だが、興行戦争は木村が強行出場にしたにもかかわらず、3000人しか動員できず、日本プロレスはアリオンよりマスカラスの方が人気を呼び9000人を動員したこともあって、馬場と猪木だけでなくマスカラスも要した日本プロレスの圧勝に終わり、勝った木村も代償が大きく、試合後はまた歩くことも出来ず、用意された畳の上に乗って退場、それでも右脚が十分に完治しないまま1ケ月後の「第3回ワールドリーグ戦」にエントリーしたが、無茶が祟って骨折した2か所がズレてしまい再び欠場、東京に戻って再び右足をギブスで固める結果となってしまった。それ以降は右膝の負担を軽減するために左膝にも負担をかけて両膝を痛めたことで、両膝は木村のウイークポイントになり、また両足のバランスが崩れたことで腰も痛め、長年に渡って腰痛に悩まされる要因にもなってしまった。

木村の足を折ったベーカーは1972年にジョージアでレイ・ガンケルと対戦し、試合中にガンケルが心臓麻痺で倒れなく亡くなったことで、ベーカーは「木村の足を折っただけでなく、ガンケルを殺した」ということで悪名が高まってしまい、1975年に全日本プロレスにエース外国人として来日し馬場の保持するPWFヘビー級王座に挑戦したが、2-0のストレート負けを喫して期待外れに終わってしまう。1978年8月には国際プロレスに再び参戦して足を折った木村と抗争を繰り広げ、金網デスマッチだけでなく、チェーンデスマッチ、テキサスデスマッチで対戦した。1980年11月には新日本プロレスに参戦して、NWFで抗争を繰り広げていたジョニー・パワーズと組んで「MSGタッグリーグ戦」にエントリーしたが、リーグ戦にはアンドレ・ザ・ジャイアント、スタン・ハンセン、ハルク・ホーガン、ボブ・バックランド、タイガー・ジェット・シンなどトップ外国人選手が揃っていたこともあり目立つ存在ではなく、パワーズが既に全盛期を過ぎていたこともあって公式戦は連戦連敗、猪木とのシングル戦が組まれたものの3分足らずで敗れただけでなく、試合後に猪木を襲撃すべくハンセン、ホーガン、シン、上田が乱入てベーカーは邪魔だと4人から追い出されてしまった。全日本参戦時に初来日したハンセンにベーカーは何かと世話したが、そのハンセンに邪魔者扱いされてリングから叩きだされたのは皮肉だったと思う。おまけに新日本とギャラを巡ってトラブルとなって、リーグ戦を全戦こなさないまま途中帰国するなどの憂き目にあったことで、国際プロレスではエース格でも、新日本と全日本では全く通用しないというイメージを与えてしまった。ベーカーは1988年に引退し、後進の指導やレスラーOBたちが集まるイベントにも参加したが、2014年10月24日に死去、80歳の生涯を閉じた。

国際プロレスはノーテレビでの金網デスマッチを売りにしたものの、1974年に放送が打ち切りになるまでTBSでは金網デスマッチは放送されることはなく、東京12チャンネルで放送されるようになってから、やっと金網デスマッチを放送され、国際プロレスも金網デスマッチを売りにしてノーテレビの地方大会でも頻繁に開催するようになり、木村以外の選手も木村に負担への負担を軽くさせるために金網の中へ入っていったが、乱発したことでマンネリ化を招いてしまい、金網デスマッチを組んでも観客が入らないようになっていった。

1981年に国際プロレスが崩壊すると金網デスマッチは長らく封印されたが、全日本女子プロレスが1990年9月1日と11月14日にブル中野vsアジャコングで金網デスマッチが行われ、ブルが金網最上段からダイビングギロチンドロップを投下して大きなインパクトを残し金網デスマッチの存在を再び大きくアピールする。

その後、DRAGON GATEでも年に1回サバイバル形式での金網デスマッチが行われるなど、国際プロレスから始まった日本における金網デスマッチは様々な形で現在でも残っている。

そして6月26日、ABEMA配信マッチとして中嶋勝彦vsマサ北宮による敗者髪切り金網デスマッチが行われることになり、ゲスト解説にブル中野が招かれることになった。

木村はレスラーとしてのキャリアをNOAHで終えたが、木村が数々の激闘を繰り広げた金網デスマッチで中嶋と北宮がどんな激闘を繰り広げるのか…

(参考資料=ベースボールマガジン社「日本プロレス事件史 Vol.21 『英雄、無惨』)

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